足利兄弟
義尚の後継者には、二人候補がいる。一人は、足利義視と日野良子の長男、義材。もう一人は、義政に関東に派遣され、鎌倉入りができず堀越公方になった足利政知の次男・義澄だ。
義材が十代将軍になれば、大御所として義視が君臨する。細川京兆家(宗家)当主たる政元には面白くなく、彼は義澄を推した。だが、日野富子と畠山政長は義材を推す。ここで両派は対立し、結果、義材が十代将軍に決定する。義視と義材は延徳元年(一四八九)四月に入京。
次期将軍は義材に決定したものの、義政は、義尚の死後、政務はおのれが執ると宣言し、実際、二回中風で倒れながら、その死(一四九〇年正月)まで、執務した。
義視と義政は和解したものの、まだわだかまりがあった、そうとも言われる。なにぶん、最晩年の人間だ。近江での義尚や奉公衆の振る舞いを聞き、まだまだ自分が執務せねばならないと義務感に駆られたのかもしれない。
ーー義視が君臨すれば、また日野家との仲がこじれると警戒した可能性も高い。
ともあれ、永遠に生きるものはない。長年、風流と豪宕、ままならぬ政務に挑んだ義政も没し、義材が十代将軍になる。
これが延徳二年(一四九〇)七月五日だ。
その一月前から、義視と富子が険悪になっている。ーーーこれはもう、日野家の重さを笠に着た富子が原因だ。そう考えた方がいい。
富子は、同年四月末、義材と将軍の座を争った義澄へ、かつて義尚が暮らしていた小川御所を譲渡した。つまり、将軍の御所を義澄に与えたわけであり、義視・義材への背信行為以外の何物でもない。
富子のこの行動については、かつて不仲で、西軍方に付いたこともある義視と義材が暴走しないように牽制した、そう解釈されている。ーーそれにしても、ひどい。兄の勝光を排除しようとした行動を未だに根に持っていたのか、どうも、彼女の行動には、幕府の闇将軍たる日野家の思い通りにならないはずがない、という思い上がりが透けて見える。この時代は、本願寺実如が宗主だろうか? 九代実如上人は、勝光の猶子であり、その点からも、彼女の自信を補強していたのかもしれない。
だが、当然、義視は激怒した。
(姉上はどこまでやるおつもりなのか!!)そもそも、義視が富子に悪感情を持っていないはずがない。自分と兄・義政の仲は決して悪くはなかった、間に入るものたちが自分たちを疎遠にしてしまったのだ。そう言った「間に入るもの」の最たる存在が、富子ではなかったか?
延徳二年(一四九〇)五月十八日、義視は小川御所を破却、さらに、富子の所領を差し押さえた。
闇将軍と正将軍一族の相克である。
まだ、義材は将軍になっていない。
この一件で、義視と富子は対立した。そうすると、かつて義澄を推した政元と近しくなる。
延徳二年(一四九〇)七月五日、義材が十代室町将軍に宣下される。義視は、京兆家の実力者であり、山名宗全の孫でもある政元と接近すべく、彼の屋敷で将軍宣下の儀式を執り行った。だが、政元は、儀式の一日だけ管領になり、また空席にしてしまっている。
こうして、十代将軍足利義材と、大御所・義視の二頭体制が発足する。義視は、しばしば義材の執政に意見したが、義材はこれを重んじており、二人の仲は良かった。
だが、義材が将軍になってわずか三ヶ月、十月には、義視は腫れ物を患い、体調を崩し、床につく。義材の狼狽ははなはだしく、義視が安眠できるよう御所内では足音を立てることを厳禁にし、これを破ったものに激怒して、義視がたしなめることがあるほどだった。
義材は、名医という名医に声をかけ、つぎつぎと担当医を交替させて治療に当たったが、義視は回復せず、延徳三年(一四九一)正月、御所で没した。享年五十三歳。
(つくづく、世人に振り回されましたな。兄上)
西軍大将軍をも務めたことのあるこの男は、苦笑して逝ったかもしれない。




