千寿王の葛藤
第一期秦氏政権・鎌倉幕府
第二期秦氏政権・室町幕府
それはそうだろう。武士は、帰化人の文化なのだ。ーー関東は古来から渡来人の入植地であり、新羅郡高麗郡の地名があり、その後も「秦」「幡」の地名を多く遺した。
そんな場所で興った「一所懸命」武士団が、帰化人でないはずがない。
承久の乱で朝廷を下した鎌倉幕府の主要メンバーはのこらず後戸の客に該当する。
その鎌倉幕府が倒れる戦乱を制したのは、執権北条氏の同族といってもいいくらい綿密に姻戚関係を結んでいる足利氏だ。
室町二十一屋形・・三管領、四職、御相伴衆、国持衆もまた、ほぼすべてが、渡来人と後戸の客、、ーー明確に違う匂いがするのは、上杉氏と土岐氏だけだ。
依然、武家政権は、秦氏の政権だった。
日本史は、まだ八幡宮総社・宇佐八幡宮の境内から出ていない!!
首脳部のほとんどが、その祭神・八秦神の眷属である。
補足すれば、足利庶流は、そのポジションから、鎌倉期から、秦氏政権のメンバーと、後戸の客同士と姻戚関係を結ぶことが多く、少なくとも、室町幕府成立時は、後戸の客と規定にするに足る。そうかんがえられる。ーー以後、どのくらいスクロールアウト同盟の婚姻を結んだかによって、後戸の客かどうか左右されるが、妻不詳が多い。ーー本当に多い。
この点、女系で構成されるスクロールアウト同盟としては、変動がなく、本当にその後も秦氏同士で結びついているのか分からない。
『だが、その緒戦、趨勢を決する戦果があがる。武田信光と小笠原長清ひきいる五万余が、大内惟信のひきいる宮方二千を撃破したのだ!! [この長清は小笠原氏祖、父が佐竹氏の血を引き、母は三浦氏で、なんとあの礼法の小笠原家も、ずいぶん秦氏と縁が深い]』 拙稿の承久の乱の箇所、抜粋だ。小笠原長清は小笠原氏初代、父が奥州藤原氏と合流した佐竹氏の子であり、母は良文流三浦氏、妻も良文流上総氏である。ーーやはり、微妙に秦氏と距離を取りたがっている縁戚で、面白い。良文流は、積極的に秦氏と結びつくが、為憲流傍流であり、ちょっと縁故が薄い印象である。その子供が清盛の孫をもらっている。ーー余白を空けたがるのだ。
小笠原氏は、その後、阿波に分家ができる。南朝に属していたものの、それから細川氏に仕えた。この系譜から、三好氏が出る。石見にも分家があり、同族と結婚したりして、やはり積極的には秦氏に接近しないが、工藤氏から出た吉川氏を迎えたりしている。
安芸武田氏は、初代氏信から、信在(妻不詳)信繁(同上)元綱(同上)元繁(正室・大内氏養女、継室・京極氏流尼子氏娘)光和(正室・工藤氏流吉川氏娘)・・という風につづいていく。
元寇、文永の役の後、高麗に報復の軍を出そうという計画が持ち上がった。
『当初の予定では、高麗侵攻作戦は、安芸国守護・武田信時に指揮をとらせる予定だった』
『祖母が、秀郷流秦氏娘』
『くわえて、武田信時から数代、安芸武田氏は北条氏名越流、結城氏(千常系)二階堂氏(為憲流)と、後戸の客と縁組みする。安芸国守護、西国という地勢上もあろうが、ひょうすべの緯である』
拙稿の抜粋。
安芸武田氏は、後戸の客なのだ。
さて、室町二十一屋形は、スクロールアウト同盟で固められている。
それならば、足利将軍家はどうなのか、という話だ。
尊氏は、北条執権の鎌倉幕府を亡ぼしたが、義詮は、ひょうすべ史観のなかでは頭を抱えている。
義経、頼朝、清盛。
源平の首魁たちの周囲は、真夏流八幡神族と姫大神の眷属で固められている。ーーやはり、後戸の客の盟主たるもの、これら、息長氏や高階氏の系譜とつながらなければ、格好が付かない。
それが共通認識で、だから、宇佐八幡宮大宮司家と同族とされる大神氏から出た北条執権は、鎌倉将軍の補弼として幕府を運営した。
足利家は、累代、その北条氏と縁組みすることで、将軍家御門葉とはまた別の権威を獲得していた。
当然、それはもう通じない。ーー自分の代は、まだいい。しかし、代が下るにつれて「北条」はブランドでもなんでもなくなっていく。少なくとも、将軍たるものの家格とは無関係になる。
ーー南北朝時代を深掘りすることで、本稿も思わぬ収穫を得た。真夏流、藤原北家の八幡神族、八幡太郎義家がその娘を迎え、頼朝や義経にその血が色濃く流れていること
平家は平家で、清盛は、系図上真夏流の孫であり、どういう意図か既存史観では分からぬ高階氏娘を正室に迎えている。ーー同時代の真夏流の当主は高階氏の血筋である!!
源平が見えてきているのだ。
ここで、作者は『尊卑分脈』事件という新たな用語を加えたい。
『そんぴぶんみゃく【尊卑分脈】
南北朝時代に編纂された系譜集。原題「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」。巻数不定。洞院公定ら洞院家の人々の編。後人による補訂部分も多い。源・平・藤・橘その他代表的諸氏の系図を集成したもの。注記や主要人物の略伝などを添える。批判の余地はあるが、信頼度は高く、史料的価値が高い。』
(コトバンク 出典・精選版 日本国語大辞典)
南北朝時代後期に編纂されたというから、まだ室町幕府になっていない、新鎌倉幕府の頃だろう。
新たな幕府、新たな朝廷が成立した。それにともなって、家系を編集したのだ。
当然、馬頭の鬼どもが手を加えないはずがない。ーーどこの馬の骨のものどもにとって、有力な皮肉をまとえるのなら、それにこしたことはない。
もう、北条氏はブランドではない。源平時代の主要人物を調べる限り、どうも、武家は、宇佐八幡宮の祭神とその眷属に仕えている。用語ラッシュになってしまうが、とりあえず、この習俗を、王権神授説になぞらえ「武権神授説」と名づけよう。
向後の課題になってくるのだ。
義詮は、この武権神授説をどうやって満たすかで、頭を悩ませた。ーー結果、彼は、こういう場合、当然やるべき二つの策を講じた。
・一つ、足利の家格を引き上げること
・一つ、足利と競合する武家の家格を引き下げること
この二つである。




