第二期秦氏政権・室町幕府
では、戦国時代の出来でそれどころではなくなるまで、室町幕府が准戦時体制だった、ということを踏まえて、その体制を見てみよう。
義詮の時代では、まだ新鎌倉幕府。その職制は、ほぼ鎌倉幕府のものを踏襲している。建武式目を基本理念に、御成敗式目を基本法とし「建武以来追加」の新法で補った。
鎌倉幕府は全国の武家と、個別に主従関係を結び「御家人」は、将軍家の直臣に他ならなかった。
このあり方が、右の事情(南朝の強勢)で崩れ、各地の守護大名が、武家と主従契約を結ぶ、その守護大名間の調停者として幕府は立つ、というあり方が基本になった。
将軍家直参御家人、というあり方を終わらせた点、やはり建武新政の画期を感じる。
九州探題管轄の十一ヶ国、鎌倉府管轄の十ヶ国を除いた諸国は「室町殿分国」とされ、ここが、幕府の政治的権限の及ぶ範囲だった。
ーーーやはり、ずいぶん少ない気がする。東の国境は鎌倉府との境、駿河のあたりだ。西は南朝の勢力地である九州に探題が置かれ、幕府の権が及ばない。
この限定された範囲でやりくりせねばならない。ーーなにやら、後日の戦国乱世が、その雛形が用意されている。
ーー鎌倉時代黎明期の十三人の合議制メンバーは、出自を辿れば、いずれも秦氏か渡来人系・・スクロールアウト同盟だった。
それでは、室町幕府はどうなのか?
室町幕府の場合、兎角、足利家庶流がはばを利かせている。斯波氏を筆頭に、細川、仁木、一色、畠山、今川、石塔、吉良・・これら、どこかで聞いたことのある氏姓は、足利家庶流であり、つまり、北条氏ともさんざん縁組みしている河内源氏・真夏流の末裔だ。立派な後戸の客である。山名氏は新田氏庶流で、新田氏が足利氏同族であることをかんがえれば、同じ扱いでいいだろう。
まずは、管領。これは、モトモト執事と呼ばれていたポジションだ。将軍に次ぐ立場で、天下を管領する。ーー高師直の後継者とかんがえると、なかなか曲者がそろいそうだが、ここは、足利家庶流で占められている。
三管領、ともいわれる管領職は
斯波氏(足利庶流、越前、尾張、遠江の守護職。三管領筆頭)
畠山氏(同右、河内、越中、紀伊の守護職)
細川氏(同右、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職)
が就く。
これらは、いわば徳川御三家のようなものだろう。ナンバーツーだけに、いや、共同統治者であるだけに、一族のものを当てている。
だが、十一代将軍足利義澄を細川氏が擁立する頃には、畠山氏と斯波氏が没落し、細川家(京兆家)が、管領職を独占、幕府内の藤原摂関家のごとき位置に就く。
次いで「四職」侍所所司であり、軍事招集権・指揮権のある四氏である。京都での徴税や警察行為も管掌となる。
赤松氏(村上源氏、秦氏)
京極氏(佐々木源氏、祖先に蒲生氏娘)
一色氏(足利氏庶流)
山名氏(新田氏庶流)
となっている。
このあたりで、創立戦争の英雄である外様が入ってくる。だが依然、スクロールアウト同盟で占められている。
しかし、この「四職」侍所所司には、今川氏(足利支庶流)と土岐氏(美濃守護、美濃源氏)が選ばれることがある。
土岐氏は、今のところ、どうも後戸の客と言えるほどの縁故がない。スクロールアウト同盟のほころびとも言える。祖先が源頼光にいきつく武強の家だ。
その他に、四職と同列の「御相伴衆」がいる。これは、赤松、京極、一色、畠山、細川山名、と三管領四職にかぶっている。同じ細川氏でも、京兆家と御相伴衆の讃州家のように分家筋だったりする。
ただここに
大内氏(周防、長門、肥前、筑前の守護職)
がいる。大内氏は、祖先は多々良氏という渡来人だ。後に日明貿易の大家となり、足利義満とも抗争する。当初南朝だったが、尊氏が周防・長門守護を条件に大内弘世を北朝へ引き込んだ。この弘世に、抜け目なく宗像氏が婚姻しており、後日大内氏被官の性格を強める。麻生氏や城井氏も大内氏傘下だったことは、すでに述べた。
やがて中国から北九州十ヶ国に覇を唱え、それが陶晴賢に、毛利元就に継承されていくことをかんがえれば、まこと巨大だ。
さらにここに「国持衆」がつづく。これらが「室町二十一屋形」と称される「大名」クラスである。
・斯波氏(大野家)細川氏(上泉家、下泉家)山名氏(伯耆家、石見家)
・武田氏(安芸武田家)
安芸武田家は元寇の頃から後戸の客の性格が強い。何度か出ている武田信武(母結城氏妻二階堂氏)も安芸武田家であり、その子・信成が甲斐守護、氏信が安芸守護となる。
ーーー武田信成が甲斐守護、という点に注目していただきたい。
そこから、嫡男を辿っていく。信治─信満─信重─信守─信昌─信縄─
信虎─
晴信(信玄)
なんと、武田信玄も安芸武田家の末裔である!!
これは少々驚いた。とはいえ、武田家はなんといっても清和源氏の名門だ。ところどころにスクロールアウト同盟の横線が入っていなければ、後戸の客とは認めがたい。
ただ、安芸武田家は、濃密に後ろの客の性格を備えている。それ自体は間違いない。
さて、氏信の方が安芸守護になっているが、最近の研究では、甲斐武田氏ではなく、この安芸守護・氏信の方が嫡流なのだという。この嫡流・安芸武田氏は、スクロールアウト同盟を強化しながら、とんでもない人物を出している。
中国王・毛利家の参謀、安国寺恵瓊だ。
さらに下って、高杉家も分家筋であり、高杉晋作が出ている!!
ーーーなにやら、ここまで来ると、秦氏が日本史の真の主役だと辿っていく旅路が無意味に思えてきた。
もうこの時点で、抜きがたく後戸の客たちが、日本史の主役に躍り出てしまっているのだ!!
あとは、それは、その後裔や、そう標榜する馬頭鬼どもが、つぎつぎとメインステージに上がっていくだけである。
・源頼朝(真夏流藤原有綱娘の孫、妻は大神姓秦氏・北条政子)
・源義経(同右。千晴系奥州藤原氏に庇護される)
・平清盛(真夏流藤原有信娘の孫、妻は高階基章娘)
・北条義時(政子の弟、正室は秀郷流比企氏娘、継室は秀郷流伊賀氏娘)
・足利尊氏(足利氏は代々北条氏と姻戚関係、河内源氏、真夏流藤原有綱娘の子孫、正室は北条氏娘)
このあたりでもう、趨勢が決まってしまったのだ!!
あとは、その末裔を標榜するものたちが系図を継いでいく。
ーーまあ、だからと言って、後戸の客の活動が鎮静化するわけではない。
相変わらず、日本史はスクロールアウト同盟の上だ。
源平藤橘秦。
五番目の氏姓は、いきいきと日本史を形作っていく。
武田氏につづき「国持衆」を列挙する。
・冨樫氏(利仁流秦氏)
・上杉氏(藤原北家観音寺流)
上杉氏が食い込んだ。それは、足利氏としてはおろそかにはできまい。なんといっても関東管領、鎌倉府のナンバーツーの上杉氏が印象的だが、妻が不詳の場合が多く、後戸の客としてはなんともいえない。
・小笠原氏(甲斐源氏。後戸の客と多く縁組みする)
「礼法の小笠原家」として大成する小笠原氏は、甲斐源氏のプライドもあろう「おれたちを秦氏なんかといっしょにするな」という気概のある一族だ。だが、変事のある際は、積極的に後戸の客と結びつき、スクロールアウト同盟に加わって難を逃れた。
信濃守護という立ち位置故か、信濃の到底渡来人系とは言えぬ氏姓と結びつき、小笠原貞宗から数代、武田信成の孫を娶ったくらいで、秦氏からは遠ざかっている。そもそも妻が誰だか分からない代が多い。小笠原氏は永享十二年(一四四〇)あたりに、一族が分裂して対立した。外向きにスクロールアウト同盟を結ぶ必要が少なかったのかもしれない。
とはいえ、時代の激流が、否応なく、外界から迫る。
信濃の大名として信玄の侵攻に抵抗していた小笠原貞慶は、後年は信長に仕え、難しい世渡りを迫られた。そんな彼は、なんと
真夏流・日野輝資養女を正室にしている!!
おめでとう、小笠原家、だ!!
そして、八幡神族を迎えた小笠原家は、次の代に、松平信康、徳川家康の長男の娘をもらっている!!
安泰である。日野輝資養女ということは、一度養子にして家格を釣り上げるパターンだ。本姓は高畠氏、日下部氏をルーツとする。
朝倉氏も日下部氏を祖とするが、これは、九代開化天皇から発する一族で、鎌倉時代の朝倉広景という人物に至る系図が
開化天皇─日子坐王─山代之大筒木真若王─・・
と発している。
つまり、日下部氏は、間違いなく、日子坐王、息長水依姫の夫を経由している!!
海の国の眷属を、日野家が養女にした上で、小笠原家がもらっているのだ!!
めでたい、としかいいようがない。
婚姻は親の仕事であり、小笠原貞慶の父の代から、信玄の信濃侵攻が始まっている。
やはり、苦しくなればスクロールアウト同盟に連なる。小笠原氏は後戸の客だ。
そして「国持衆」の掉尾は
・河野氏(伊予守護職)
だ。
もちろん、これまで何度も述べているとおり、河野氏は、伊予の豪族・越智氏に発し、徐福先祖伝説がある後戸の客だ。
これにて、室町二十一屋形の紹介を終える。ーーー間違いなく、スクロールアウト同盟であり、室町幕府は、第二期秦氏政権なのだ!!




