再臨の後戸
さて、足利将軍家の足跡を追う。九代足利義尚は、義政よりも早く没した。ーーどうも、奇行の多い人物だったらしい。満十六歳、そして十七歳の時、髻(もとどり、髷の髪を束ねた部分)を断って出家すると言い出し、周囲を困惑させた。二十代になってからの六角氏征伐では、酒色にふけり、陣中で没している。死因は脳溢血だが、荒淫が原因という説もある。
ただ、容貌は非常に美しかったらしく「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」「緑髪将軍」などと記述されている。ーー畏れ多いが、どうしても、六十三代冷泉天皇が思い起こされる。病気で伏していたとき、大声で歌っていた。足が傷つくのもかまわず一日中蹴鞠をしていた。御所が火事になったとき、避難する牛車の中で、大声で歌っていた。・・こういった奇行の主だが、彼も、容貌は非常に整っていたという[彼の病弱さと不安定さが、安和の変の一因となる]
なにかそういう因果があるのだろうか。もっとも、足利義尚は、父義政がずっと実権を掌握していた、という事情がある。彼が髻を切って出家するといい、重臣の邸宅に籠もっていたのは、それも原因だろう。穿ち過ぎかも知れないが、出家するとわめいて重臣宅に籠もるあたり、建武の乱の際の等持院尊氏を彷彿とさせる。鎌倉に押し寄せる討伐軍を迎え撃ちもせず、浄光明寺に籠もって出家しようとしたのは、外界の辛い現実を遮断しようとする、パニック発作にも通じる処方だと作者はかんがえている。義尚の場合、義政という抑圧者の存在が、同じ行動に走らせたのではないか。
足利又太郎尊氏にとっての、足利三郎ども、か・・ーー
そういえば、幼い頃、応仁の乱という熾烈な跡目争い(そういう性格もある)に巻き込まれ、西軍の義視か、東軍義政の後継者であるおのれか、という切所に立たされた。この点も似ている。
その上で、ようよう義視が折れておのれが将軍となり判始め、執務開始となっても、実権は義政が握りつづけている。象徴的だが、判始めの義尚の花押は、義政が代筆していたと言われている。
確かに、気鬱になってもおかしくない条件がそろっている。さらに、日野富子も彼の諸事にたびたび干渉してきたため、母も倦み、遠ざけていた。親離れ、子離れという一般的な課題もあるが、富子としては、兄勝光とともに義政に日野家の威光を認めさせ、兄を排そうとした義視を退けた経緯がある。(義尚こそ)と、念を入れ、手中の玉のように接し、おのれの傀儡となるよう過度に干渉したのだろう。
二度の出家騒ぎが文明十二年(一四八〇)同十三年(一四八一)である。義政の方が折れて、彼は文明十四年(一四八二)東山山荘に移って、室町御所で義尚を独り立ちさせる。ーーだが、彼はまだまだ実権を手放しておらず、確執はつづいた。
そんな義尚が、人生の晩年期に起こした事業が、六角氏討伐だ。応仁の乱、その間進行する下剋上の風潮によって、幕威はおおいに揺らいでいた。これを立て直すべく断行した戦いだ。近江守護・六角行髙が公家の荘園、奉行衆領地を押領していたのが発覚、さらに寺社本所領押領も発覚して、これこそ下剋上、と、行髙を討つことで、悪風に歯止めをかけようとした。
義尚は、長享元年(一四八七)九月十二日、管領・細川政元(勝元の後継者)若狭守護・武田国信はじめ各国守護や奉行衆、そのうえ公家衆まで率いて、近江坂本へ出陣した。
公家まで動員しているあたり、盛事であり、デモンストレーションである。
(一罰百戒)
六角行髙の悪行を罰することで、下剋上の風潮を戒める。ーーこれには、無論、おのれを押さえつけようとする父母を容れないほどの権威を打ち立てる、という野望もあった。
だが、この六角討伐(長享の役)は、下剋上の勢威を明かし立てる結果に終わる。
二万を超える討伐軍を受けて、六角行髙は観音寺城を放棄して脱出、甲賀城へ移る。討伐軍は甲賀城をも陥落させるが、行髙は甲賀武士を率いて山中でゲリラ戦を展開、奇襲攻撃、夜襲、放火をくり返し、幕府軍を疲れさせた。
いわゆる、甲賀忍者の祖型がここにある。六角行髙は押領した土地を国人衆に与え、甲賀五十三家とか、二十一家(六角家から感状を授かった重鎮)とよしみを通じていた。彼らが連帯して行髙を保護し、幕府軍を翻弄した。戦いぶりを見ていると、どうも、楠木正成以来の悪党の戦法に似ている。甲賀地方では行商も盛んで、各地の情報を探っていたというから、運送や商人階級から立った正成と立場は似ている。
幕府軍は近江鈎(まがり、滋賀県粟東市)に滞陣し、右の顔ぶれだったため、実質上幕府首脳部として機能した。ここで長享二年(一四八八)五月、義尚が「義煕」と改名している。義尚という名前では天下を宰領するのにふさわしくないということだが、この一戦に賭ける意気込みが分かる。彼は、両親にいいようにされていた「義尚」から脱却しようとしていた。
この「鈎の陣」には、加賀守護・富樫政親も参加していたが、国元の一向一揆が盛んになり、急遽帰国。だが、一揆勢は十万とも二十万ともいわれる軍勢で、なんと、政親とその子家延を逆に殺してしまう!! 富樫家の家督は別のものが継いだものの、加賀国は、信長に征服されるまで九十年、一揆勢が支配する「百姓の持ちたる国」となった。
ーー霊界では、石清水八幡宮・・いや、近江八幡宮の八幡大菩薩が血相を変え、祇園感神院の牛頭天王を見たことであろう。
(おれは、、ーー侍階級に、馴染みすぎていた、ということか)
赤き角、頭上には弩・・智天使のごとき異形で、天使の輪のように兵器を戴く、牛頭六臂の、鏡と矛を携え、小癪や、応龍から得た苗刀(倭刀)まで佩いている、炎帝神農氏・・ーーー
黙然としていると、その巨躯は方広寺の大仏どころではなく、空陸に君臨する・・ーーーー
(いまや、侍は、まず侍者階級から始めたものたちは、かつての侍とは、別に成立しているのか!?ーーーーーーーー)
地侍。
国人。
鎌倉から建武政権を襲った連中が、中央政権を担い、政争に興じている間、国元では、かつての侍のようなものたちが、また台頭してきた!!
地方から、覆されるのだ、、ーーーー中央があぐらを掻いていると。
武家とか、武将とか、そんな立派な音読みをされる連中ではなかったのだ。
サムライは。
今や、兵頭蚩尤さえ、異形に映る。ーーかつては、色鮮やかな猩々緋や褐で彩った大鎧の武者たちに、この牛頭天王は、じつに馴染んでいたものだが・・ーーー
東山文化の侘びと幽玄に抑制されて、具足も渋く、機能性がそのまま表出したようなデザインに変遷している・・兵主さえ浮いてしまっている。
(お前は、それでいいのか? 兵主部にさえ、置き忘れられて)
スサノヲであり、八千戈神であり、牛頭天王であり、八幡神でもある。ーー古代以来の習合と、なお一本にまとめている集束力の図像は、答えない。
富樫政親の討ち死にが鈎に伝わると、義尚は、揺れた。ーーもともと、下剋上の悪風を粛然とさせ、幕威を轟かす出陣だ。
にもかかわらず、鈎に参加していた政親が、討ち果たされた。
(本願寺・・蓮如だと?)衰退していた青蓮院末寺本願寺の住持からはじまって、青蓮院の属する比叡山と対立、延暦寺から「仏敵」と呼ばれながら、近江、三河、越前、加賀、と、教勢を扶植して回り、本願寺を建て直した。一四七〇年代には富樫政親と手を組み「仏法の当敵」として、富樫家の内紛に介入、しかし、これが伸張しつづけると、政親は国人層を取り込む一向宗を危険視し、これと対決、かえって一向宗に包囲され、自刃することになった。ーーそんな、一向宗の指導者だ。
(三十人近い実子がいると聞く・・とんだ俗物ではないか)
考えてみると、浄土真宗は、下剋上の風潮にマッチしている。悪人正機は、べつに悪を是認する考えではないが、それだけに、新興階級として守護や本所勢力と対決しなくてはならない国人衆を救済する便法となっただろう。その説を聞きたいと講話に集まれば、そこには惣村を超えた信徒らが集まり、流通経済が目覚めさせつつあるヨコのつながりが涵養される。
一向宗という絆を媒介に、本来なら一生関わりを持たなかった飛び地の国々とも連帯できる!!
明祖・朱元璋も、もともとは白蓮教の僧侶だ。紅巾の乱は、白蓮教徒の乱・・この白蓮教が崇めたのが、末法の救済、摩多羅神にも通じる弥勒菩薩である。
宗教は偉大だ。新しいイデオロギーは、パラダイムは、宗教という最古の思想集団の外貌を借りて去来する。
本稿がファンタジー小説であることを思い出せば、近江八幡の八幡大菩薩、祇園感神院の牛頭天王は、大阪「石山」の地に、黒い牛にまたがり紙の面をつけた、二童子を引き連れた異形の神を見いだしたことであろう。
「シツシリシニ・シツシリシ・ササラサニ・ササラサ」
二童子が十波羅蜜の鼓を打ち、十界に舞う・・芸能のファナティックと結んだ古風の宗旨。
「摩多羅神ハ神カトヨ・歩ヲハコブ皆人ノ・ネガイヲミテヌコトゾナカリキーー」
末法の救済、摩多羅神。
阿弥陀堂「後戸」の神。
弥陀の本願は、この秦氏の神に後見されている。




