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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
鈎  まがり
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26/82

不可視の歴史

 応仁の乱で、幕権が失墜し、戦国時代が始まった、というのは、どうも、間違いらしい。たしかに、応仁の乱の爪痕は大きかったが、まだ、幕府は威信を保っていた。

 本格的に幕府が信用を失うのは、明応二年(一四九三)明応の政変で、将軍の廃擁立が起こってからだという。

 とはいえ、応仁の乱の影響は大きかった。奈良興福寺の別当(長官)尋尊は『尋尊大僧正記』を記し、応仁の乱前後の重要な史料を遺した。そこで『日本国は悉く以て(幕府の)御下知に応ぜざるなり』そう嘆かれる程度には、幕府の威信は失墜している。

 [この尋尊は『いくら頭をひねっても、どうしてあの乱が起こったのか分からない』というひどく体温を感じさせる言葉を記している。ーーまさしく、応仁の乱は、どういう理由で発生したのか、きちんと説明することが難しい。畠山家の家督相続がモトだが、しかし、それは、御魂合戦の段階で、畠山義就勝利となっている。以後山名宗全が傲岸な態度をとり、それに細川派が反発、両者の対立が顕著になっていくわけだが、そこから山名派の被官が細川派を襲撃、細川勝元が巻き返しを図り全国の大名に地方を侵略させる、と、この段階に、えらい飛躍があるのだ。おそらく、すでに全国に、南朝・北朝以来の因縁もあり、新興国人階級と旧来の守護、貨幣経済と農村経済、悪党・非人を含めた経済構造とそれをよしとせぬ価値観、そして家督相続の紛糾と、争いの火種がいくらでも伏在していたのだろう。応仁の乱の本質は権力争いではなく、社会変動で、山名宗全と細川勝元の対立を皮切りにそれが顕在化、旧来の価値観と新興の価値観が、あたかも旧教と新教の戦いのごとく、魔女狩り騒動のような狂騒を引き起こした。それが、あの乱の真実なのだろう。

 [そしてそれは、乱が終結したところで止むものではない。ーーパラダイム・シフトは進行中だ]

 

 この段は室町ひょうすべ拾遺であり、拾遺というのは「こぼれ話」という意味だ。こぼれ話のこぼれ話になってしまうが、海の国について、補足したい。

 どうも、シーパワーの活動は見えづらいが、姻戚関係を辿れば、彼らが陸の国にじょじょに深入りしているのがよく分かる。九州は、元来大陸の方を向いていて、そのシーパワーは、陸の抗争には無関心、そう捉えていたが、そうも言い切れないようになってきた。

 日本列島の特徴として、南北、東西に長く、同面積としては異様に奥行きのある形状をしている。これが、九州の陸の王権には、その争奪には関わらないという態度の原因になった。

 陸続きの方が、やっかいなのだ。習俗も発話もどこか違う連中が、延々割拠している。北九州から関門海峡を越え、中国山地を伝い、畿内というまた別種の文化圏に足を踏み入れて、ようよう中央とアクセスできる。それよりかんたんなルートで四国から淡路を経由する海伝いルートがあるが、実際、この経路では、伊予や阿波が畿内に影響を与えた。邪馬台国の所在地論争に伊予松山が挙げられる程度には、古代世界にも光芒を放っていた。

 ともかく、畿内と交渉するには中継地が必要で息切れがする。これに対し、朝鮮半島や支那大陸は、海北道中を通ってもよし、琉球や台湾経由で福建省(やはりこの州だ)に通じてもよし、格段にラクだった。もちろん、言語や習俗の違いは陸の国よりはなはだしい。しかし、向こうも、商売と割り切っているのだ。どちらも「国際」という多彩にしてドライな付き合いのなかで活動している。こちらのほうがよほど先進的で、気楽に付き合える相手だった。

 中央政権も、藤原氏が呉越と貿易をしたり、太宰府が日唐貿易をしていたりする。だが、刀伊の入寇(女真族の侵攻)三千人ほどの海賊団に九州を荒らし回られてから、国家間貿易は衰退する。ただし、支那では南宋が成立し、その貿易熱に応える形で、私貿易が敦賀や博多で、朝鮮を巻き込んだ三国間で盛んだった。ーー敦賀、という、あまり国外貿易では意識されない地点が隆盛だったことに注目したい。真事、海の国の活動は意表をつく。

 しかし、そこに、武家政権が噛んでくる。

 平忠盛だ。清盛の父親だが、その父・正盛の時代から、悪対馬源義親(妻高階氏)と抗争し、正盛自身の末娘も高階氏と結ばれているあたりから、ムナカタの誘導が透けて見える。私貿易、他の業者も日宋貿易で木材、硫黄、砂金、刀、などを書籍、陶磁器、絹織物、銅銭などに換えており、この商売敵を一掃するために陸の政権と手を組み、平家をして日宋貿易を国営化、おのれが顧問として牛耳ろうとしたのだろう。悪対馬源義親と結んだのも、彼の乱暴狼藉という皮相で、商売敵を襲撃させていたのかもしれない。ただ、義親は襲撃以上の働きができないと見限り、それを討伐に来た平正盛に乗り換えたのだろう。

 平忠盛は、貿易によって得た珍品を院に献上することで、近臣として取り立てられた。

 日本家紋研究会理事・日本家系図学会会員の田中豊重氏のサイト『武家家伝』から、平家政権期の宗像氏の記述を引用する。

 『十二世紀、保元・平治の乱が起った。保元の乱で後白河院に味方して勝利を収めた平清盛は、保元三年(1158)、恩賞として太宰大弐に任じられた。ついで大弐となった清盛の弟頼盛(実母は池禅尼、作者註)は、自ら太宰府に入り、日宋貿易の実権を掌握するとともに、九州の武士たちを平家武士団に組織した。このとき、宗像大宮司も平家の家人になったようだ。他方、宗像社領は八条院に伝領されており、その領家は平頼盛、預所は平家の有力家人平盛俊、現地の荘官は宗像大宮司であった。

 『平治の乱にも勝利した平清盛は、太政大臣にまで上り平家全盛時代を現出した。宗像大宮司は平家との結びつきを強め、一族の許斐(このみ)氏は平重盛(清盛と高階氏娘の子、作者註)に仕えて船奉行、船大将などをつとめた。また、大宮司氏国が平重盛と黄金三千両を宋国に遣わしたという金渡伝説が伝えられているが、これも宗像氏と平氏の強い結びつきから生まれたものであろう。』   (『武家家伝』宗像氏の項)

 真夏流、高階氏、平氏との連合がくみ取れる。

 だが、その平家も、武権神授説で関東の秦氏勢力を糾合した源氏に倒される。その前段階から、すでに抜かりなく、頼朝祐筆(僧侶昌寛(しょうかん)、高階氏)などを送り出し、源氏にも通じていた海の国は、昌寛娘が二代将軍源頼家側室に収まり、三男・栄実と四男・禅暁を生んだのを契機に、平正盛末娘と高階氏の間に生まれた高階栄子(後白河院寵姫)と連携、東(あづま)と京都で、源氏に取り入ろうとする[なお『尊卑分脈』では、この昌寛娘との間に生まれた四男・禅暁は、足助重長娘辻殿の子とされている]

 この流れを見ると、二代将軍頼家が鎌倉御家人を巻き込み北条氏郎党に殺害されたのは、北条氏の海の国への「手切れ」「退去勧告」だったのではないかと勘ぐってしまう。

 爾来、中央で家司として権勢を誇った高階氏は衰退、しかし、それでも、河内源氏足利家の執事に、高階氏より出た高氏を紛れ込ませていた。

 元寇に関しては、ムナカタも閉口した。本拠地をモンゴル帝国に塗りつぶされてしまってはたまらない。南宋とは私貿易のネットワークがあり、実際、宋人商人・王氏や張氏と二代にわたって縁組みしている。[当然、王氏や張氏のコネクションを通じて、取引先を紹介してもらい、販路を拡大していた]

 しかし、モンゴル帝国は、その南宋を叩きつぶしてしまった!! しかも、国防のために東国の武士が大勢進駐してきたため、密貿易もやりにくくなった。文永の役に先んじて、鎌倉幕府は悪党勢力を一掃しているが、ここには、水上交通・運送を生業とし、貿易に従事しているものたちも多く含まれていただろう。

 文永の役・・弘安の役・・ーー

 その後も鎌倉武士が九州に土着し、少弐氏や大友氏を代表とする御家人勢力を強化した。関東勢力というのは、畿内を飛ばして九州に結びつく生理がある。

 『網野(『異形の王権』著者網野善彦氏) ええ。ですから、東北の歴史家たちが案外、西の歴史家と相通ずるわけです。関東はどうも九州と相通ずるらしいという(笑)。ここまで言うと、また調子に乗りすぎると叱られるんですが、しかし、それは歴史的にみても、政治的な構図としては非常に古くからあるわけですね。後白河と奥州藤原氏、頼朝と九州とか、遠交近攻は事実としてありましたから。

 『司馬 そうです。鎌倉幕府が成立すると、頼朝は功績のあった御家人を西のほうへやりますね。そして、室町幕府が成立しても、また功績のあった御家人を西のほうにやる。頼朝の時代はほとんど九州一円に御家人が行きました。それで守護になり地頭になりました。それから兵庫県を含めた中国地方もほぼ御家人の勢力下に置かれた。これがないと、東西はもっと単純な際立ち方をするだけだろう。これがあってはじめて関東の風というのは西国に根づくわけです。』  (『日本人の原型を探る』司馬遼太郎他)

 それは、ムナカタも源氏を無視することができなくなるわけだ。一つには、武権神授説という価値観を共有しやすい後戸の客が、九州・中国地方には多い。そういう土壌もあったからだろう。

 弘安の役の後は、倭寇という新たな運動が選択肢に上がった。武装商人となって朝鮮半島沿岸や黄海沿岸を荒らし回る。ーーそう書けばピカレスクだが、まあ、政商にのみ貿易を許していた元朝の監視をかいくぐり、武力で万難を排除して貿易に励んでいた。

 暴力という選択肢もある、ということを海の国が学んだ時期だっただろう。

 宗像氏も、実際倭寇を率いている。

 そうこうしている内に、鎌倉幕府がガタガタになり、後醍醐天皇が立つ。しかしこれは鎮圧され、元寇の恩賞が与えられなかった不満もじょじょに薄らぎ、まだまだ幕府は安定している様子を見せていた。

 尊氏の蜂起に、高師直がどのくらい干渉していたのかは、よく分からない。ーーあれは、海の国も驚いたのではないか。

 (立つのか!?ーーー)

 同じ八幡神族(とはいえ、息長氏日野家に比べると影が薄いが)として、武権神授説にも通じている宗像氏のこと、足利尊氏が発揮しうる求心力は心得ていた。一応はその方面にも高氏が仕えており、尊氏が六波羅探題に弓を引いた時点で、尊氏との連携を決定、以後、一貫して宗像氏は尊氏・北朝に就く。

 幕府はまだまだ余命があったが、尊氏の蜂起により、これが縮まった。新田義貞が倒幕を成し遂げ、後醍醐帝が建武新政を始める。

 その建武政権にも尊氏が刃向かい、鎌倉で独立して蜂起した。

 宗像氏も、開いた口がふさがらない。

 (なんなんだ尊氏という男は)

 とはいえ、兵庫湊川の戦いで敗れた尊氏に、この師直を通じて連絡し、宗像大社で引き取った。このとき初めて尊氏の顔を見た大宮司は、定めし、この頃は尊氏が塞ぎ込んでいた時期だったので(こんな男が)という感を持っただろう。ーーいや、尊氏という男は、メンタルのどん底にあっても、烟々羅らしく、どこか福々しい人徳を感じさせていた、そういう挙措を崩さなかった。そう考えた方が彼らしい。

 ともあれ、すでに関東武士団の支持を取り付けている武権神授説に叶う河内源氏、それも、累代大神姓北条氏と縁組みしていた、おそらく意識的に武権神授説に適応していたサラブレッドだ。

 (鎮西でも、十分な支持を取り付けられる)そう判断し、宗像大社としても彼をバックアップした。

 結果、出来したのが、尊氏が香椎宮で『将軍、すでに自害をせばやと思したる気色に見えけるを、』となった多々良浜の戦いだ。押し寄せる宮方菊池勢を始めとした連合軍を迎え撃ち、『将軍は、香椎宮に取り上がりて、遙かに菊池が勢を見給ふに、敵は四、五万騎もあるらんと見えて、御方はわづかに三百余騎なり。』

 それなのに

 『搦手に廻りける松浦、神田(コウダ)の者ども、何をか見たりけん、将軍の勢のわづかに三百騎にも足らざりけるを、三万騎もあるらんとぞ見たりける。(中略)

 『さてこそ、俄かに叶はじと思ふ心付きければ、一軍(ひといくさ)もせずして、旗を巻き、冑(かぶと)を脱いで、降人に出でにけれ。

 『菊池、これを見て、いよいよ難儀に思ひければ、大勢の懸からぬ先にと(攻め寄せてくる前に)、急ぎて肥後国へ引つ返す。』

 こういう、造反と撤退に相成った。実際には、菊池方から寝返ったのは、松浦、神田のみならず、多くの裏切り者が出たという。

 足利尊氏を、海の国が支援している。宇佐八幡宮の祭神・応神天皇と神宮皇后(息長帯姫)と姫大神(宗像三女神)がそろい踏みで、それは、九州御家人への訴求力は強烈だろう。

 その後ほどなくして尊氏は九州を平定、再度の湊川合戦、その後京都を襲って、北朝から征夷大将軍に任じられる。

 この頃は、支那は、一三三三年に皇帝になった妥懽帖睦爾(トゴン・テムル)の時代である。元朝内部の政争が激しく、かつ地方では天災と疫病が相次ぎ、民心が離れていた。元の経済政策の一つに塩の厳格な専売制度がある。これが大反発を招き、塩の密売商人を中心にした蜂起が各地で発生していた。

 うむ。どう考えても、海賊による密貿易が盛況だっただろう。

 九州情勢は、倭寇(私貿易)も一枚噛んだものになっていたと思われる。宗像氏としては、尊氏に統一政権を打ち立ててもらい、その威を背景に国営貿易を牛耳りたいのだが、あいにく、百年継続する南北朝戦争のまだ序幕だ。

 それはそれで稼がせてもらうかと倭寇働きに励めば、なんと観応の擾乱(一三五〇~)により、高氏一族が衰退してしまう!!

 (東夷という連中は、いつも内部抗争でわれわれの計略を台無しにしてくれる!!)

 鎌倉幕府初期に、幕府御家人が自覚的に海の国の干渉を排していたとすれば、この頃も、同じことをしたのだろう。尊氏は、師直と直義のどちらの肩も持たなかったが

 (師直が殺されるのなら、それはそれだ)そう考え、後日、師直を討った上杉能憲に、演技で激しい批難を加えたことになる。ーーいや、加えなかったという研究もある。

 この頃に、宗像氏は大内弘世娘を室に迎えている。やはり、中央の高氏が排され、まだまだ南朝の抵抗も激しい。ーーというより、正平一統で、尊氏は南朝に降って北朝が廃されている。

 (中央はグチャグチャだな)

 宗像氏も呆れて、地元の有力者を貿易のパートナーに選んだのだろう。

 以後、宗像氏は大内氏被官のように、応仁の乱まで勤め上げた。日宋貿易・・それどころか古代から大陸とのつながりがある宗像氏は、貿易業務では重んじられていただろう。

 右の変遷を見る限り、日宋貿易が行われるようになったあたりから、海の国は一貫して中央への指向を持ちつづけている。シーパワーとランドパワーは対立する観念だが、お互いを無視できる時代ではなくなっている。

 地政学では、不凍港を求めるロシアの南下というのは、もう国家の生理としてかんがえられている。それと同じように、海の国も、東進運動をくり返していたということだ。

 当初、この運動は、陸路でははるかに隔たった京のこと、おのれの一族(高階氏)を宮中で栄達させ、要職に就ける、要人の下へ送り込むという形を取っていた。平忠盛が舶来品を献上することで院の歓心をあがなったように、よろず、物が少なく、まして支那の品物なら珍重される時代なのだ。それらを都合するだけで、工作には十分だった。

 工作員のように高階氏を配することしかできないせいか、それとも、国際で培った感覚故か、海の国の謀略や政略婚は、ともかく固め打ちにする秦氏のそれに比べ、ずいぶん洗練されている。

 鎌倉幕府二代将軍源頼家の正室は不明だが、昌寛娘は、頼家の四人の男児、その内の二人を産んでいるのだ。単純にもっとも寵愛されていて、まさか比企氏娘を差し置いて正室の座を射止めていたとはかんがえられないが、頼家への影響力は大きかっただろう。

 少し前の時代に後白河院に寵されている高階栄子がおり、頼朝との関係も良かったあたり、内と外から鎌倉幕府への連絡役を確保しており、入念にして細心だ。

 政略婚と外交をよりどころに京都と鎌倉につながっていた海の国だが、このつながりが絶たれると、爾後内乱つづきの鎌倉幕府や、異様な伸長をつづけるモンゴル帝国を前に静観の態度を取る。元寇の段になると、精力的に幕府に協力、肥前国神埼郡神崎荘を賜っている。

 国家ぐるみの侵攻という未曾有の事態・・陸の国との提携を考え直させる契機となっただろう。

 その後は尊氏の執事・師直を連絡役に立てるが、高氏が没落すると、大内氏に接近し、平安後期から武家の側面を持ち始めていた宗像氏は、本格的に武将として活躍することになる。この時期、大内氏と少弐氏の抗争により、家中が揺れることも少なくなかったが、おおむね大内側の武家として進退し、それは間違ってはいなかった。

 『宗像氏は大内氏と少弐氏との抗争に翻弄されながら、筑前の有力国人領主に成長していった。宗像氏は、大宮司氏経が応永十九年(1412)に朝鮮の李氏大宗に使者を遣わしてより、氏顕・氏俊・氏正・氏郷に至る永正元年(1504)までの約百年間にわたって朝鮮貿易を行った。その間、家臣団を組織して領国支配に意を注ぎ、小さいながらも戦国大名といえる存在になったのである。』  (『武家家伝』)

 応永年間というと、大内義弘(妹が宗像氏重室)が足利義満と日明貿易や金閣寺造営を巡って争った「応永の乱(応永六年、一三九九)」の後だ。戦死した義弘の後、実力で幕府軍を退け、当主となった大内盛見が応永十六年(一四〇九)に上洛、相伴衆として幕政に参加している。宗像氏が朝鮮貿易を担当する頃には、将軍も変わり、わだかまりがなくなっていたのだろう。

 しかし、高階氏や海の国の成員を通じて中央情勢に干渉していた宗像氏が、もう、すっかり武家の風貌をして、陸の政局にも戦闘にも自ら関与している。

 古代以来シーパワーに依拠していた豪族としては、間違いなく衰退していたのだ。

 

 以上、ところどころ消息が覗く宗像氏を、一度まとめてみた。ーー彼らの大陸貿易の経験値や人脈は重宝されただろうが、武家としては特段大きくもない宗像氏は苦労もしている。

 とはいえ、歴史は所詮、陸の文化だ。海の一族としての宗像氏が、実際のところどういう景況だったかは、これはもうつかみどころがない。ーー運送・貿易業に商人階級が進出し、その点でも平安時代のように自由にやっていくことは難しくなっていただろうか。あるいは、そういう商人も宗像氏の口利きを欲し、リベートで十分潤っていたか。

 『森(考古学者・森浩一氏) 地元の発音は「かねさき」ですね。一般的には「かねがさき」で、考古学事典もそうしています。

 『司馬 福岡県の宗像郡の響灘に面した、一番こんもりした岬というか、突出部ですね。

 『大林(民俗学者・大林太良氏) 海人の本場です。

 『司馬 海人の本場。宗像の神様を奉じている海人たち──。

 『森 あそこの海人は、中世、近世、ものすごく移動性があるんでしょう。そうすると、鐘崎の海人はよく動き回るというのは、縄文のころからずっと続いているのじゃないかと、ふと思ったんです。

 『司馬 なるほど。宮本常一さん(民俗学者、エッセイスト)が綿密にあそこを歩いていますね。『宮本常一全集』の二十巻が出ていて、鐘崎を中心に九州の漁民のことを書いています。その宮本さんがめずらしく歩いていたことをお書きにならずに、文献的なことをお書きになっているのですが、秀吉の朝鮮侵略の水先案内を務めたのは、ほとんど彼らだ。彼らは漂泊の性質を色濃く持っていて、方々に出かけていって漁場を開く。最後には能登半島まで開いている──。そういうことをお書きになっていましたが、』  (『日本人の原型を探る』)

 

 どうも、古代から、戦国期いっぱいくらいまで、彼らは貿易で十分潤っていた。そうかんがえられて仕方がない。

 

 



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