エピタフ
文明十年(一四七八)義視が正式に赦免を受ける。畠山義就は河内へ下った後、大和や山城へ侵攻、義就の重臣が畠山政長方へ寝返り、両者の大軍が激突することになった。だが、その直前、山城国の国人衆が一揆して両軍に退去を勧告。
義就、政長は兵を引いた。ーー以後、山城国一揆が形成され、一種の自治が敷かれる。
一揆、というのは、一期、気持ちを一つにして決起することであり、別に百姓一揆に限らない。山城の地侍たちが一揆して、畠山家の迷惑な家督争いを退けたのだ。
義就は、このとき兵を引いたことが評価され、義政と義尚から赦免される。ーーこれが、応仁の乱の戦後処理としては、最後の要件になった。
文明十一年(一四七九)九代将軍足利義尚が執務を開始する。満十四歳、しかし、変わらず実権を義政が握っていたため、じょじょに義尚との確執が生じる。
文明十三年(一四八一)義政は長谷の山荘(聖護院坊)へ移る。ーー富子との不仲が原因だという。この日野家の才女は、応仁の乱の最中でも金融業や米の投機を行い、現代の額面にして六十億円もの資産を築いていた。文明三年(一四七一)頃には、後土御門天皇との密通が噂されたが、これは、後土御門帝が富子の侍女に手を付けていたためだった。ーーただ、こんな噂が流れる程度に、義政との仲が冷え切っていた。
一つの想像として、義政が伊勢貞親を復帰させ、義視にいわば「殺すぞ」と恫喝を加えて追放したのが、応仁二年(一四六八)閏十月だ。武権神授説に叶う家柄として立った足利将軍としては、日野勝光と弟義視を秤にかけるわけにはいかず、恫喝に及んだわけだが、これが、内心のわだかまりとなって、夫婦仲がこじれたのかもしれない。
長谷の山荘(聖護院坊)に移った義政は、東山山荘(銀閣寺)の造営を本格化させる。この造営は、応仁の乱の前から進められていた。義政は、義視に将軍職を譲った後は、祖父・義満の北山山荘に倣った山荘を造営し、そこから義視を後見する予定だった。この東山山荘の造営は各方面に負担をかけ、文明十五年(一四八三)にある程度完成、義政が移り住んだ。
応仁の乱の発端となった畠山家の家督相続は、義就が赦免されることで決着した。だが、政長はこれに反発し、文明十八年(一四八六)管領を辞している。後任は山名家の血を継ぎ細川家を継いだ細川政元、彼は政長と協調しており、儀式の時のみ管領に就任し、それ以外の時は辞しているという事実上の空席状態で、幕府の常設管領の制度は破綻した。
九代義尚が長じるにつれ、親子の不和は顕在化する。両者の奉行衆が衝突し、血が流れる事態になった。
(幕府を割るわけにはゆかぬ)義政は引退を決断し、出家、それでも対外関係・禅院関係の権限は手放さず、荘園や寺社領の押領が進行すると、義政による救済を期待する声が大きく、結局、たびたび政務に手を付けることになった。
延徳元年(一四八九)八月、ついに、義政は中風に倒れる。その後、断続的に回復するものの、じょじょに悪化、延徳二年(一四九〇)正月七日、息を引き取った。先年三月、九代義尚が没している。
義政の時代に大成した東山文化は、能、茶道、日本庭園、日本建築、華道、連歌といった日本文化一般の美観を形成した。その特徴は幽玄と侘び、抑制と形容される。金閣寺に対する銀閣寺の侘びたたたずまい、能の力感の凝縮したゆるやかさ、千金の茶器を無造作な風景にする茶道の豪宕・・主張と、それを際立たせない対立と緊張は、数万の軍勢と全国の瓦解に直面しながら自我を揺るがせなかった義政の風貌にも重なる。
斜陽へ傾きつつある時代の、それでも傲然と君臨した将軍だった。
現代のわれわれの文化は、金閣寺の絢爛よりも、東山文化の抑制と円熟に負うところが大きい。
戦乱と政局の嵐と対峙しながら、対立と緊張を選んだ義政の豪毅が、レガシーの一部として継承されている。




