乱(おさむ)
宗全の死は、文明五年(一四七三)三月十八日、勝元の死は、同年五月十一日だ。二人とも、自然死のようなのが、なんともはやである。
両軍の実質的大将の死をもって、かたくなな反目は解けて、和平の流れは加速する。
しかし、一方で、京都政局とは分離して、各地での戦いが継続している。いや、むしろ、そういうローカルな勢力図に翻弄され、京都では両軍が引くに引けず、惰性で戦闘がつづけられていた面もある。
守護、という大枠の支配者ではなく、より領地に直結した国人衆が台頭している。南北朝時代の戦乱で大名たちから独立した惣村単位の自衛組織が発達、さらに、悪党階級から発した運送業が流通網を発展させ、地域経済を伸張させた。
平安無法の野から侍が、さぶらふものたちが興ったのと、同じ現象だ。
南北朝時代以来の治まらぬ世上が、急変する経済・社会構造が、よりローカルなレベルで地域の実情と向き合う在地領主を涵養していた。
こうした、新しい草の根レベルのロジックで活動する支配者と民を、旧来の守護大名たちは、きちんと把握することすらできていなかったのではないか。
南北朝以来だ。
南朝は敗れ、建武の試みは敗れた。
ーーならば、わいら地下の時代だ!!
祇園感神院の牛頭天王は、その四つ目を細めた。ーーまた、現れた。
夜の闇の下で、露は結ぶ。
朝の訪れとともに、燃え輝く。
ーーやがて来る海の時代とも、合流する!!
彼の方が、一つ彼方を見ていたのだ。
(おぬしらは、武権神授説の、河内源氏の棟梁の、だ)
習合した、菩薩や濡れ女を思う。
(もそっとよう見よ。草莽に、八秦は限りのう根付いておるわ!!)
庶民階級なのだ。
そして再び、民意は台頭する。
文明五年(一四七三)末、義政は、義尚に将軍職を譲る。まだ、満八歳であり、政務は義政・富子夫妻、そして日野勝光に握られていた。勝光の活躍は著しく、幕府管領は義尚の将軍宣下に合わせ、畠山政長が任じられていたが、宣下にともなう儀式が終わると辞任、そのまま空席で、公家の勝光が管領のポストに就かないまま、業務を代行する。これとともに、富子の存在感が色濃くなり、義政の実権は失われていった。
というより、この時期、義政は政務への情熱を失っていた。文明六年(一四七四)三月、義政は、小河の新宅(京都市上京区宝鏡寺の隣地)へと移る。
室町第(御所)には、富子・勝光の日野兄妹が残された。象徴的だ。「天下公事修り、女中御計(おんはからい。天下の政はすべて富子が切り盛りする)、公方は大御酒、諸大名は犬笠懸(いぬかさがけ、犬追物と笠懸、やぶさめ、馬上弓術の芸)、天下泰平の時の如くなり」
そういう時代が来たのだ。ーーいや、全国で戦乱が進行中だが。
すごい時代である。
義政の「大御酒」には、後土御門天皇も加わっており、幕権とともに朝権も失墜したわけだが・・まあ、これまでとそう変わらない。
公称二十万の軍団に包囲されながら、御所巻き渦中で天皇・法皇と酒宴をくり広げていたのだ。
今さら、全国が戦乱でガタガタになっている中飲むことにためらいがあろうはずもない。
ーーどうもこの時期の義政には、大きな山を越えるとシュンとする、等持院尊氏以来の性格が出ている気がする。
文明六年(一四七四)四月三日、山名政豊と細川政元との間で、和睦が成立。宗全と勝元の後継者たちだ。
この和睦の象徴とでもいうのか、山名政豊が細川方と合流し、西軍方だった畠山義就と大内政弘を攻撃している!!
(ーー陸の国の節義というものは!!)
さすがにこれはまずいと考えたか、義政は十一月十三日に政弘を左京大夫に任じ、懐柔を図っている。
しかし、これまで培われていた遺恨が一朝夕で氷解するはずもない。赤松政則は一貫して和平に反対、土岐成頼の重臣・斉藤妙椿も和睦に反対、戦いは継続していく。
ーー斯波義廉の消息など、興味深い。文明七年(一四七五)十一月、守護代織田敏広とともに尾張へ下向。東軍に参加した織田義敏と義寛父子、織田敏定らと対決する。一度は彼らを駆逐することに成功するが、その後巻き返され、織田敏広は守護代を更迭される。織田敏定が替わって守護代となり、幕府から「凶徒退治」の命令を受ける。義廉は、織田敏広とともに「凶徒」と断ぜられ、以来消息不明。
こうやって戦国大名たちが台頭したのか、というお手本のようだ。下剋上。
文明八年(一四七六)六月、これまで和平を斡旋していた日野勝光が没する。
これによって、それまで天敵同士だった勝光と義視の因縁が解消された。
替わって義政が和平工作に立ち、同年九月、大内政弘に「世上無為(世は泰平)」に協力するよう御内書を送り、翌年、西軍最大の勢力を持つ大内政弘を降服させた。無論、もともとの周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵され、前非を問われぬよう赦免されてのことだ。
ーー下々のか弱い神経では「前非を問われぬ」などと経歴に瑕疵が付いただけで致命傷のように感じてしまうが、この場合「実力では何もできない、おとがめなし」という意味だ。
真事、権力者は昔から図太い。
大内政弘の動向は、足利義視のそれと切り離せない。彼は義視を「公方様」と呼び、自らの館へ迎え入れた。彼は地方分国型の大名なのに、在京十年に及び、義視が決断するまで和睦に応じず、乱の終結まで忠節を尽くした。この関係は、次代大内義興の代にまで引きつがれていて、義視の子・足利義材(よしき、十代将軍)が明応の政変(一四九三)で細川政元と日野富子に敗れ、各地を放浪してた際、大内義興は彼を迎え入れ、歓待した。義興が支柱となり、かつて西軍に属していた諸大名家は義材の復権に協力、京都奪還を成し遂げた。
大内氏の滅亡後、その衣鉢を継いだ毛利家が、足利義昭を鞆に迎え入れ「鞆幕府」とも呼ばれる体制を形成したことと考え合わせたい。いかにも、中国者の律儀、としか言いようのない美風だが、ここには、中央の旗印を擁しておきたい、海の国の事情もあるのではないか。
というのは、宗像氏は、大内氏の滅亡後衰亡していくが、その間、毛利家重臣益田家の元祥(もとよし、母は吉川元春娘)を養子に迎えている。さらに毛利家、小早川家の重臣・草刈重継に二度宗像氏娘を配して、抜かりなく生き残りを図っているのだ!!
そして、毛利家も、もちろん、戦国時代の混迷と大航海時代に乗じて、大いに日朝・日明貿易(倭寇や南蛮船を介したものもあろう)に励んでいるのだ!!
(陸の国にも同盟者が尽きせぬようになった)
そうやって、大内・毛利と、中国・北九州の覇者と結び、復権を願って、都度、足利将軍家を迎え入れていたのではないか? 宗像氏がその所領に「唐坊」というチャイナタウンを形成していたことはすでに述べたが、大内氏も毛利氏も、山口の盆地に京都盆地を模した「西の京」を形成した。この運動に着手したのは大内弘世(南北朝時代の当主、娘が宗像氏重室)だが、本格化したのは政弘(妹が厳島神社神主室、娘が宗像大社大宮司家室)の代で、応仁の乱で荒れ果てた京都から、公卿や文化人を招聘した。これは、大内氏の「唐坊」なのではないか? もう、中央情勢と貿易利権は不可分で、だから、お得意様を接待する貿易業者の感覚を働かせたのだ。ーーその遺風が、京都を模してまで中央から貴人を迎え入れる気っ風が、江戸幕末の勤王志士の出現まで、底流として保存されていたのではないか?
そうやって、宗像氏ともども、いつか、平相国清盛の頃のように、中央に君臨し、足利将軍の同盟者として海陸を制覇する。その野望に投資していたのではないか?
ちなみに、草刈氏は、藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流であり、まあ、ムナカタは、収まるべきところに収まったと感心させられる。草刈重継の室も正室が朝倉氏であり、二人の継室が宗像氏だ。
毛利家と海の国の強力な接点として印象づけられる。
ーー戦国時代も近づいている。大内氏について付言すると、じつは、致命的なミスもしている。大内氏は、日明貿易を通じて、種子島以前に鉄砲を入手していたのだ!! 鳥銃、鳥撃ち用のもので、種子島に伝来したものと同種だ。ーーだが、彼らは鉄砲に関心を示さなかった。
戦国史を一変させるイフの可能性は、実現しなかったのだ。
すでに、文明八年(一四七六)六月、日野勝光が没し、義視の東軍に対する最大のわだかまりは解消されていた。次期将軍の約束は反故にされたものの、彼は和平に向けて動き出していた。大内政弘につづき、十二月に、義政に恭順を誓う!!
(ようやくか!! 義視、よう歩み寄ってくれた!!)義政も、感無量だったろう。義視を東軍から追い出したときとは打って変わって、彼の罪を不問に付している。それどころか、諸事、義視の意見を重んじて成敗を行うようにすると御内書を授けている。
ーーこの兄弟は、もともと、仲が良いのだ。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱の前には、しばしば宴会をともにして、大いに痛飲していたと記録されている。義視自身が、義政の法事で、こう述べている。「もともと兄上との仲は悪うなかった。だが、間に入った人々の言動で、疎遠になってしもうたのよ」この言葉を聞き、聞き手は、ある逸話を語った。応仁の乱後、義視が宗樹という僧を出世させるよう要望したところ、鹿苑院(臨済宗大本山相国寺の塔頭)院主に反対された。だが、義政が「義視の言うことだから、どうか、枉げて認めてやってくれ」と押し切った。この話を聞いた義視は肯き、一笑したという。
義政が約束に違背し、義尚を伊勢邸で養育した、、ーー将軍後継者として育てた時点で、わだかまりは生まれていた。だが、その後の様子から、兄が自分を中継ぎかもしれぬが、将軍に就けようとしている誠意は汲んでいた。
決裂に至るだけの不仲はなかった。
それだけに、義視は首を傾げていたかもしれない。ーー義政としては、仲が良いからこそ、かえって、日野勝光に、自分の揺るがぬ態度をアピールせねばならず、あれだけの迫害に至ったのではないか。
なんにせよ、兄弟の関係が修復されたことで、いよいよ乱は終結に向かう。
・文明九年(一四七七)九月二十二日、守戦派の畠山義就が河内へ下向
・同年十一月三日、大内政弘が正式に東軍に降服、九代将軍・義尚の名で四ヶ国守護職を安堵される。十一月十一日、大内軍が京都から撤収。
・同日、畠山義統や土岐成頼が京都の自邸を焼いて退去
・同日、義視とその嫡男義材は、正式の赦免を受けぬまま、斉藤妙椿とともに、美濃国へ退去。
十一月二十日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催された。
応仁の乱は、終結した。




