双頭が落ちる時
京都の対峙が、全国に飛び火している。ーーそれなのに、京都は、台風の目とでもいうのか、奇妙な膠着状態に陥っていた。
すでに洛中は焼け野原、盗賊や、盗賊同然の足軽が跳梁している。合戦が全国に波及したから、京都に詰めているわけにもいかず、引き上げた大名も多い。
京都は台風の目だが、同時に、空洞化し始めたのだ。
それぞれの領国での争いが眼目となり、京都とその政局が、どうでもよくなっていく。
戦国時代の出来まで地続きの混沌が出現していた。
(幕府の西幕府のというが、それが、一体何なのだ?)
そういう気分が、東西に漂い始めた。
ーーその幕府自体が、もう虚仮になりつつあるではないか!!
急いで言い添えておくと、一四七〇年代になると、後南朝が、西軍に接近している。東軍の大和勢力が退潮したため、また南朝が息を吹き返したのだ。ーーどうも、彼らが現代でも逼塞しているというのは、本当かもしれない。
(南朝・・!!ーー)
百年前からつづく亡霊・・いや、実際に、大和の山野に潜伏しているテロリストだった。
しかし、テロリスト程度の存在でもある。
ーー空恐ろしくなるほど根強い。これが、聖、0(ナル)の力なのだろう。
これと近似する勢力を敵に回した江戸幕府が哀れになる。
文明三年(一四七一)八月、西軍諸将や義視の要請を受けた南朝皇胤が入洛。「西陣南帝」と呼ばれたこの人物は、系譜も定かではない、名前も残っていない。なぞの人物としかいいようがない。ただ、義視はこの人物を自分で招いておきながら、いざ入京の段階になると反対し、諸将が西陣南帝に臣下の礼を取っても無視していた。
西軍も、さすがにこの得体の知れぬ人物を戴くことに抵抗があったのだろう。一度は迎えられたものの、その後西陣南帝は相手にされることがなくなり、応仁の乱が終わると各地を放浪したという。
(なんだ、また南北朝か)
そういう気分を与えてしまったことも、諸国の独立、幕権の低下に拍車をかけただろう。ーーいい加減、あのあられもなく言えば、愚にもつかない抗争をくり返すくらいなら、新興の国人階級に服していた方がマシだというものだ。
この膠着状態を突き崩したのは、義政の一手だった。当初、義政はじめ室町第、御所のものたちは、超然と中立を保ち「これは畠山家の家督争いである」と唱えつづけることで、抗争の拡大を食い止めようとしていた。
それがうまくいかず、そうこうしている内に日野家と対立した義視が出奔、一度帰ってきたものの、武権神授説の資格を問われるような暴挙を口にしたため、また放逐
その後、彼が西軍の大将となったことで、この奇妙な均衡状態が現出してしまった。
ーーなにやら、応仁の乱というと、ともかくパンドラボックスで、言及するととりとめなく話が広がり、収拾が付かなくなってしまう。作者は、当初、そういうイメージを抱いていた。
だが、ひょうすべ史観を基軸にすると、妙に話が整然とする。諸大名の家督相続は紛々としているものの、話の主軸が、説明付けられることで構成されていて、把握しやすいのだ。
これが、陰謀論者としては困ったところだ。説明が付いてしまう。
陰謀論で済ましたいのだが・・事が大きすぎる。
ともかく、東西両軍の対立も、全国に飛び火した戦乱も紛れもない。
(だめだ。ーーこの上は、全面対決だ)
義政は、ほぞを固めた。
とはいえ、武力を用いることはしない。彼は、西軍諸将を懐柔し、西軍を解体してしまうことで、決着を付けようとした。
とはいえ、西軍の結束は強固だ。この姻戚関係と主従関係で構築された同盟の急所・・ーー
義政が狙いを定めたのは、朝倉孝景だった。
ひょうすべ史観からすれば、なにか少し可笑しい。朝倉氏、日子坐王に通じる息長水依姫夫の一族。後戸の客といえばそうだが、海の国に属しているようでもあり、少しスクロールアウト同盟から外れているようでもある。実際、彼の室も朝倉氏、逸見氏(甲斐源氏、もしくは房総平氏)温品氏(金子氏末裔、房総平氏に通じる)と、局外者である。
天下分け目の戦いに顕在化するスクロールアウト同盟の、外れ者なのだ。
義政は、文明三年(一四七一)五月二十一日、朝倉孝景に越前守護職(あるいは守護代で守護職人選権を持つ立場)を約束し、彼を東軍に寝返らせた!!
京都に滞陣していた嫡男氏景は、
・六月八日、山名宗全に呼ばれ屋敷で大酒を飲む
・同日晩に東軍細川氏の屋敷に入り寝返る
・翌九日、義政に謁し御剣を下賜される
・二十三日、越前一乗谷に入る
じつに小気味いいムーブで裏切っている。孝景は六月十日に寝返りを表明。
ここに、戦国時代に存在感を発揮する越前守護代朝倉氏が成立する。
この裏切りによって、勢力バランスが変わる。本来の越前守護職・東軍の斯波義敏はあらかじめ言い含められている。東軍は関東情勢に介入し、古河公方と対決する余裕さえ見せ始めた。幕府軍は古河公方の拠点古河城を陥落させ、これによって関東政策で存在感を発揮しようとしていた西幕府管領・斯波義廉の立場が不安定になる。
こういった流れを受け、文明四年(一四七二)になると、西軍から、和議を模索する動きが出る。山名宗全と細川勝元が話し合い、落としどころを探る。播磨・備前・美作を山名氏と争っていた赤松氏が、和議に反対し、文明四年初めの話し合いは不調に終わる。
だが、両者は、本気で和議の道を模索していた。三月には、勝元から歩み寄り、嫡子の勝之を廃嫡。
正室の山名宗全養女との間にもうけた聡明丸(細川政元)を擁立する!!
宗全は宗全で、先の勝元との話し合いでは、赤松軍の撤退と戦死した伯耆守護・因幡守護の同族に替わり守護職を回復するよう訴えているが、これが不調に終わったとして、自害を試みている。五月のことだ。
ただし、これは、そういう噂が流れた、というだけのことで、和平を推進するためのパフォーマンスだったのではないかといわれている。ーーやりそうなじいさまだ。
さらに八月、宗全は家督を譲って隠居している。
応仁元年(一四六七)の勃発から、五年が経過している。
いい加減、東西両軍に厭戦気分が蔓延していた。ーーこの間、超然とした権威でありつづけた義政の功績もあろう。応仁の乱は、ついに、天下分け目の戦いには発展しなかった。
翌文明五年(一四七三)になると、和平の動きが本格化する。
山名宗全と細川勝元が没したのだ。




