武権神授説
それでもまだ、義視は義政と和解する手段を模索していた。伊勢国に逃れたのは、近国であり、また北畠教具が義政に近い人物だからだ。
義視がいなくなったことで、東軍の士気は下洛した。義政はすぐに義視に帰洛を促すが、彼は応じなかった。
(室町第とは決定的にこじれてしまっている)今戻った所で、自分の立場が悪くなるだけだ。
義政は、義視の生活費として、伊勢国国衙領の年貢半分をあてている。
西軍はこれを好機と見た。積極的に義視を勧誘し、斯波義廉はおのれの屋敷を将軍御座所として提供した。ーーこの動きがまた、室町第や勝元の神経を逆なでする。
義視の帰洛が検討されるようになったのは、年をまたいだ応仁二年(一四六八)二月のことだ。
去年八月二十三日、大内政弘の入洛と同日に出奔した義視は、あれから半年経っても、西軍の勧誘に応じていない。
(義視に二心はないのか)という気分が定着し、帰洛への勧めが本格化した。ーー純粋に、これは東軍の落ち度だった。
『応仁別記』の記述によると、義視の帰洛に評議が一決したとあり、勝元も義政も日野家も、彼の復帰を望んでいたとみていい。
五月二十一日、義政は帰洛の条件として、山城・近江・伊勢の寺社領の半済(年貢半分)を保証する。
(そういうことではないのだが・・)あの強気な兄にそうまでさせると、なにやら自分がダダをこねているような、兄が情けないような、複雑な気分になる。
何万という殺気立った兵隊のなか、針のムシロに座っていられるか、という話だ。
とはいえ、義視も帰洛に向けて動き出す。ーー家庭の不和で出ていった弟がもどってくるときのためらいに似ている。
この文脈で、七月の斯波義廉の管領解任がある。
新管領は細川勝元。次期将軍義視が復帰した後、この新体制でやっていくつもりだった。
義政の義視への接し方は、細心だった。義視と親しい聖護院道興(近衛家)を将軍特使として派遣。その道中護衛を近衛家に命じている。
義視は、九月十二日、京都に帰った。沿道の国人衆に歓迎され、数千の野武士が彼に従っていた。ーーいつの間にか、地侍、国人衆といった新興武士階級が台頭している。彼らは惣村から出た実力者で、義視という権力者に取り入りたかったのだろう。無論、それを抜きにして、足利家の貴顕、武権神授説の神体に接すれば冥加がある、という信仰心もあった。
彼の帰洛を、義政も勝元ら諸将も、みなよろこんだ。
だが、鳴り物入りで帰洛した義視は、すぐに政局に組み込まれた。当時東軍内で、日野勝光がはばを利かせており、細川勝元はこれを敵視していた。義視は新管領・勝元との関係修復に励み、その意向を反映して、勝光を告発した。
勝光を「邪徒」と訴え排除を求めた。
だが、義政は激怒した。
この期間の義視とその周辺の情勢は、木下政規氏の『足利義政 花の御所、御所の地としてしかるべし』に詳しい。ミネルヴァ書房、二〇二五年三月発刊。
同書では、義政の怒りを、勝光が富子とともに近侍し、権力構造の一部になっていたためであり、以来、室町第は不穏な空気に包まれることになった、そう記述している。
作者も異論はない。その義政の権力との一体化は、日野宗家当主である勝光が、まさしく義政が武権神授説に叶う担保であったことに起因する。ひょうすべ史観からそう補足させていただきたい。
日野家との通婚により、初めて足利家は、武家の棟梁たる資格を得た。
この河内源氏のしきたりを破棄することは、義政にはできない相談だった。
これによって生じた亀裂は、深刻なものだった。
十月になると、義視は勝元から、しきりに出家するよう勧められるのだ!!
(バカな!?ーーーー)
他ならぬ勝元その人が、自分を陰謀に引き込んだのではないか!! 出家する、というのは、もちろん影響力のすべてを放棄することだ。
この勝元の変節は、義政の意向を汲んだものという説がある。そうだろう。
義政の義視への圧迫は、さらに深刻なものになる。
伊勢貞親を復帰させたのだ。
(あ・・)これは、決定的だった。閏十月十六日、文正の政変で幕府を追われていた元側近・伊勢貞親を赦免。
貞親は、義尚の乳父であり、義視を謀反人だと讒謗し、殺害を勧めた前科がある。
えげつないことをしている。
あまりに露骨な報復であり、世間では「義視が生害(自死)する」という噂が流れた。
十一月十日になると、義視に従ってきたものにも迫害が及ぶ。義視に伺候していた有馬元家が「赤松家惣領職を望んだ」(有馬氏は赤松氏支流)として、誅殺される!!
(だ・・だめだ!?)
三日後、十一月十三日朝、義視は室町第から逃れて、比叡山延暦寺に入った。義視は義政が自分を殺害しようとしていると聞き、冷雨の中、馬にも輿にも乗らず、目立たぬよう庶民のように徒歩で移動した。
同日、烏丸益光が義視・勝元とともに勝光を追放しようとしたカドで、東軍から追放されている。義政は、勝光や富子が訴えるがまま、事実の糾明なく追放を命じたという。
ここまでくると、むしろ、義政は勝光の機嫌取りをしている。ーーたしかに、そのくらい、真夏流日野家との通婚は、武権神授説上の強力な後ろ盾であり、欠くべからざるものだった。烏丸益光など、日野家から出た烏丸氏なのだが、日野宗家当主勝光とは比べるべくもない。
強大にして強固な武権神授説の紐帯を明かし立てる事件である。




