総大将蒸発
さて、応仁元年(一四六七)六月三日からの経緯を追うと、将軍家の旗が東軍に揚がったことで、西軍は大いに動揺した。義政が降伏勧告を(いやいや)すると、斯波義廉ら西軍諸将は自邸に引きこもった。東軍は義廉の屋敷を襲撃し、京都は大いに兵火に焼かれた。
西軍諸将は降服を検討したが、斯波家宿老・朝倉孝景の首級を条件とされたため、これを拒絶。
西軍は東軍に対抗すべく、大内政弘と河野通春らの水軍を上洛させる!!
京都市中で両軍の小競り合いがつづくなか、十月三日、後花園法皇が、山名宗全の処罰院宣を出す。十二月には西軍派公卿の官爵が剥奪される。
室町御所に将軍と天皇を擁する東軍が優位である。
市中での両軍の抗争は、じょじょに洛外へ移っていく。斯波義廉は、東軍に義政を擁され、不安定なおのれの管領職を、関東政策で功績を上げることで安定させようとする。古河公方足利成氏と和睦しようとするが、この独断を義政は怒り、応仁二年(一四六八)七月十日、かえって、義廉を管領から解任、家督と三ヶ国の守護職をとりあげ、細川勝元を管領とする。
ーー義政が超然としている。二十万の軍が小競り合いをくり返しながら、政局は、依然戦場の京都で進展している。
京都は前線の官庁街であり、政府だった。
ここでいったん、時間を巻き戻して足利義視の動向を追う。
将軍家の御旗(牙旗)は、正確には足利義視に下され、彼が東軍の総大将になった。応仁元年(一四六七)六月一日、牙旗を下される。翌二日、室町第から西軍諸将縁者を追放する。
義視は、それまで室町御所で暮らしていたが、七月十三日、今出川殿へ移る。日野勝光・日野富子兄妹との関係が悪化していたらしい。
七月二十日、大内政弘が大軍を率いて摂津兵庫へ上陸。細川勝元は、大内軍が上洛するまでに勝負を決するべく二十四日総攻撃を命じた。だが、西軍は必死に応戦し、もちこたえる。
八月になると、義視は小具足をまとって室町第に伺候しようとするが、これを勝元によって止められる。このため義視は詳細不明の「種々の雑説」に惑わされ、自害しようとする。義視の自害は近臣に止められる。八月二十三日、ついに大内軍が上洛し、政弘は東寺を拠点とする。
西軍は息を吹き返した。
大内軍の上洛で、京都情勢が動揺した。義視は、木造教親という人物の手引きで、同日、京都から出奔している。
この出奔の理由はよく分かっていない。西軍の優勢を見て動揺したとも、宗全と内応する手はずだったともいう。日野家との関係がこじれたことも一因ではあろう。
足利義視の東軍での孤立、というのは、今後の政局の要因となる。ーーーなぜ、こんなことが起こったのか?
義政は義視を次代将軍に立てるつもりだったし、日野富子も、みずからの妹を義視の室にしている。ーー武権神授説に適う身柄になっていて、日野家との間に波風立てる要素もない。
細川勝元や山名宗全、特に宗全と義視は親しかったという。彼らに擁立され、義尚の対立候補になったことが警戒心を刺激したのだろうか? 西軍主将の宗全に近しいというのは、特に警戒される要因になる。
小具足をまとって伺候するのを他ならぬ支持者だったはずの勝元にさえ止められているのだ。
西軍に内応する可能性が、より鮮明になっていた、そうかんがえるべきだろう。
ひょうすべ史観としては、大内政弘の上洛と、彼と細川勝元の対立に注目したい。
まず、この時期、大内軍が到着するまで、西軍は劣勢だった。いち早く室町御所を押さえられ、天皇、法皇、将軍を掌握された。御所の一同は中立を保っていたが、それでも、牙旗を足利義視へ授け、その威光で大義名分は東軍にあるとされた。
すでに応仁の乱は全国に波及している。この情勢は、鳥羽伏見の戦い正月五日に錦旗が掲げられたほどの意味がある。ーーしかも、鳥羽伏見の戦いの時より、よほど両者の実力は拮抗していて、均衡を崩すターニングポイントたり得た。
東軍は早急に手を打たねばならなかった。
ーーここでなぜか、義視と日野家、義政や勝元までもが、不仲に陥るのだ。全員が、義視が次期将軍で了解している。それなのに、東軍総大将という枢要と仲違いするのだ。
この間、まこと歴史的に重大な意味がある。なのに、漠然と、義視が西軍に内応される可能性が疑われていた、という一条のみで、義視の孤立が説明されている。ーー残念ながら、ひょうすべ史観からも、さほど言えることがない。小具足をまとった義視が、御所に伺候しようとして勝元に制止された、というのは、つまり、義政を刺す可能性を疑われていた、ということだろう。自分の支持者だったはずの勝元さえ自分を疑っている、ということで、義視は懊悩する。「種々の雑説」というものが飛び交い、彼を自害を思わせるところまで追い詰めた。
一つの考えとして、応仁の乱の背景には、将軍家始め斯波家や畠山家の家督争いよりも、大きな背景として、日明貿易の利権があったとしてみよう。実際、これは、大変な問題だった。日明貿易、正規の勘合貿易でもたらされる利潤は倭寇の比ではない。なぜなら、支那は朝貢国に対しては目上の立場から輸出品を輸入品に数倍する規模にするのが通例で、明から買い入れた糸は日本では二十倍もの高値で売れ、日本の銅銭十貫文が、明に持ち込んだだけで数倍で売れた。
この利権を得るために細川勝元も大内教弘・政弘父子も血眼になり、熾烈な争いをくり広げていた。山名宗全は、この両方に縁組みし、しかも大内側に肩入れして、勝元との対立が決定的になった。何度も言っているが、教弘娘は厳島神宮神主室、政弘娘は宗像大社大宮司家室、宗像氏もこの抗争に参入していた。
この貿易抗争を勝利に導くために、その他の政局があったのではないか。言ってしまえば、細川勝元の真の敵は、山名宗全以上に、大内政弘だった。
大内政弘にとって、次期将軍は宗全が支持する義視が望ましい。だから、彼が内応すべく、本腰を入れたのではないか。
西軍が、東軍に勝るのは、団結だ。東軍側は、この時点では、文正の政変で伊勢貞親が脱落している。つまり、伊勢貞親に側室姉妹をやっている斯波義敏は微妙に浮動状態であり、畠山政長は義就を応援する宗全が西軍にいるから東軍にいる、という程度の理由付けだ。
[文正の政変では勝元と宗全が伊勢貞親を追放したが、このとき、斯波義敏や赤松政則も連座している。どちらも東軍の有力守護であり、団結にさわっただろう]
これに対して西軍は、山名宗全が姻戚で大内政弘と斯波義廉に結びつき、一貫して畠山義就支持の越智家栄が義廉家臣朝倉孝景とともに山名宗全と結託し、しかも越智氏は宗像大社神官(越智氏出身の河野氏が中津宮や辺津宮に勤仕している)として直に宗像氏に結びつき、大内氏と結託している。この強固な同盟関係に比べると、やや東軍は足並みがそろわず、この点、内応の誘い水を向けられたときに、義視は揺らいだのではないか。
山名宗全は義視の支持者であり、また義視は斯波義廉とも親しい。さらに義視は畠山義就の復帰にも同意している。むしろ人脈的には西軍に近しいのだ。そこに、大内氏の上洛を取り付け、斯波義廉も畠山義就も一丸になってかき口説けば、どうか。「われら西軍は今出川殿(義視)を大樹公としてお迎えする旨、心を一つにしております」
右の強固な同盟関係を背景にこう説かれれば、説得力がある。
それより深刻なのは、義政や富子、勝元に与える影響だ。
(よもや義視は、西軍に征夷大将軍として迎え入れられようとしているのか?)
彼には、次期将軍の内諾を与えている。とはいえ、一度は義尚の対立候補に祭り上げられたことがあり、平静ではいられない。
最初に揺れたのは、細川勝元ではないだろうか。(政弘が来るのか!!)勝元にとって、教弘の代から引きついで宿敵である。日明貿易の巨利を争う大内なら、どんなこともやりかねない!!
この想像が、勝元から平静さを失わせた。ーー義視への態度に疑惑が混ざり、それは義視の一番の支持者が欠けたことを意味する。
大内氏が絡んで、義視が誘われている。この事実は、日野富子や日野勝光を警戒させるには十分だった。
それが、同じ室町第の屋根の下、彼らの態度になって表れたのではないか。
だが、義視にとっては、冗談ではない。
もともと義視は、還俗するつもりなど、さらさらなかった。寛政五年(一四六四)十二月、応仁元年六月から、ほんの二年半前だ。義政に男児がいないことを理由に還俗し、将軍後継者になるよう求められたわけだが、このとき、義視は複数回義政の要請を固辞している。これまで、将軍家の出家していない兄弟は、ろくな末路を辿っていない。
(同じ轍を踏むのはゴメンだ)
ごく常識的な、そういう感覚がある。守護大名との紛糾、ことに、赤松満祐に討ち取られた義教を父に持つ義視だ。
(あの混乱の府に巻き込まれたくない)特権に引かれる以上に、そういう保身感覚があった。
だが、義政は再三頼み込み、たとえ、将来自分と富子の間に男児が生まれても、その子は幼くして出家させる、そういう約束さえした。
それならば、と、義視は応じたのだ。
だが、義尚が生まれると、彼は伊勢貞親に養育されることになった。伊勢邸で足利家の子を育てるのは、将軍後継者にするという慣例があった。
つまり、義視との約束は反故にされた。
このおもしろくなさが義視にある。義政や富子には、このうしろめたさがある。
それだけに、義視を悪として、これを除く論調が出ると、積極的に乗ってしまったのではないか。
二十万の軍勢がひしめく京都で、自陣営にさえ味方がいない。
(お、おっぉおおおおおおーー)
この事実は、義視を追い詰めるには十分だった。
義視にしてみれば、九代将軍はおのれであり、以後足利将軍家は、自分の系によって継承されていく。ーーこういう皮算用さえしていただろう。
伊勢邸への義尚移徙(イシ、貴人の移動)が寛政六年(一四六五)末だから、一年と半年前。
まだまだ傷跡が生々しい。そこに来て、大内氏を巻き込み西軍から勧誘されている、という理由で、おのれの支持者である勝元からさえ疑われた。
ーー味方がいない、というのは、この殺気立った兵隊であふれる京都では、致命的だった。
だから、逃げた。
(もう、兄上と姉上のご勘気を解くことはできぬ)そう見切りを付けた。
彼は伊勢国に逃れるのだが、このとき手引きした木造教親は、伊勢国司北畠教具の家臣である。




