上京の戦い
応仁年間は、正確には、一四六七年陰暦三月五日に改元される。正確には、この時点、一四六七年正月は、文正二年となる。
御魂合戦が始まった。御魂神社、現在の京都市上京区上御魂神社で勃発した戦いで、畠山義就と畠山政長が衝突した。越智家栄の暗躍によって、畠山義就は復帰し、さらに山名宗全の取り立てで上洛、完全に赦免される。その上で、宗全は畠山政長を管領から追放、義子である斯波義廉が後釜に座る。すでにこの時点で、義就上洛を受けて政長は屋敷の防備を固め、そこに屋敷を明け渡すよう通告されている。政長の与党である細川勝元、さらに岳父の京極持清らが政長に加勢。
ヒートアップし、幕府襲撃の構えを見せる。
これに対して山名宗全が指揮して花の御所(室町御所)を兵で固める。
ここで義政が調停に動き、宗全と勝元が、互いに義就・政長の支持から手を引くことを条件に和睦した。
ーーだが、こうなると、後ろ盾がなくなり、追い詰められるのが政長だ!! 正月十八日、屋敷を放火、京都郊外にある上御魂神社へ籠もった。
火が上がった。
(すわや、、ーー政長め、仕掛けよったわ!!)宗全は、百三代後土御門天皇と後花園上皇を花の御所へ遷移する。
義就が、上御魂神社へ進軍、政長は、因縁の対決に、半日ほど耐えるものの、孤立無援、義就には、宗全の手勢と、義廉から朝倉孝景が与力していた。ついに敗れ、政長は拝殿に放火して撤退。
ひどい戦いだったが、義政が収攬に動いていたため、それ以上の拡大は避けられた。
「これは、畠山家の内紛より発した政長めの暴発よ!! 諸大名は無闇とこれに関わり、畏れ多くも宸襟を悩ます悪に加担せぬよう」
この義政の命令に、細川勝元は服した。だが、すでに治罰は政長を悪とし、そこに宗全も加わっている。宗全はおおっぴらに政長を支援し、勝元の面目は丸つぶれとなった。
ーーこれが導火線だ。
二月、争いは畠山家の内紛で終わり、二十四日には義政弟義視が宗全と勝元の間を調停し、なんとか収まったかに思われた。
三月三日の節句に、細川派のものたちが欠席。
戦乱を理由に改元、三月五日応仁となる。
改元早々、細川派と山名派の抗争が顕在化した。細川派被官と山名派被官が争い、後者が殺される事件が発生。細川派はさらに山名家の兵糧を奪う。これに対し畠山義就家臣が細川派を襲撃。
京都は隠れなく、両派の戦場となる。
五月になると、堤が切れた。
細川勝元は、ついに諸大名を動員して、山名派の所領を襲撃させた。斯波義敏が斯波義廉の領国である越前へ攻め入る。赤松政則家臣は山名宗全の領国播磨へ、土岐正康が一色義直(山名派)の領国伊勢へと攻め入った。
その上で、勝元は諸大名の軍勢を上洛させる(東軍)
これに対抗して宗全も諸大名を上洛させる(西軍)
公称、東軍十六万、西軍十一万。
最初の戦いが上京で起こったため、上京の戦いと呼ばれる。




