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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
応仁の乱─ひょうすべ史観から─
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17/82

越智氏

 応仁の乱前夜にもどると、大内政弘への幕府の討伐が、義政によって取りやめになっている。これがいささか唐突な感があり、海の国の工作を疑った。その可能性は後述する。

 別の可能性として、義政側近の伊勢貞親の入れ知恵ではないか。

 伊勢貞親は、この前年にも、似たようなことをしている。細川勝元が大内政弘討伐命令を出させると、裏から大内氏を支援していたのだ!!

 伊勢貞親からすると、おのれが乳父である義政実子・義尚を次期将軍にしたい。だが、対立候補の義政弟・義視には、山名宗全、細川勝元ら有力守護がついている。

 この形勢を有利にするため、義政に斯波義敏の家督相続を応援し、大内政弘の討伐命令を解消させ、二人の有力守護を味方に引き入れようとしたのだろう。ーー斯波義敏に家督を奪われた斯波義廉が、義政弟義視に接近しており、これが、伊勢貞親を警戒させた。

 

 そして、応仁の乱に向けた、決定的な亀裂が走る。

 

 文正の政変(文正元年、一四六六)だ。

 (今出川殿〈足利義視〉を排除するしかない)

 そう思い至った伊勢貞親が、義政に義視に謀反の疑いあり、と、切腹を求めた。だが、義視がこの讒謗を察し、細川勝元へ訴えた。勝元は義政に談判し、かえって、陰謀家たちの罪が問われることになった。

 こうして、伊勢貞親と季瓊真蘂(キケイシンズイ、禅僧、赤松氏族、義政の政治顧問)

斯波義敏、赤松政則(赤松氏復興に真蘂が関わっていたとされる)らが、京都を出奔。

 

 義政の態度が一貫していないように思えるが、もともと彼は

 (べつに次期将軍が義視でもかまうまい)

 とかんがえていたことを考慮すると、これは謀臣たちの独走である。だから、貞親に義視の腹を切らせろと求められても動きが鈍く、細川勝元から弁明されるとこれ幸いとその意見を容れ、貞親らを追うことになったのだろう。勝元は、さらに貞親を幕府から完全に排除することを求めるが、義政はこれを拒み、嫡男の伊勢貞宗に、侍所の執事を引きつがせている。

 

 ーーしかし、貞親や季瓊真蘂らを失い、義政の政治力も低下した。一時期、義政は政務を放棄し、諸大名は義視を代わりに立てる(翌月には義政復帰)

 

 この間、山名宗全と細川勝元の権力は絶対的になった、彼らは

 ・斯波氏の家督を義廉へもどす

 義政の命令を朝令暮改させる。

 

 そこへさらに畠山家の内紛が関係してくる。

 畠山家当主義就は、かつて、義政の応援で家督を継いだ。その後、家督争いの相手方を追撃して大和へ転戦、国人衆の一部を味方につけ、宇智郡を切り取った。この際、義政の上意を騙(かた)り家臣を派遣していたため、義政の怒りに触れ、所領を没収される。大和での戦いで義就の味方に付いた国人に、越智家栄(いえひで)がいる。大和国高市郡越智荘の住人だという。家督相続の相手方(政久)が越智家栄を攻撃、義就が援軍を送るが、かつて義政に退けられた政久が復帰し、越智家栄が敗北する。ほどなく政久は没するが、代わって弟政長が擁される。その後、義就は日野重子(義政母)の死にともなう大赦で許されるが、完全に没落していた。

 ここで、越智家栄がトリックスターになる。彼は、文正の政変の前年に義政と談判(この際、斯波義廉と、その家臣・日下部氏末裔朝倉孝景が陪席していた)し、義就が幕府に味方することを条件に復帰させる約束を取り付ける。さらに山名宗全の娘を斯波義廉に嫁がせ、先に述べた

 『・斯波義敏(支持者は細川勝元、政所執事伊勢貞親)

 『・斯波義廉(支持者は岳父の山名宗全)』

 という状態を作り出す。義廉の妻には先に登場した朝倉孝景娘がいる。海の国のものたちが口添えしたからだろう。義廉─朝倉孝景─越智家栄─宗像氏─大内政弘─その祖父山名宗全、とつながる。

 孝景は主君義廉に宗全という同盟者ができる。その代わりに、越智家栄の仕える義就が有利になるよう義廉とともに義政を説得する。このタイミングで、家栄が大内政弘討伐を中止するよう懇願した可能性もある(政弘が味方になる条件で)

 これが、文正元年(一四六六)九月までの情勢で、十二月には宗全が畠山義就を上洛させ、義政に面会させて、赦免を取り付ける。越智家栄は一貫して義就支持派で、先の婚姻を取り持ったときに内諾を得ていたのだろう。宗全は、翌応仁元年(一四六七)正月、畠山政長を管領職から追放し、出仕停止にする。その上で、斯波義廉を新たに管領職に付けさせた。

 腹心が軒並みいなくなったせいか、義政がまったく抵抗できなくなっている。

 

 ーーーなお、もともと宗全は、畠山義就の相手方政久(現在は政長)に与していた。だが、越智家栄の立ち回りによって、義就に与した。そのため、かつて

 『畠山家を弱体化すべく、細(・)川(・)勝(・)元(・)と(・)山(・)名(・)宗(・)全(・)が(・)政(・)久(・)を(・)応(・)援(・)。』

 ともに政久(現在は政長)を応援していた細川勝元とはたもとを分かつことになった。

 加えて、斯波氏の家督相続でも、義敏を応援する勝元とは、完全に対立した。

 

 つくづく越智家秀が働いている。ーーこうすることで、大内政弘、引いては宗像氏の利益になるのかんがえてみたが、どうも、ずいぶんな(・)る(・)。政弘と勝元が抗争しているわけで、勝元に強力なライバルが出現した。政弘祖父山名宗全経由で斯波義廉が味方になった。大内政弘は勝元との対立で、彼と敵対していた河野氏を支援しており、その縁もあって越智家栄が働いたのかもしれない。河野氏は伊予豪族越智氏から発しており、この越智氏が大和に移った。越智氏に徐福先祖伝説があるのはすでに述べた。

 

 もともと宗全は、細川勝元と大内政弘の両方に娘をやるという「ふざけるな」というポジションだった。これを味方につけるかどうかで、西国の趨勢は決まる。

 

 ここまでもつれにもつれて、応仁の乱のタームに入っていく。

 

 


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