乱の足音
義政の守護たちの家督相続に介入する様子を記述するのは、混迷の渦中に分け入っていくのがわかりきっていて、少し腰が引ける。
まず、皮切りとなったのは、なんと織田家だ。
宝徳二年(一四五〇)というから、満十四歳で、尾張守護・斯波義健の守護代を交替させようとした。織田敏広から織田郷広へ交替させようとしたのだが、満十四歳だ。まだ最初の御判御教書も発行していない。これは乳母の今参局(いままいり局)が糸を引いていたという。この乳母と実母の日野重子が対決し、織田郷広の守護代就任を阻止している。日野重子は最終的には今参局を没落させ自刃させるに至る。
さて翌宝徳三年(一四五一)畠山氏が関わってくる。畠山家当主持国の妻が、義政の乳母として待遇されるようになる。これは今参局との衝突にあたるはずだが、彼女が抗議した記録がなく、畠山持国夫婦と今参が接近していた傍証になる。
享徳三年(一四五四)畠山家で家督争いが勃発。嫡出男児のいない畠山持国が
・弟の持富
・庶子の義就
・甥の政久(持富の子)
と後継者候補を変遷させ、家臣団が義就派と政久派に分裂。武力抗争に発展する。
これは、義就派が優勢だったが、畠山家を弱体化すべく、細川勝元と山名宗全が政久を応援。義就は京都から失踪した。
しかし、義政は義就を応援。結果、義就が家督相続を認められ、復帰、政久が没落した。
義政の義就支持は、畠山持国の意を汲んだものだ。当初、持国は義就を立てようとしていたが、庶子ということで家臣団に反対され、やむなく政久を後継者にした経緯がある。
細川勝元、山名宗全、畠山氏。
応仁の乱の重要なファクターだ。
赤松氏は、嘉吉の乱以降、完全に逼塞していた。
だが長禄二年(一四五八)思わぬ手柄で復興を遂げる。主家再興を悲願とする赤松氏遺臣は、後南朝に接近。これで後南朝を擁するのならよくある話だが、彼らは、後南朝から、禁闕の変(一四四三年に起こった後南朝による内裏襲撃事件。宝剣と神璽が奪われた。宝剣はその後奪回。嘉吉の乱以後の混乱を狙って行われた)で奪われた神璽を奪還し、朝廷に奉納したのだ!!
義政はこの功績をたたえ、赤松政則を北加賀守護に任じる。
飛んで寛正五年(一四六四)
これまで子供のいなかった義政は、僧になっていた義視を還俗させ養子に迎える。次期将軍候補だ。しかし翌寛正六年(一四六五)妻日野富子に男児・義尚が誕生する。ーーよく言われている筋では、富子が義尚の将軍就任を望み、実力者の山名宗全に協力を要請、これに対抗して義視は管領・細川勝元と手を結んだと言われる。
だが、義視は、義尚が生まれた後も昇進をつづけており、義政は、義視の立場を変更するつもりはなかったものと思われる。
(なに、義尚を将軍にしたければ、義視を中継ぎとすればよい)
しかしこうなると、義尚派が形成される。義尚派には、今参局の没後、二十代前半の義政の傍らで急速に力をつけていった経歴がある伊勢貞親(政所執事)がいた。彼は義尚の乳父(めのと、乳母の夫)だったのだ。
これに対し、義視には山名宗全と細川勝元が与した。
これらの背景にさらに室町幕府も関わった斯波家のお家騒動が絡んでいるのだから、ややこしい。しかもこの斯波家の騒動では、山名宗全と細川勝元は対立している!!
・斯波義敏(支持者は細川勝元、政所執事伊勢貞親)
・斯波義廉(支持者は岳父の山名宗全)
つけ加えるなら、細川勝元ら諸大名も、将軍近臣である伊勢貞親の権勢には反感を抱いている。
寛正六年末、義敏は伊勢貞親の取りなしで上洛し、義政と謁見。翌文正元年(一四六六)七月義政は義敏に家督を移動させ、義廉に出仕停止と屋敷の明け渡しを命じる。
義廉派は、山名宗全は追い詰められた。
ここにさらに、大内氏も関わってくる。
大内政弘は、母親が山名宗全娘であり、二代続けて勘合貿易で細川勝元の利権と衝突していた。そのため細川氏と対立する伊予の河野氏を応援、これに怒った細川氏は大内征伐の幕命を発し、両軍は安芸で対決していた。
だが、義政が、斯波義敏へ家督を相続させたのと同じタイミングで、大内氏の討伐令を解消する。
義政は斯波氏と大内氏をこれで味方に引き込むつもりだった。ちなみに、大内政弘は、妹に厳島神社神主室、娘に宗像大宮司室がいる。海の国との重要な接点だ。
もう、どれだけこじれただろう。
・細川勝元(斯波義敏の支持者であり家督相続○、大内政弘と対決しており討伐令解消×)
・山名宗全(斯波義廉支持者であり、義敏の家督相続×、大内政祖父であり討伐令解消○)
義政は、斯波義敏に家督相続させるとともに、義廉の追討命令を出すが、山名宗全も細川勝元も従わなかった。
その義廉は、義政弟義視に接近していて、義尚派で義敏派の伊勢貞親は、これを警戒していた。




