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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
義満以降─日野家の女婿たち─
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鎌倉紛糾

 世に言う嘉吉の乱。

 義教とともに山名熈貴(ひろたか)、京極高数も討たれ、大内持世もこのときの傷が原因で没した。 この犯行は、赤松氏が単独で行ったものだった。満祐は、播磨に帰国すると、足利直冬の孫・義尊を立てようとする。

 当初、専制的な義教がいなくなったことで守護たちも混乱したが、やがて、細川、赤松一族、山名の連合軍が、三方から播磨・備前・美作へ侵攻する。暗殺が六月二十四日、九月の上旬いっぱいまで費やす戦いで、城山城を包囲、満祐を切腹させた。

 

 義教の後、七代将軍になったのは、幼少の義勝だった。だが在任わずか八ヶ月、満十歳で、義勝は没する。原因は赤痢が有力とされる。

 

 その後に立ったのが、本来僧侶になるはずだった三春

 

 八代将軍足利義政である。


ーー作者は、どうも、この人物が好きで、気持ちが高揚してしまう。応仁の乱で日本がえらいことになっているのに、素知らぬ顔で蕩尽しているあたりに、一種の豪毅さを感じるのだ。

とはいえ、彼は後継者に立てられたとき、まだ八歳の少年だった。執務は当然、管領・畠山持国と有力守護の合議で行われる。

 文安六年(一四四九)四月に元服、将軍宣下を受ける。満十三歳。三年後、最初の御判御教書を発行している。

隠居し遊興にふける姿が描写されがちだが、義政は「万人恐怖」といわれた父・六代義教の施政を踏襲しようとした。長禄二年(一四五八)には「近日の御成敗、普光院(普広院、義教の戒名)御代の如くたるべし」と宣言している。

彼が取り組む問題は山積していた。大きく分類すると、守護大名の家督相続に関する紛糾、そして幕府財政の悪化だ。財政悪化は、義教の死後、嘉吉の乱や幼少の義勝就任を受けて、土一揆が増加したことが主要因だ。一揆の要求を容れ、徳政令を出さなくてはならなくなる。当時の幕府の主な税源は土倉役という税で、これは倉庫業に課すものではない。土倉という担保をあずかる倉を建てている質屋、金融業者にかける。

 徳政令を出せば、土倉への債務は放棄できる。ーーしかし、これをやると、土倉が大打撃を受けるため、税を徴収できなくなる。一揆側は武力行使で借金の帳消しを求め、これに屈すると税源を失うのだ!!

 また、お百姓さんの鼻息が荒くなっている。このころの農村は「惣」という自治システムが整備され、村ぐるみの意志決定ができるようになっていた。荘司や地頭に支配されていた村が、惣村となって独立する気勢を示したのだ。

 義政は、徳政令に「分一銭」という制度を導入した。これは、債権債務額の一割を幕府に納めれば、徳政令下でも再建を維持できる、あるいは徳政令下なら債権を放棄できる、というものだ!!

 うまいやり方をかんがえたものだが、、ーーーあくどいものだ。それにしても、きちんとゼニ本位のシステムが確立している。

 家督相続では、畠山氏のものを代表に、斯波氏、冨樫氏、六角氏といった二十一屋形も揺れに揺れていた。これは、鎌倉時代からの宿痾で、鎌倉時代には、所領は子供一人一人に分割相続され、そのため、世代が進むごとに御家人の所領が零細化する。これはまずいと嫡子が所領を単独相続することになったが、そうすると、だれを嫡子とするかで、血みどろの争いが起こるようになったのだ!!

 悪いことに、南北朝の乱で、どの家も一族が分裂している。しかもこの時期にあっても、まだ後南朝が勢力を保っていて、政争に敗れた側がこれを奉じる危険性があった。

 享徳三年(一四五四)末、鎌倉府でもイザコザが起こる。公方足利成氏が、関東管領上杉憲忠を謀殺したのだ。これは、義教時代から持ち越した宿題で、義教は、それまで腰が引けていた関東政策を一新し、公方足利持氏と管領上杉憲実が対立すると、関東の大名に命じて持氏を包囲し、討ち取った。だが、その後、実子を公方として派遣しようとしたところ、上杉氏に拒まれ、持氏遺児を立てようとする結城氏と幕府が争う「結城合戦」が起こった。幕府は持氏遺児を殺し結城合戦に勝利する。しかし、祝勝を名目に招かれた屋敷で、赤松満祐によって義教が殺害される!! 以来関東は幕府に抑えられつつ、上杉氏によって統治されていた。義教が殺害されたことで、実子を公方にする案は白紙化。その後幕府は関東の安定を図るため、持氏遺児・成氏の公方就任を認める。しかし関東管領となって成氏をサポートする上杉憲忠は、じつは、父持氏の破滅を招いた上杉憲実の息子なのだ!!

 二人の関係がうまくいくはずもなく、そんななか、上杉憲忠の重臣が先走り、公方屋形を襲撃してしまう!! この討手は撃退されたものの、憲忠は責任を取って蟄居、その屋敷を成氏の軍勢が取り囲み、彼を殺してしまった!!

 これが享徳の乱の始まりである。その後、先走って成氏を襲撃した長尾景仲は成氏軍と戦うが敗れ、幕府に変を報告している。

 義政は関東征伐を決定し、軍を派遣。鎌倉を陥落させた。成氏は下総古河に逃れ、以後、古河公方として関東を采配しようとした。義政はこれを認めず、再び関東を京都の指揮下に置くべく、兄の足利政知(まさとも)を関東へ派遣する。だが成氏の関東への影響力は絶大で、これに対して政知は京都の意志の代弁者でしかなく自らは命令権がない状態だった。鎌倉に入ることさえできず、仕方なく、手前の伊豆堀越で腰を下ろすように鎮まって、伊豆一国を領するようになった。堀越公方を呼ばれる。

 

 ーーもしや、この治める京都、背く関東という構図は、地政学的なものなのかもしれない。かつてのおのれに手を焼くように、鏡の中の天邪鬼に苦戦している。

 

 結果、空座の鎌倉を誰が治めていたかというと、これは、相模国扇ガ谷(おうぎがやつ)に邸宅のあった扇谷上杉家の勢力圏になっていたようだ。関東の地勢が宿命なのか、鎌倉が特別な都なのか、分からなくなってきた。これだけ鎌倉府でもめたあげく、統治者不在で宙ぶらりんだ。

 鎌倉とは何なのだ?

 

 

 妙な話で、平安時代に秦氏を素性とする後戸の客が頼朝を推戴して鎌倉幕府を立てた。その鎌倉幕府が倒れ、建武新政さえ倒して、武士が中央政界に進出する。

 そうすると、確かに、武士は変化した。関東にいた頃よりずいぶん文明化し、家督相続のために武力を用いる荒っぽさは相変わらずだが、家系図の変化からもうかがえるとおり、あるいみ支那化した。日本が百済を通じて影響を受けたという六朝(仏教に傾倒した)にも似て、精神文化を発達させた。

 これに対して、関東は相変わらず、閉塞的で、土俗が強い。京都に背いた平安後期以降と、鎌倉時代を引きずっている。

 それこそが、中央への進出で武家が失ってしまった鄙俗であり、坂東の野趣でもある。

 

 試みに、確認してみよう。足利成氏と上杉憲忠が軋轢を生んでいた頃、憲忠の重臣・長尾景仲が突っ走って成氏を襲った。この長尾景仲を撃退したのが、小山持政(秀郷流小山氏)千葉胤政(良文流千葉氏)小田持家(宇都宮氏流八田氏族、娘が結城氏室)宇都宮等綱(ともつな、宇都宮氏は後戸の客、妻は小山氏娘)と、どうかんがえてもスクロールアウト同盟なのだ。たまたま出そろっていただけだとするのなら、秦を素性とする後戸の客は、徹底して関東に根付いていることになる。ーー関東で成立した鎌倉幕府の十三人の合議制が後戸の客に占められるのも当然。つまりこれまで作者が秦氏の結束としてみなしていたものは、イコールで、関東武士の結束だったということになる。

 それだけ関東は、それこそ九州にも負けず劣らず、秦氏の系譜が根付いているということになる。

 そこに、武権神授説、これに叶う、神秘的な息長氏の系譜である源頼朝が立った。もともと河内源氏は、初代頼信が関東で蜂起した平忠常を討伐(平忠常の乱)し、関東に勢力圏を広げた。二代目の頼義は平忠常の乱にあたって追討使となった平直方の娘を娶った。平直方は国香流の当主。平国香は将門の伯父であり、坂東平氏の嫡流だ。彼の娘を娶ることによって、頼義は、河内源氏に坂東平氏の勢力地を加えた。

 そして、その際に、彼の本拠地である「鎌倉」を譲り受けている!!

 

 その頼義が、壺井八幡や鶴岡八幡宮を建てた。石清水八幡宮を勧請し、八幡神を源氏の氏神と定めた!!

 

 義家ではなく、頼義こそがキーパーソンだったのか?

 

 彼の代に、坂東平氏、関東武者団との縁が固められ、秦氏の神である八幡神を氏神にしている!!

 つまり、新規に手に入れた関東、そこに根付いた秦氏(後戸の客)たちを、一挙、味方に引き入れるために

 彼は八幡大菩薩を氏神に据えたのではないか!?ーーーーーー

 

 その彼が、坂東平氏から譲り受けたのが「鎌倉」だ・・ーーーー

 

 たしかに、これは、聖都だ。

 

 鎌倉に鶴岡八幡宮を建てていることをかんがえれば、頼義が秦氏と同じ氏神を迎え、秦氏の棟梁になった

 その神殿であり、歴史的な地名なのだ!!

 

 

では、平氏は?

 平家は、平清盛継母池禅尼が、真夏流の子なのだが、平家が真夏流とつながるメリットがあるか?

 伊勢平氏は、坂東平氏とは発祥が違う。彼らは源義朝(頼朝の父)を倒すことで関東の一部を勢力地にしたが、これは清盛が最良のポジショニングをした平治の乱の結果だ。平氏は関東に勢力を得る前に真夏流と結びついていたことになる。

 

 ーーむしろ、真夏流ではなく、高階氏か。

 

 高階氏から平家に接近した。高階氏は清盛の祖父の時代に、日野実光に高階重仲娘を送り込んでいる。義家が真夏流の娘を迎え、源氏が動揺している。その義家の庶長子・悪対馬義親に、高階氏娘が嫁いでいる。しかし、義親を後援しても地方反乱ばかりで大局を動かし得ないとかんがえた高階氏は、その背後にいる姫大神は、討伐に来た平正盛(清盛祖父)に取引を持ちかける。

 源頼義が八幡神を氏神にしたら、息子義家に八幡神族の嫁が来た。それと同じだ。

 平正盛は義親を討つと一気に栄達、その後海賊を討伐し、さらに肥前藤津荘司・平直澄を討伐しているが、そのとき「西海・南海の名士」を率い、瀬戸内海に平家の勢力を広げたという。

 さほど武功のない男だった正盛が、大活躍している。そして、彼の息子・忠盛には、後妻として真夏流の池禅尼がやって来た。忠直は当時先進的な日宋貿易を手がけ、莫大な利益を手にしている!!

 そして、池禅尼の子・清盛は、正室に高階氏娘を娶っている!! もちろん大いに日宋貿易を行い、宗像氏の女神を祀る厳島神社を氏神にした!!

 シーパワーの姫大神にとって、領地よりも欲しいのは貿易利権だ。それを手に入れるために、正盛の代から面倒を見てやっていたのではないか?

 福原遷都が成り、厳島大明神を氏神にした平家の時代がつづけば、その大宮司家である宗像氏の栄耀は疑いない。

 加えると、正盛の末娘が高階氏の僧侶・澄雲と結ばれ、二人の子・高階栄子が、宮廷で栄達、後に堂上家山科家を残している。

 高階氏が平氏を選んだ結果、真夏流も縁づくことになったのか。

 あの時代の、あの連動は、高階氏の主導だったようだ。

 

 しかし、だんだん平安時代の全貌が見えてくる。

 

 それは鎌倉は大切にされるし、平家は西国に伸張するはずだ。

 

 

 


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