六代の影
日明貿易がはじまると、義満は、朝廷に働きかけ自分に「太上天皇」の号が贈られないか交渉していた。これは要するに上皇のことだが、義満は後円融上皇の在世中、朝廷への進出がはなはだしく、事実上「治天の君」として政務を代行していた。これを根拠としていたということだが
尊氏以来の徹底した上昇志向が、継続されているのか。
当然、通るはずがない。死後、朝廷から諡号として「太上天皇」を贈ろうという話になったが、四代将軍義持が辞退している。
良くも悪くも、父や祖父が手がけた仕事をやり遂げようとしていた。南北朝を合一し、武権神授説に叶ったわが身を上皇にまで押し上げようとした。
四代将軍足利義持は、父義満と折り合いが悪かった。父に譴責され、日野重光の屋敷に逃げ込んで、取りなしを頼んだエピソードがある。
この不仲は、ちょっと尊氏と直冬のそれを想起させる。ーー義持は、せっかくの金閣寺を破却し、日明貿易も取りやめにした。永楽帝は義満の死後「恭献」という号を贈り、日明関係の継続を望んだが、一四一一年、義持が明使を追い返す事件が起こり、関係は途絶える。よく、義満が明から「日本国王」を贈られたことを批難する声があるが、これは、彼の在世時からあった。明から日本の統治を追認されるなど恥ずべきことだ、という論調で、これは公卿から武家まで広く存在した。
義持の代には、上杉禅秀の乱が起こった。鎌倉公方と管領上杉氏の対立で、鎌倉府が独立志向のある東国の危険因子であることが再確認された。
なにやら、平安時代末期以降の朝廷と鎌倉幕府の関係のようだ。遠い関東に独立政府がある。その紛糾が京都にまで影を投げかける・・ーー
中央に進出した武士たちは、この関係性まで受け継いでしまったわけだ。室町幕府は、鎌倉府に子飼いの武家を増やすべく京都扶持衆という親幕府派を形成する。だが、鎌倉公方持氏は、これを粛正している。
(ーーー仁山妙義居士〈尊氏公〉の遺産か)
関東の負のレガシーに、この後も幕府は苦しめられる。
義持は応永三十年(一四二三)五代義量に将軍を譲る。だが、義量は、満十七歳で急死、義持が政務を執ることになる。この晩年は、朝廷と幕府の紛糾で苦しめられることになった。一〇一代称光天皇は病弱で、後継者問題があった。幕閣も、細川、畠山、上杉らの権力争いが起こっている。
ーー室町幕府は、すでに息切れしている。
だが、まだ、支える。
足利義持の死は、応永三十五年(一四二八)
六代将軍は、義満の子、義教になった。ーーちなみに、義持の在世中、九州方面は安定していた。これは、大内盛見が在京だったためだといわれている。
義教は、義持が途絶えさせていた義満の政策を再開させた。勘合貿易を行い、大きな利益を得た。軍事基盤の強化にも着手し、将軍直属の奉行衆を再編、さらに鎌倉府への討伐も計画するが、これは上杉氏の反対に遭って中止となった。
九州では、筑前を巡って少弐氏や大友氏が幕府と対立。義教は、大内盛見を派遣して、これを討伐させる。だが、すでに満五十四歳の老人である。一四三一年に戦死、跡を継いだ甥の持世が、渋川、少弐、大友を撃破。九州探題に命じられる。
ーーずいぶん、タイミングがいい。日明貿易が再開されると、九州探題に大内氏が就くとは・・
永享十年(一四三八)鎌倉府の公方持氏と管領上杉憲実が対立。これに乗じて義持が関東諸大名に命令、持氏を包囲させる(永享の乱)持氏は剃髪して恭順を示したが、義教はこれを殺害する。
その後、関東の支配を強めようとするが、実子を公方にしようとしたところ、またも上杉氏の反対に遭い、実現しない。関東は京都の支配を受け容れない。
このように幕府を峻厳に引き締めていた義教だが、最期は奇禍に倒れた。管領や四職にも介入し、家政に裁断を振るう義教は、有力守護大名の不満の的になり、また恐怖の対象ともなった。これが、侍所頭人である赤松満祐を動かした。満祐は、当初幕府宿老の一人として、義教との仲は良好だった。だが、義教が赤松氏の検断にも動き出し、家臣三名を殺害、満祐弟の領地を一部取り上げ、遠縁の赤松貞村に与える。貞村は将軍近習で容姿端麗、その妹は義教の側室だ!! これが満祐に疑心暗鬼を抱かせた。さらに満祐の所領を没収し、それを貞村に与えるというウワサがあり、満祐は追い詰められた。永享十二年(一四四〇)侍所別当を解任される!! 以来満祐は幕府に出仕せず、二人の間は不穏なものになる。
嘉吉元年(一四四一)満祐は、義教を自邸に招き、かねて伏せておいた武者たちが座敷に乱入、義教を討ち取った。
将軍暗殺である。




