義満の大成
(海の匂いがする)ーー義満は、玄冬の空気が、大阪湾の潮気を運んでくる。それを嗅いだ。
(火を使うか)
十二月二十一日のことである。
早朝に総攻撃をかけ、この風に乗じて、火を放った。
火が、林立する櫓に絡まって、師走の空を焦がす光と煙を巻き上げる。
(ここまでか)そう覚悟したのは、杉豊後入道の子息、杉備中守だ。突撃して、見事に果てた。
突撃した先が、反乱を起こした宮田持清弟の陣である。骨肉の争い、目も当てられない。
杉備中守の突撃に死を決意した大内義弘も、杉豊後入道も突撃を敢行、大いに暴れ回った末に、討ち取られた。
泉州金城は陥落し、応永の乱は、終わった。
応永七年(一四〇〇)三月、鎌倉公方足利義兼は、おのれの小量を以て幕府に反旗を翻したことを謝罪した。
これで赦されているのだから、鎌倉は独立王国だ。ーー謀反の仲介をした今川貞世は、死一等を減じられたものの、遠江と駿河を取り上げられ、それらは甥の今川泰範へ与えられた。
大内氏は、出雲、紀伊、石見、豊前を没収される。周防と長門も、幕府に降服した大内弘茂(ひろしげ、戦死した義弘の弟)のものとするが、だがこれに、兄の大内盛見が抵抗する。一度は北九州に撤退したものの盛り返し、長門で弘茂を討ち取り、さらにその後を継いだもう一人の弟・道通を亡ぼした。安芸や石見を制圧し、道通を応援していた国人衆を従属させる。
折良くというのか、九州で少弐氏や菊池氏が背いており、これを征伐する必要があった。義満は、盛見に対抗する人材がなく、その家督相続を承認、周防と長門を安堵している。後に豊前守護。その後盛見は幕命に服し、九州経営に尽力、一四〇八年に豊後守護を加えられる。
この九州にまでまたがる地力の強さ・・宗像大社に庇護された尊氏を思い起こさせる。その後六代将軍の時代に筑前守護まで任じられ、大内氏は西国での力を取り戻した。
大内氏の存在は、支那にも認知されていたのではないだろうか。
応永の乱の翌年、応永八年(一四〇一)ついに、明に冊封し、義満は日本国王に任じられるのだ!!
こうして、めでたく応永十一年(一四〇四)朝貢貿易、、ーー倭寇対策に勘合符を用いる貿易がスタートする。義満の死が、一四〇八年だから、最晩年になって、ようやく日明貿易にこぎ着けたのだ!!
義満は、明の要請に応じて、日本国王として倭寇の制圧に精励する。海の国は、弱まった。
明でも政変が起こり、明朝で唯一海外進出に積極的だった永楽帝に変わっている。日明貿易は莫大な利潤をもたらした。
こうして、北山文化の最後のピース、大陸色が大々的に輸入される。公家の風雅、それを、京を継承した武家が継いだ。
ーー武士は、文化人としてもやっていかなくてはならなくなった。
彼らが鎌倉から持ち込んだのが禅宗の文化で、自力・克己的な禅風が、公家文化と融けて、独自の日本的禅境を作り出した。武家たちも歌を詠むようになり、連歌が流行した。
ーー東国の野趣
その一本槍から、公家の風雅と、大陸の色彩を帯びたものに
日本文化は多様化する。猿楽や田楽が、観阿弥世阿弥の長き洗練により、ついに「能」に、押しも押されぬ伝統文化に昇華される。芸能は非人の道だったが、それが、ここまで駆け上がったのだ。建武朝が悪党階級を登用し、いっしょに非人身分も引き上げられたこと、武家の中央政権化によりかつての身分秩序が破壊されたことが、大きな背景であろう。
金閣寺など、兎角「金ぴか」でイメージされるが、金箔は、ああいう風に用いると、むしろ荘厳で渋い色味を出す。
大陸文化の華麗さを取り入れつつ、武家らしい抑制が、そこにはある。
礼法の小笠原流を筆頭に、武家の文化も大いに洗練された。
あづまえびすではなくなった。
ひのもとのもののふが生まれたのだ。




