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室町ひょうすべ拾遺1  作者: ずずつすず
義満以降─日野家の女婿たち─
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泉州金城

 ーー応永の乱の進展にもどる。応永五年(一三九八)義満と義弘の間はこじれている。 この状況で、義満が義弘の上洛を命じた。ーーだが、疑心暗鬼の義人は応じない。行けば殺される、紀伊や和泉の守護職を解かれると讒言が飛び交った。

 義弘は、非常の決断を強いられた。

 

 鎌倉公方と手を結ぶのだ。ーーすでに、鎌倉府が東国の自治王国になっていることは述べた。鎌倉公方・足利満兼は、今川貞世の仲介によって義弘と密約を結んだ。

 今川貞世・・もと九州探題、西国の国々を失い、駿河と遠江の半国守護に成り下がった人物である。ーーそれは、恨みもあろうが、去就が、南北朝時代の節義のなさだ。

 その他にも、久留島典子氏の論文にあるように、一族が割れて傍流が嫡流面をしている武家もあれば、敗北した傍流もある。

 それらを糾合し、反乱は、全国規模の様相を呈し始めた。楠木氏、菊池氏、興福寺や比叡山とも連絡を取っていたという。

 

 応永六年(一三九九)十月、義弘は軍勢を率いて堺に到着。そこから家臣をやって上洛させるが、自らは上洛しなかった。義満は、これをとがめた。伊予法眼を派遣し上洛するよう求めるが、義弘は応じない。

 さらに義満は禅僧・絶海中津を派遣。大内家の意見は割れた。このとき抗戦を主張したのが、杉豊後入道という人物だ。ーーもう二年も人様の家の系譜とにらめっこしていると、なんとなく秦氏の人物が区別できるように思える時がある。この杉豊後入道(杉重運、杉しげかず)という人物は海の国の息がかかっているように思えるが、妻不詳、息子も妻不詳、杉氏もイマイチ出自がハッキリしない。ーー女系が分からぬ、イヤな時代になった。

 ここで『応永物語』は、義弘が絶海中津にこれまでの武勲や恩賞のない不満を訴えるシーンを入れる。自分は心なくも将軍と対立する立場になってしまった、いまここで恭順しては他の武家への約束を違えることになる、そう嘆いているが、この絶海中津との会談が終わった後に、興福寺の僧兵と連絡している。

 

絶海中津の復命をうけると、義満は、十月二十八日に軍勢六千余騎を和泉へ向ける。さらに義満自身も兵を率い、和泉に諸方の軍勢が集まってくる。

 

 大内陣営では、杉豊後入道が尼崎経由で八幡の本陣を突き崩すことを主張。だが穏健派からは籠城案が出て、義弘はこれを採用した。

 彼は堺に材木集め、要塞を築城する。この城こそ、大内の富強を明かし立てるもので、四十八の井戸と一千の櫓(誇張もあろう)がある、四方十八町という巨城だった。

 

 この巨城を、幕府軍は三万で包囲、さらに四国の海賊衆を動員して、海路を封鎖した。九州は大陸を向いているが、四国は歴世、京都を向いているのだ。

 

 幕府軍は十一月二十九日、総攻撃を開始するが、大内城はよくもちこたえた。同時期に、美濃の土岐詮直(あきなお)が蜂起し、同地や尾張に攻め込む。これを鎮圧したのが大内城攻めにいた美濃守護・土岐頼益なのだから、南北朝の分裂を引きずっている。山名氏の嫡男・宮田持清も丹波へ攻め入り、入京して火を放った。さらに京極秀満が近江で挙兵、京へ攻め入ろうとする。これを防いだのが三井寺の僧兵五百で、例によって瀬田の唐橋を焼き落としている。

 (いつも焼きやがるな)ーーー龍女の橋姫も、お冠だっただろう。

 

 最大の同盟者である鎌倉公方足利満兼も、動いた。一万余で武蔵府中高安寺に進んだが、関東管領上杉憲定が必死に諫止し、それ以上は進まなかった。

 

ーー応永の乱は、全国規模の反乱となった

 

 


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