腐り果てた帳簿
三日三晩、俺は書庫に籠もった。
食事も、王宮の侍女が運んでくるものを、帳簿を見ながら片手で口に運ぶだけ。眠るのも、書庫の隅で、数時間。慣れない女の身体は、すぐに疲れた。骨格が違うせいか、長く座っていると腰が痛む。だが、そんなことを気にしている場合では、なかった。
この国――ラトビエ王国の財政は、俺の想像を、遥かに超えて、壊れていた。
まず、二重帳簿。表向きの帳簿と、実際の金の流れが、まるで違う。差額は、すべて、どこかへ消えている。次に、幽霊兵。給金の支払い記録には、実在しない兵士の名が、数百と並んでいた。その給金は、部隊長が、まるごと懐に入れている。そして、徴税。民から搾り取った税の、実に四割が、王宮に届く前に、徴税を請け負う貴族たちの手で、抜かれていた。
「……よく、これで、国が保っていたな」
俺は、乾いた声で、独りごちた。
現世で、俺は数多くの「破綻寸前」を見てきた。だが、それらは、まだ「立て直せる」破綻だった。この国のは、違う。制度そのものが、腐敗を前提に、組み上がってしまっている。誰も、それを異常だと思っていない。抜くのが当たり前。誤魔化すのが当たり前。その「当たり前」が、国を、静かに殺していた。
三日目の朝、俺は、宰相と、若き国王の前に、立っていた。
国王――エドヴィン二世は、まだ二十歳そこそこの青年だった。父王を早くに亡くし、若くして王位を継いだが、その顔には、年齢に不釣り合いな、疲労と孤独が刻まれていた。周りは、彼を利用しようとする貴族ばかり。信じられる者が、いない。そういう顔だった。俺は、その顔にも、見覚えがあった。誰も味方のいない部署に、若くして配属された、かつての後輩たちの顔に。
「――報告します」
俺は、三日間でまとめた羊皮紙の束を、机に置いた。
「この国の財政赤字の、真の原因は、税収の不足ではありません。徴収した税が、王宮に届く前に、抜かれていること。そして、存在しない支出が、帳簿に計上され、国庫から金が消えていること。この二つです。額にして、年間、およそ国家予算の、六割」
国王が、息を呑んだ。宰相が、青ざめた。
「六割、だと……」
「はい。逆に言えば」俺は、続けた。「新たな税を課さなくても、この二つを止めるだけで、国庫は、劇的に回復します。民に、これ以上の負担を強いる必要は、ありません。むしろ――重税を、下げられます」
国王の目が、見開かれた。
この国の為政者たちは、財政難を「税収の不足」だと信じ、その解決策を「増税」か「勇者による打開」しか、思いつかなかった。だが、真の問題は、入ってくる金の量ではなく、途中で漏れる金の量だった。バケツの底に、穴が開いている。水を足すより先に、穴を、塞がなければならない。
「……できるのか」国王が、掠れた声で問うた。「それが、本当に、できるのか」
「できます」俺は、即答した。「ただし、抵抗は、凄まじいでしょう。今、抜いている連中――貴族たちは、既得権益を、命がけで守ろうとします。彼らを敵に回すことに、なります」
俺は、若き王を、まっすぐに見た。
「陛下。お覚悟は、ありますか。この改革は、剣を抜く戦より、ずっと、静かで、ずっと、根深い戦になります」
国王・エドヴィンは、長いこと、俺を見ていた。孤独な、疲れた目で。そして、その目に、ゆっくりと、光が戻っていった。
「……リョウ。そなたは、不思議な女だ」王は、呟いた。「誰もが、余の顔色を窺い、耳に心地よいことしか言わぬ。だが、そなたは、余に『覚悟はあるか』と、問うた。……そんなことを言った者は、そなたが、初めてだ」
俺は、その言葉の意味を、深く考えなかった。俺は、ただ、上役に、必要な確認をしただけだ。役所で、いつもやってきたことを。事業を始める前に、決裁者の腹を、括らせる。それが、下の人間の、務めだ。
だが、若き王の目に灯った光が、単なる「信頼」だけではないことに――俺は、まるで、気づいていなかった。
「覚悟は、ある」エドヴィンは、力強く言った。「そなたに、任せる。リョウ。この国の財政を、そなたに、託す」
こうして、俺は、戦えぬ勇者から、王国の財政を預かる立場に、なった。肩書きは、王の特別顧問。事実上、この国の、財務を統べる役職だった。
厄介事の始まりだ、と俺は思った。だが、それが、思っていたのとは、少し違う種類の厄介事も含んでいることに、気づくのは、もう少し、後のことだった。




