ハズレ勇者
冷たい石の床の感触で、目が覚めた。
俺、財前亮。国家公務員、勤続二十六年。財務系の部署で、来る日も来る日も予算と睨めっこしてきた、四十八の中年官僚だ。昨夜も残業で終電を逃し、庁舎の仮眠室で寝落ちした――はずだった。
だが、目の前にあるのは、庁舎の薄汚れた天井ではなかった。高い、石造りの丸天井。壁には燭台が並び、床には、淡く光る幾何学模様が刻まれている。中世の甲冑をまとった男たちが、俺を囲むように、ずらりと立っていた。
全員が、俺を見下ろして、押し黙っていた。
夢にしては、床が冷たすぎる。頬に触れる石の冷気が、これが現実だと告げていた。
俺は身を起こそうとして――違和感に、動きを止めた。
声が、出る前から、わかった。喉の位置が違う。肩の重さが違う。身体の輪郭が、二十六年つき合ってきた俺のものと、まるで違っていた。おそるおそる、自分の手を見る。細い。白い。骨格からして、別人の手だった。
女の、手だった。
混乱が、喉元までせり上がる。だが、それを飲み下したのは、長年の役所勤めで叩き込まれた癖だった。取り乱すな。まず、状況を把握しろ。感情は、後回しにしろ。
豪華な祭服をまとった老人が、震える声を発した。
「せ、成功……したのか。勇者召喚は」
勇者召喚。その言葉が、俺の脳を、一気に覚醒させた。魔法陣。甲冑。異世界。俺は、召喚されたのだ。この、見知らぬ世界に。勇者として。
だが、老人の隣で、ローブ姿の術者が、青ざめた顔で古文書を繰っていた。その指が、細かく震えている。
「……申し訳、ございません」術者は、絞り出すように言った。「術式が、半分、失われておりました。召喚は成りました。ですが……戦闘の加護が、付与されておりません。この方には、勇者としての力が、何一つ、宿っておりません」
広間の空気が、こわばった。
「そして……召喚の反動により、この方の……性別が、変じております」
沈黙が、落ちた。
数十人の視線が、俺の身体に――女に変えられた俺に、突き刺さる。値踏みするような、失望するような、無数の視線。俺は、その一つ一つを、皮膚で感じた。そして、自分の身に起きたことの全容を、ようやく、理解した。
召喚された。勇者として。だが、戦う力はない。おまけに、性別まで、書き換えられた。
二重の、致命的な失敗。
役所の言葉で言えば、これは決裁を通ってしまった重大な事務過誤だ。取り返しがつかず、しかし誰も責任を取りたがらない類の。そして俺は、その「間違って生み出された成果物」だった。
「……ハズレか」
甲冑の男の一人が、吐き捨てるように言った。声に、隠しきれない苛立ちがあった。
「戦えない勇者。それも、女。……我らは、この日のために、どれだけのものを費やしたと思っている。国庫の底をはたいて、儀式の触媒を集め、各地から術者をかき集めて。それが、これか」
男の言葉には、単なる侮蔑ではなく、追い詰められた者の絶望が滲んでいた。
俺は、冷たい床に座り込んだまま、その男を見上げた。恐怖は、不思議と、なかった。あったのは、二十六年間、予算折衝の場で幾度となく向き合ってきた、あの感覚だ。金がない。人がいない。時間がない。ないない尽くしで、感情的になり、他人を責め、目の前の数字から目を逸らす――そういう、破綻に向かう組織の、匂い。
この国は、そういう匂いがした。
俺は、慣れない身体で、ゆっくりと立ち上がった。足元がふらつく。重心が、まるで違う。だが、倒れはしなかった。
「一つ、伺います」
高い、掠れた声で、俺は祭服の老人に問うた。
「あなた方が、勇者を召喚してまで打開したかった国難とは、何ですか。戦争ですか。飢饉ですか。それとも――財政ですか」
老人が、虚を突かれたように、俺を見た。召喚された「ハズレ」が、逆に問い返してくるとは、思わなかったのだろう。
「……なぜ、それを」
「あなた方の顔です」俺は言った。「戦を恐れる顔じゃない。飢えを恐れる顔でもない。……金の算段が尽きた人間の顔だ。二十六年、そういう顔ばかり、見てきましたから」
老人の――王の宰相だと、後で知る――喉が、ごくりと動いた。
「……そのとおりだ」宰相は、力なく認めた。「我がラトビエ王国は、破産の淵にある。重税に耐えかねた民は国を捨て、貴族は国庫を私腹に変え、隣国はその弱みを見透かして、国境に兵を集めている。我らは、最後の望みを、勇者に託した。戦って、この窮地を、力で打ち破ってくれる英雄に。……だが」
宰相は、俺を見た。絶望に濁った目で。
「呼ばれたのは、戦えぬ、女の、勇者だった」
財政破綻。私腹を肥やす貴族。国境の敵。
その一つ一つが、俺の中で、二十六年ぶんの職業本能を、静かに、しかし確実に、呼び覚ましていった。
この宰相は、根本を、見誤っている。国が傾く原因の大半は、剣で斬れるものではない。それは、帳簿の中にある。制度の歪みの中に。人が、数字から目を逸らした、その先に。
俺は、剣を握れない。魔法も、使えない。女の身体で、戦場に立つことなど、できはしない。
だが、破綻寸前の帳簿と向き合い、乾いた組織に血を通わせ、逃げ出す者を押しとどめる制度を組む――それを、俺は、二十六年間、やってきた。
勇者の代わりに呼ばれたのが、よりによって、それを専門とする人間だったというのは。あるいは、この壊れかけた術式が起こした、たった一つの、意味のある偶然だったのかもしれない。
「宰相殿」俺は、まっすぐに、彼を見た。「わたしは、勇者にはなれません。剣も魔法も、扱えない。それは、はっきり申し上げます」
周囲の失望が、濃くなる。
「ですが――この国の財政を、見せてください」
俺は、続けた。慣れない女の声を、しかし、確かな意志で満たして。
「戦で国を救うことは、できません。でも、数字で国を立て直すことなら――たぶん、この世界の、誰よりも」
広間が、静まり返った。
誰も、俺の言葉の意味を、すぐには理解できないようだった。当然だ。この世界の人間にとって、国を救うのは剣であり、魔法であり、英雄の武勇だ。「帳簿で国を救う」など、聞いたこともないだろう。
だが、宰相の目の奥で、何かが、微かに動いた。溺れる者が、藁の影を見たような、そんな光が。
「……名を」宰相が、掠れた声で言った。「勇者殿。いや――あなたの、名を」
俺は、名乗ろうとして、一瞬、迷った。財前亮。その名は、もう、この身体には、しっくりこない気がした。だが、捨てる気も、なかった。俺は、俺だ。中身は、二十六年を役所で生きた、あの財前亮のままだ。
「財前亮。……こちらでは、リョウと」
こうして、戦わない勇者――中身は四十八の中年官僚の、異世界再建が、静かに始まった。
その夜、俺は宰相に案内され、王国の財務記録が保管された書庫に、足を踏み入れた。埃をかぶった帳簿の山を、燭台の灯りで照らし出す。
書庫の入口には、一人の騎士が、護衛として立っていた。銀の甲冑に、隙のない立ち姿。広間で、俺を「ハズレ」と最初に吐き捨てた、あの男だった。騎士団長・ガレスというらしい。彼は、俺が書庫に入るのを、あからさまに冷めた目で見ていた。戦えない女が、埃臭い部屋で何をするつもりだ、と顔に書いてあった。
俺は、その視線を、気に留めなかった。侮蔑には慣れている。役所で、他部署から「金の計算しかできない連中」と見下されるのも、日常だった。俺は、ただ、帳簿の山に向き直った。
そして、最初の一頁を開いた瞬間――俺は、息を呑んだ。
現世で二十六年、あらゆる破綻を見てきた俺をもってしても、これは、想像を絶していた。この国の財政は、傾いているのではない。とうの昔に、腐り果てていた。
まともに機能している数字が、一つも、ない。
「……これは」
俺の口から漏れたのは、怒りでも、絶望でもなかった。ただ、静かな、覚悟だった。
やるべきことが、山のようにある。そして、それをやれるのは、この世界で、たぶん、俺だけだ。
女に変えられた身体のことも、元の世界に帰る方法も、今は、後回しでいい。目の前に、立て直すべき国が、一つ、ある。
燭台の灯りが、女の細い指を照らしていた。その指で、俺は、最初の帳簿を、めくり始めた。
どれほど時が経ったか。気づけば、蝋燭は半分に減り、俺の膝の上には、書き出した問題点の羊皮紙が、何枚も積み上がっていた。横領の痕跡。二重帳簿。存在しない兵への給金。――この国は、内側から食い荒らされていた。
顔を上げると、書庫の入口に、まだ、あの騎士団長が立っていた。
だが、その目つきは、さっきとは、違っていた。
「……あんた」ガレスが、低い声で言った。「一晩中、そこで、何をしていた」
「仕事です」俺は、羊皮紙を示した。「この国が、なぜ傾いたか。その理由を、二百七箇所、見つけました。まだ、途中ですが」
騎士団長は、しばらく、黙っていた。俺を「ハズレ」と呼んだ男が、俺の、埃と蝋で汚れた指と、積み上がった羊皮紙を、じっと見ていた。
「……女の勇者など、と侮った。詫びよう」ガレスは、ぶっきらぼうに言った。「戦えぬのは、事実だ。だが、あんたは、誰も見ようとしなかったものを、一晩、正面から見ていた。……それは、剣を握るのと、同じくらい、勇気のいることだ」
俺は、少し面食らった。ただ、仕事をしただけだ。二十六年、いつもやってきたことを。それを「勇気」などと言われる筋合いは、ない。
「……買いかぶりです」俺は、また帳簿に目を戻した。「わたしは、数字から逃げなかっただけだ。それしか、能がないので」
ガレスは、何も言わなかった。ただ、その視線が、さっきまでの侮蔑とは、明らかに違う色を帯びていたことに――帳簿に没頭していた俺は、まるで、気づかなかった。




