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死神の彼は、私の命を奪えない  作者: 霜月 羽流


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第二話 少女の未練・前編 笑顔の理由


「……眠れない。」


深夜二時。

病室の天井を見つめながら、千菊雛は小さく呟いた。

窓の外には、眠りについた街が広がっている。


遠くを走る車の音。


廊下の向こうから聞こえる、看護師の足音。

そして、ベッドの脇に置かれた医療機器の電子音。

いつもと変わらない夜だった。


けれど、雛にとっては昨日までとは違う夜だった。


「あと……三ヶ月。」


その言葉を口にすると、胸の奥が重くなる。

雛は枕元のノートを手に取った。

昨日、モルティオに言われたことを思い出す。


――お前の未練はなんだ?


「未練……。」


ノートを開く。

そこには、入院してから書き続けている日記があった。


『今日はお母さんがプリンを買ってきてくれた』


『看護師さんが新しい漫画を貸してくれた』


『今日は窓から猫が見えた』


雛はページをめくる。


そして、あるページで手を止めた。


『今日はお母さんが少し疲れていた』


その下には、短い文章が続いていた。


『だから、いつもよりたくさんお話をした』


雛はその文章をじっと見つめる。


「……これも、未練なのかな。」


けれど、すぐに首を横に振った。


「違うよね。」


お母さんと話すことは、特別なことではない。

昔から、毎日のようにしてきたことだ。

それに――。


「お母さんには、心配かけたくないし。」


雛はノートを閉じた。


そのとき。


廊下から、聞き慣れた声が聞こえた。


「……雛、まだ起きてる?」


母親の声だった。


「お母さん?」


雛が返事をすると、扉がゆっくりと開く。

母親の美咲が、そっと顔を覗かせた。


「ごめんね。起こしちゃった?」


「ううん。眠れなかったの。」


「そう。」


美咲は病室へ入ると、ベッドの横に置かれた椅子へ腰掛けた。


「お母さん、まだ帰ってなかったの?」


「うん。ちょっと先生と話してたの。」


「そっか。」


雛は母親の顔を見つめた。

目の下には、薄い隈ができている。

いつもきちんと整えている髪も、今日は少し乱れていた。


「……お母さん。」


「なに?」


「今日、疲れた?」


美咲は一瞬だけ目を見開いた。

それから、いつもの笑顔を浮かべる。


「ううん。全然。」


「ほんと?」


「ほんとよ。」


雛は母親の左手を見る。

指先が、ぎゅっと握られていた。

昔からそうだった。

美咲は不安なことがあると、無意識に左手を握る。


「……そっか。」


雛はそれ以上聞かなかった。


代わりに、ベッドの上に置いてあった漫画を手に取る。


「ねえ、お母さん。この漫画、すごく面白いんだよ。」


「そうなの?」


「うん。ここに出てくる猫がね、すごく変な顔をするの。」


雛はページを開き、猫の絵を指差した。


「ほら、これ!」


美咲は漫画を覗き込む。


「ふふっ。本当ね。変な顔。」


「でしょ?」


雛は笑った。


美咲も笑った。


しばらく二人で漫画を眺めていたが、雛はふと口を開く。


「……お母さん。」


「ん?」


「明日も来てくれる?」


美咲は少し驚いたように娘を見る。


「もちろん来るわよ。」


「約束?」


「約束。」


雛は安心したように頷いた。


「じゃあ、明日はもっと面白いところ見せてあげるね。」


「楽しみにしてる。」


美咲はそう答えた。

けれど、笑顔のまま視線を落とす。

雛はそれに気づいていた。

気づいていたけれど、何も言わなかった。

お母さんが悲しそうな顔をすると、自分まで悲しくなる。


だから。


「……お母さんが笑ってくれるなら、それでいいや。」


雛は心の中でそう呟いた。


その夜、美咲は雛が眠りにつくまで、ずっとそばにいた。


⸻


冥府


「……また読んでんのか?」


モルティオの自室。


机の上に広げられた資料を覗き込みながら、レイが呆れた声を出した。


「うるさい。」


「いや、だってさ。昨日から何回目だよ、それ。」


「数えてない。」


「絶対、五回以上は読んでるだろ。」


モルティオは資料から目を離さなかった。

そこに書かれているのは、千菊雛の基本的な情報。


年齢、病状、入院日


家族構成。


母親の名前――千菊美咲。


そして、面会記録。


『母親はほぼ毎日、面会に訪れている』


「……。」


モルティオは資料の一文を指でなぞった。


「なあ、レイ。」


「ん?」


「未練っていうのは、本人が自覚していないものでも成立するのか?」


レイは椅子に座り直した。


「急に難しい話だな。」


「答えろ。」


「俺に聞くなよ。」


「お前は何でも知ってるんじゃなかったのか。」


「それは親友としての自信であって、知識の話じゃねぇ!」


「……。」


モルティオはため息をついた。

レイは少し考えたあと、真面目な顔になる。


「でも、そういうこともあるんじゃないか?」


「そういうこと?」


「自分では気づいていないけど、行動に出てる願いってあるだろ。」


「……行動に。」


「ああ。」


レイは指を折りながら話し始める。


「毎日同じ場所に行くとか。」


「誰かに何度も会いに行くとか。」


「絶対に捨てられないものを持ってるとか。」


モルティオは黙って聞いていた。


「本人が『これが未練だ』って言えなくてもさ、そういう行動には何か理由があるかもしれない。」


「……なるほどな。」


モルティオは資料を見下ろす。


雛の面会記録。


母親が毎日来ている。

その事実が、なぜか引っかかった。


「……母親か。」


「え?」


「いや、なんでもない。」


モルティオは資料を閉じた。

しかし、レイは見逃さなかった。


「お前、雛ちゃんの母親のことも気になってんの?」


「気になるというか……。」


モルティオは言葉を選ぶ。


「雛は、自分のために何かを望んでいるようには見えない。」


「だから、家族のために何かをしているんじゃないかって?」


「ああ。」


レイは少しだけ眉を下げた。


「でもさ。」


「なんだ。」


「それが分かったとしても、本人が自分の未練だと認めるとは限らないぞ。」


モルティオは顔を上げた。


「……。」


「誰かのために生きたいって願いは、時々、自分の願いを隠しちまうからな。」


その言葉に、モルティオは黙り込んだ。

しばらくして、窓の外を見る。

冥府の空には、青白い月が浮かんでいた。


「……明日、もう少し雛の様子を見てみる。」


「おう。」


レイは立ち上がった。


「ただし、無理はするなよ。」


「分かってる。」


「あと、深入りしすぎるな。」


「……先輩と同じことを言うな。」


「親友だからな!」


「その理屈はおかしい。」


レイは笑いながら部屋を出ていった。


モルティオは一人、机の上の資料を見つめる。


「……行動に出ている願い、か。」


⸻


翌朝 病室


「おはよう、雛。」


「おはよう、お母さん。」


美咲はいつものように、紙袋を手に病室へ入ってきた。


「今日は何を持ってきたの?」


「雛の好きなもの。」


「えっ、なに?」


美咲が袋から取り出したのは、小さな苺のショートケーキだった。


「わあ!」


雛の顔がぱっと明るくなる。


「駅前のお店で買ってきたの。」


「ありがとう、お母さん!」


雛はケーキを受け取ろうと手を伸ばす。

しかし、美咲はすぐには渡さなかった。


「朝ご飯を食べてからね。」


「えー!」


「約束でしょ?」


「……はーい。」


雛は頬を膨らませる。

美咲は笑った。


「そんな顔しないの。」


「だって、早く食べたいんだもん。」


「じゃあ、ちゃんと食べましょうね。」


二人で朝食を食べ始める。

雛はいつもより少し多く食べた。

美咲が嬉しそうに見つめていることに気づいたからだ。


「……お母さん。」


「なに?」


「私、今日いっぱい食べたよ。」


「うん。偉いね。」


「だから、安心した?」


美咲は一瞬、言葉を失った。


「……ええ。」


そして、雛の頭を撫でる。


「安心したわ。」


雛は笑った。


「よかった。」


その笑顔を見て、美咲は少しだけ俯いた。


「……雛。」


「ん?」


「無理してない?」


雛は首を傾げる。


「何が?」


「ご飯とか……笑ったりとか。」


「してないよ。」


雛は明るく答えた。


「だって、お母さんが安心してくれるなら、私も嬉しいもん。」


美咲の手が止まった。


「……そう。」


「うん。」


美咲は笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。


「……ごめんね。」


「なんで謝るの?」


「ううん。なんでもない。」


雛は不思議そうに母親を見る。


そして、少し考えたあと、ケーキの箱を開いた。


「ねえ、お母さん。」


「なに?」


「半分こしよ。」


「え?」


「私、一人で食べるより、お母さんと一緒に食べたい。」


美咲は目を伏せた。


「……うん。」


「じゃあ、こっちが私の分ね!」


雛はケーキを半分に分ける。

少し形が崩れてしまった。


「……あ。」


「ふふっ。雛らしいわね。」


「もう、お母さん!」


二人の笑い声が病室に響く。

その様子を、窓際に立つモルティオが静かに見つめていた。


「……。」


雛は母親が笑うたびに笑っている。

母親が心配そうな顔をすれば、明るい話題を探す。

食事を残さないように頑張る。


ケーキを半分に分ける。


どれも、小さな行動だった。


けれど…


「……お前。」


モルティオは雛を見つめる。


「自分がどうしたいかより、母親がどう思うかを気にしてるんじゃないか?」


「え?」


雛が振り返る。


「どういうこと?」


「いや。」


モルティオは首を横に振った。


「ちょっと気になっただけだ。」


雛は少し考えたあと、母親を見る。

美咲は笑顔でケーキを食べていた。


けれど、その目は少し赤かった。


「……お母さんが悲しい顔をするの、嫌なの。」


雛はぽつりと呟いた。

モルティオは黙って聞いていた。


「だから、私が笑ってたら、お母さんも笑ってくれるかなって。」


雛はそう言って、母親に笑いかける。


「ね、お母さん。」


「……ええ。」


美咲は笑った。


けれど、その目から一粒の涙がこぼれた。

雛は慌てて手を伸ばす。


「お母さん、泣かないで!」


「ごめんね。これは……嬉しい涙よ。」


「本当?」


「本当。」


雛はしばらく母親を見つめていた。

そして、安心したように笑う。


「……よかった。」


その一言を聞いて、モルティオの胸に小さな痛みが走った。


――この子は、自分が死ぬことよりも。


――母親が悲しむことを恐れているのかもしれない。


しかし、それはまだ確かな未練ではない。

雛自身が、そう思っているかどうかも分からない。

モルティオは静かに立ち上がった。


「……また来る。」


「うん!」


雛は手を振る。


「次は何を探すの?」


モルティオは少しだけ考えた。


「そうだな。」


「お前が本当にやりたいことを、探してみるか。」


雛は首を傾げる。


「本当にやりたいこと……。」


「……うん。」


雛は窓の外を見た。


青い空。


遠くを飛ぶ鳥。


そして、隣にいる母親。


「……お母さんと、どこかに行きたい。」


美咲が顔を上げる。


「雛?」


「ううん。なんでもない。」


雛は笑った。

モルティオはその言葉を聞き逃さなかった。


「……どこに?」


「……まだ、分からない。」


雛は窓の外を見つめたまま答えた。


「でも……お母さんと一緒がいい。」


モルティオは黙って頷いた。


「そうか。」


その日、モルティオは初めて、雛の未練に繋がるかもしれない言葉を聞いた。


けれど。


雛がなぜ「母親と一緒にいたい」と願ったのか。


その本当の理由を、彼はまだ知らなかった。


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