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死神の彼は、私の命を奪えない  作者: 霜月 羽流


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第二話 少女の未練・後編 行きたい場所


「……お母さんと、どこかに行きたい。」


病室を出たモルティオの頭には、その言葉が残っていた。


窓の外を見つめながら呟いた、雛の表情。


あれは今までの笑顔とは少し違った。

母親を安心させるための笑顔でもない…

病気を心配させないための笑顔でもない…


ただ純粋に――。


「……行きたい、か。」


モルティオは廊下を歩きながら呟いた。

これまでの雛は、何をするにも母親のことを気にしていた。


ケーキを食べるときも。


会話をするときも。


笑うときでさえ。


けれど、さっきの言葉だけは違った。

あれはきっと、雛自身の願いだ。


「なら……どこに行きたいんだ?」


その答えを聞くために、モルティオは一度冥府へ戻ることにした。


⸻冥府


「で?」


冥府へ戻るなり、レイが声をかけてきた。


「何か分かったのか?」


「少しな。」


「お、珍しく進展じゃん。」


「雛は、母親とどこかへ行きたいらしい。」


「それ、未練じゃないのか?」


「まだ分からない。」


「なんで?」


「どこかへ行きたいだけなら、誰だって思うだろ。」


「まあ、それもそうか。」


レイは腕を組んで考える。


「じゃあ、どこに行きたいのか聞けばいいじゃん。」


「それが分からないんだ。」


「本人も?」


「ああ。」


モルティオはため息をついた。


「ただ……。」


「ん?」


「今日のあいつは、いつもと違った。」


「どんなふうに?」


モルティオは少し考えてから答えた。


「母親のためじゃなくて、自分自身のために笑ってた。」


レイは一瞬だけ黙る。


「……それなら、ちゃんと探してやらないとな。」


「そうだな。」


モルティオは頷いた。


「雛自身が、本当に行きたい場所を。」


⸻翌日。


「お母さん、今日も来てくれたんだ。」


「当たり前でしょ。」


美咲は笑いながら、持ってきた荷物をテーブルに置いた。


「今日は何を持ってきたの?」


「内緒。」


「えー。」


雛が笑う。


いつもの病室…


いつもの会話…


けれど、今日は少しだけ違った。


「ねえ、お母さん。」


「なに?」


「私、小さい頃に海へ行ったことある?」


美咲の手が止まった。


「……どうして?」


「昨日、昔の写真を見つけたの。」


雛はノートから一枚の写真を取り出した。

そこには、幼い雛と美咲が写っていた。


青い海。


白い砂浜。


二人の笑顔。


「これ。」


美咲は写真を受け取る。


「懐かしい……。」


「楽しかった?」


「ええ。」


「また行きたいな。」


雛がそう言うと、美咲は笑った。


「そうね。」


「……本当に?」


「うん。」


雛の顔が明るくなる。


「じゃあ――」


しかし。


美咲の表情が少しだけ曇った。


「でもね。」


「今は……ちょっと難しいかもしれない。」


「……。」


雛の笑顔が止まる。


「どうして?」


「雛の体調のこともあるし。」


「……うん。」


「病院から遠く離れるのは、先生も心配すると思うの。」


美咲は写真を見つめる。


「それに、お母さんも仕事を休まないといけないから。」


「そっか。」


雛はすぐに笑った。


「じゃあ、仕方ないね。」


「雛……。」


「大丈夫。」


雛は首を振る。


「お母さんが悪いわけじゃないもん。」


「……。」


「いつか行けたらいいな。」


その言葉に、美咲は何も返せなかった。


⸻


病室の隅。


モルティオは二人の会話を聞いていた。


「……いつか、か。」


雛は笑っている。


でも。


その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさが見えた。


「……あれ?」


突然、モルティオの視界が揺れた。


「……っ。」


壁に手をつく。


また霊力が減っている。


人間界に長くいるほど、霊力は消耗する。

それでも、モルティオはその場を離れなかった。

雛が写真を見つめているからだ。


「……行きたいんだろ。」


小さく呟く。

もちろん、雛には聞こえない。


「だったら……。」


モルティオは拳を握る。


「どうすれば行ける?」


⸻


その日の夕方。


モルティオはノアのもとを訪れた。


「ノアさん。」


「どうしたの?」


「雛を海に連れていきたいと思っています。」


ノアは少しだけ目を細める。


「海?」


「はい。」


モルティオは事情を説明した。


雛が幼い頃に母親と海へ行ったこと。

もう一度、母親と海へ行きたいと思っていること。

しかし、病気のため簡単には外出できないこと。

そして母親も、仕事を休んで長時間付き添うことに不安があること。


「なるほどね。」


ノアは静かに頷いた。


「それなら、簡単には決められないわね。」


「はい。」


「でも、決めるのはあなたじゃない。」


「……分かっています。」


「雛さん自身と、お母さん。」


ノアは穏やかに続ける。


「あなたができるのは、その二人が選ぶための時間を作ることよ。」


「……時間。」


その言葉に、モルティオは黙った。


「ただし。」


ノアの声が少しだけ真剣になる。


「あなた自身の霊力も考えなさい。」


「……はい。」


「海まで行けば、人間界にいる時間も増えるでしょう。」


「分かっています。」


「無理をすれば、あなた自身が動けなくなる。」


「……。」


「それでは、雛さんを見届けることもできないわ。」


モルティオは拳を握った。


「分かりました。」


⸻


翌日。


モルティオは再び病室へ向かった。

雛は窓の外を眺めていた。


「雛。」


「モルティオ。」


振り返った雛が笑う。


「昨日の話だけど。」


「海のこと?」


「ああ。」


「……うん。」


雛は少し俯く。


「お母さん、難しいって。」


「聞いた。」


「そっか。」


「お前はどうしたい?」


「……。」


雛はしばらく黙った。


「行きたい。」


小さな声だった。


「本当に?」


「うん。」


「だったら、そう言えばいい。」


「でも……。」


「母親を困らせたくない?」


雛は頷いた。


「お母さん、最近ずっと頑張ってるから。」


「私のことで仕事も大変だと思う。」


「だから、これ以上迷惑かけたくない。」


モルティオは黙って雛を見る。


やっぱりそうだ。

この子は、自分の願いより先に母親のことを考える。


「……雛。」


「なに?」


「母親がお前のために頑張ることを、お前が『迷惑』だと思う必要はない。」


「でも……。」


「お前だって、母親が笑うために色々してただろ。」


「……。」


「ケーキを半分にしたり。」


「食事を頑張ったり。」


「笑ったり。」


雛は目を伏せる。


「それと同じだ。」


「……同じ?」


「ああ。」


モルティオは静かに言った。


「母親だって、お前のために何かしたいと思っているかもしれない。」


雛はしばらく黙っていた。


やがて。


「……でも、怖い。」


「何が?」


「もし海に行って、私の具合が悪くなったら……。」


雛の声が震える。


「お母さん、きっと自分を責める。」


「……。」


「私のために無理したからって。」


その言葉に、モルティオは何も言えなかった。


雛にとっての障害は、病気だけではない。

自分の願いによって、母親を苦しませてしまうこと。

それが何より怖いのだ。


「だから……。」


雛は写真を握る。


「海に行きたいけど、行かない方がいいのかもしれない。」


モルティオは写真を見る。


幼い雛と美咲。


二人が笑っている。


そして今。


その笑顔をもう一度取り戻せるかもしれない。


「……いや。」


モルティオは首を横に振った。


「行かないって決めるのは、まだ早い。」


「え?」


「病院の許可を取る。」


「……。」


「体調を見ながら、短時間だけ行ける方法を探す。」


「でも、お母さんの仕事は……。」


「それも母親と相談する。」


「……。」


「全部、無理なら諦める。」


モルティオは雛を見る。


「でも、できるかもしれないのに、最初から諦める必要はない。」


雛の目が少しずつ潤んでいく。


「……行きたい。」


「うん。」


「お母さんと、海に行きたい。」


「じゃあ、まずはそれを母親に伝えろ。」


「……怖い。」


「それでもだ。」


雛は涙を拭う。


そして、ゆっくりと頷いた。


「……うん。」


窓の外から、柔らかな風が吹き込む。

カーテンが揺れる。


雛はもう一度、写真を見つめた。


「今度は……ちゃんと、お母さんと行きたい。」


その言葉を聞いて。

モルティオは初めて確信した。


――これが、雛の未練なのかもしれない。


ただ海に行くことではない。

母親ともう一度、あの日のように笑うこと。


そのために。


二人の前には、まだ越えなければならない壁がある。


病気…


病院の許可…


母親の仕事…


そして何より――。


「……お母さんに、お願いしてみる。」


雛自身が、自分の願いを口にすること。


それが、海へ向かうための最初の一歩だった。


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