第一話 新人死神の初仕事 後編
窓から吹き込んだ風が止むと同時に、モルティオの姿は病室から消えた。
次の瞬間、彼が立っていたのは、人間界とはまるで違う場所だった。
薄紫色の空がどこまでも広がり、巨大な月が静かに浮かぶ世界。
石畳の道の両側には黒い街灯が並び、その淡い青白い灯りが幻想的な街並みを照らしている。
ここは、死神たちが暮らす世界――冥府。
「初仕事か……。」
モルティオは小さく息をつく。
雛と話していた時間は決して長くなかった。それでも、彼女の不安そうな表情と最後に見せた笑顔が頭から離れなかった。
「未練が分からない、か……。」
そう呟きながら歩いていると、向こうから一人の死神が歩いてきた。
長身で鋭い目つきの男。
肩には黒いマントを羽織り、腰には大きな鎌を下げている。
新人たちの教育係でもある先輩死神だった。
「おい、モルティオ。」
「先輩。」
男はモルティオの前で立ち止まると、じっと顔を見つめる。
「その顔……初仕事はうまくいかなかったか?」
「いえ、任務自体は問題ありません。」
「そうか。」
先輩は鼻で笑う。
「……だが、お前はまた甘いことを考えているんだろう。」
モルティオは少しだけ眉をひそめた。
「どういう意味ですか。」
「担当したのは余命三ヶ月の少女だそうだな。」
「ええ。」
「病に侵され、いずれ苦しみながら命を落とす。」
先輩は淡々と続ける。
「なら、その苦しみから救ってやることも救済だ。」
「……。」
「情を移すな。」
「……。」
「人間は必ず死ぬ。」
「……。」
「俺たちは見届けるだけだ。」
モルティオは静かに息を吸い込んだ。
「俺は違うと思います。」
先輩が片眉を上げる。
「何?」
「最後まで生きたいと願うなら、その時間を大切にしてほしい。」
モルティオは真っすぐ先輩を見る。
「笑って終われる人生なら、そのほうが救済になることだってあるはずです。」
先輩はしばらく黙っていた。
やがて、小さく肩をすくめる。
「……新人らしい考えだ。」
「そうかもしれません。」
「好きにしろ。」
先輩はモルティオの横を通り過ぎながら言った。
「ただ一つだけ忠告しておく。」
モルティオは振り返る。
「人間に深入りするな。」
「……。」
「死神は人に干渉するほど霊力を失う。」
先輩は歩みを止めない。
「救うつもりが、自分まで消えるなんて笑えないからな。」
そのまま手をひらひらと振り、姿を消していった。
モルティオは苦笑する。
「……そんなこと、分かってますよ。」
そう呟くものの、胸の奥には小さな違和感が残っていた。
本当に、雛には情を移していないのだろうか。
考えても答えは出なかった。
歩き続けると、一際大きな建物が見えてくる。
冥府管理局。
死神たちの本部だ。
モルティオは最上階にある執務室の扉をノックした。
「どうぞ。」
優しい女性の声が返ってくる。
「失礼します。」
部屋に入ると、大きな机に向かって書類を整理している女性がいた。
淡い金色の髪を後ろでまとめ、穏やかな笑みを浮かべるその女性こそ、モルティオ直属の上司――ノアだった。
「少し待っていてね。」
「はい。」
勧められた椅子へ腰掛ける。
静かな部屋には、紙をめくる音だけが響いていた。
数分後、ノアはペンを置いて微笑む。
「お待たせ。」
「初任務、お疲れさま。」
「ありがとうございます。」
「どうだった?」
モルティオは少し考えたあと、正直に答えた。
「未練が分からないそうです。」
「その子が?」
「はい。」
「だから、一緒に探すことにしました。」
ノアは少しだけ目を丸くしたあと、優しく笑った。
「あなたらしい答えね。」
「怒りませんか?」
「どうして?」
「もっと効率よく終わらせろって言われると思ってました。」
ノアは首を横に振る。
「死神にも、それぞれやり方があるわ。」
「あなたはあなたの信じる救済を貫きなさい。」
「……ありがとうございます。」
「ただし。」
ノアの表情が少しだけ真剣になる。
「無理だけはしないこと。」
「霊力を使いすぎれば、あなた自身が危険になる。」
「はい。」
「それと、その子は余命までまだ時間があるわ。」
ノアは一枚の資料を差し出した。
「その間は別の任務もお願いすることになると思う。」
「三日後に詳しい内容を渡すから、それまでは休みなさい。」
「分かりました。」
モルティオは深く頭を下げ、部屋を後にした。
廊下を歩いていると、静かな空間を突き破るような大声が響く。
「おーーい! モルティオーー!!」
モルティオは顔をしかめる。
「……またか。」
「聞こえてるだろー!」
振り返ると、銀髪を短く切った青年が満面の笑みで手を振っていた。
「レイ。」
「よう! 親友!」
「誰が親友だ。」
「ひどっ!」
レイは大げさに胸を押さえる。
「研修からずっと一緒だった仲じゃないか!」
「俺はお前を親友と認めた覚えはない。」
「照れるな照れるな!」
「照れてない。」
「冷たいなぁ。」
レイは笑いながら肩を組もうとする。
モルティオは一歩横へ避けた。
「触るな。」
「相変わらずだな。」
「お前が距離感を間違えてるだけだ。」
レイは声を上げて笑った。
「でも、その顔を見る限り、また先輩に『甘い』って言われたんだろ?」
モルティオは驚く。
「……なんで分かった?」
「長い付き合いだからな!」
「顔に全部書いてある。」
モルティオは近くの窓ガラスを見る。
そこには、確かにどこか浮かない表情の自分が映っていた。
「隠せてると思ってた。」
「全然。」
レイは笑う。
「でも、それがお前らしい。」
「最後まで人間に寄り添いたい。」
「そういう考え、俺は嫌いじゃないぜ。」
モルティオは少しだけ笑みを浮かべた。
「……ありがとう。」
「おう!」
レイは親指を立てる。
「困ったら相談しろ!」
「その時は頼む。」
二人は並んで寮へ向かって歩き出した。
夜空には大きな月が静かに輝いている。
その光の下で、モルティオは心の中で一人の少女の名前を呟いた。
(千菊雛……。)
(お前の未練、俺が必ず見つけてやる。)
その誓いが、彼自身の運命を変えることになるとは、この時のモルティオはまだ知る由もなかった。




