影の中
「いつ、気づいたの」
小さな声で、やっとそれだけ聞き返す。
次期獅子が指名されたことは、まだ公になっていない。確証が何もない今、塔子にはいくらでもしらを切ることができたが、あえてそれをしなかった。良司には見破られても良いと思えたのだ。
それが言外の肯定であることは、彼ももちろん分かっていた。真面目な顔つきを崩さず、しばらくは何も言わなかったが、やがてゆっくりと息を吐き出す。
「だから、鷹宮が来たときだよ。直感だったけど」
塔子は絶句した。
「まさか……その場で?」
良司は何でもないことのように頷く。そしてしみじみとした様子で苦笑し、頭をかいた。
「いやあ、やっぱ、あらためて驚くな。自分で当てても。とーこさんってすごいのな」
「驚くのはこっちよ……」
塔子は愚痴っぽく呟いた。
上級生に知れるならまだしも、情報の少ない良司が真っ先に答えにたどりつくとは思わない。きょとんとした良司を見て、塔子はゆるゆると首を振る。
「それに、全然すごくなんてない……。自分でも、よくわからないの。さっきも言ったけど、わたしは普通の生徒だもの」
ぽつりと呟く。
良司はいつのまにかこちらに向き直っており、椅子の背に両腕を乗せて塔子をのぞきこんだ。
「……嬉しくないの?」
そっと見上げれば、良司の丸い目とぶつかる。
「嬉しいも何も。……獅子ってものがわからないの。だから決心もついていないのに」
「でも、悪い話じゃないだろう? それどころか、名誉なことだよ。本気で獅子って尊敬されているみたいだし。上級生の心酔ぶりは半端じゃないもん」
おれら一年には、まだあまりわかっていないけどさ、とけろりと続ける。
塔子は詩織を思い出した。心酔しているかまではわからなかったが、しかし彼女も獅子を敬っている。塔子は眉をひそめた。
「でも……だからこそ、自分には不釣り合いだと思えるわ」
「とーこさん」
良司が心配そうにのぞきこむ。
大きな風がまた吹き、彼の後方にあるカーテンが舞い上がっている。塔子の肩にかかる髪がさらさらと襟足を撫でた。しばらく口をつぐんだが、やがてきっぱりと彼を見上げた。ひそめていた眉をとく。
「いいの。もう少し考えるわ」
微笑んでみせるが、良司はまだ窺うようにこちらを見ている。塔子はさらに笑んだ。
「……そういう坂本くんだって、役員の誘いから逃げ回っていたくせに。それも名誉な話だと思うけれど」
意図してまぜっかえすと、彼はうっと詰まった。軽く目をそらしながら、もごもごと呟く。
「ここで返されるとは思わなかったな……」
「会長からの伝言よ。いい加減あきらめろ、って」
さっきからずっと伝えたかったことが、やっと自然に口にでき、内心でほっとする。
塔子の気も知らず、良司は言いにくそうに続けた。
「あれは、兄貴の七光りみたいなもので……」
「それだけじゃない。実力だと思う」
「勉強できないし」
「優秀さにはいろいろあるわ」
思っていることを素早く返していると、良司はさらに目をそらす。かたちの良い耳がうっすらと赤くなったように思えたが、影のなかにいるためによく分からなかった。
それに、と塔子は続ける。良司を見上げ、首を傾げた。
「それが役員になりたくない本当の理由? わたしは別のことを想像していたんだけど……」
「別のことって」
良司がきょとんとする。不思議そうにこちらを見つめるので、塔子は少し自信が無くなった。
「いいよ、違うなら」
「話してよ。気になる」
そう言って彼は顔つきをあらためる。塔子は居心地が悪くなり、そっと目を伏せた。それでも注がれ続ける彼の視線を感じて、とうとう根負けする。怒らないでよ、と呟いた。
「……坂本くんは、本当は傍観者でいたい人なんだろうなって、思っていたの。人との関わりを強く要求されるポジションが、実は苦手なんだろうなって……だからずっと渋っていたんだと、思っていた」
良司は怪訝な顔をした。眉をひそめて射るようにこちらを見る。塔子はひやりとした。
「ごめん。気に障ったなら、聞き流して」
「いや」
素早く良司は返し、少し口をつぐむ。こちらをまっすぐ見つめた。
「詳しく言うと?」
さらに突っ込まれるとは思わず、塔子は詰まる。思ったままを口にするしかないと、彼を見つめた。
「台風の目……みたいな」
唐突な言葉だ。え、と彼が頓狂な声を上げた。塔子は顔を赤らめ視線を落とす。本人に印象を伝えるのは何と言いにくいものか、面映ゆくて唇を噛む。
「ものの例えよ。……台風の中心は無風地帯でしょう? そんな感じだなって。いつも人の中心にいるようだけれど、じつは騒いでいるのは周りだけで、坂本くんはその真ん中でじっとその様子を眺めているような……渦はつくるけれど、その渦中には入っていない。参加していないように見えたから」
塔子はひと息に告げた。
だからまさに渦中の緑風会にも足を踏み入れないのだと、勝手に思っていたのだ。そしてそんな保守的なところが、自分と少し似ているとも。
ゆっくりと見上げれば、ぽかんとした様子の良司がいる。彼はそうして、しばらくは何も言わなかった。
沈黙が降り、がらんとした教室の静けさが際立った。校舎に響いていた生徒の声も、いつのまにかやんでおり、葉擦れの音だけが耳に届いている。
やはり自分の誤解だと思い、塔子はさらに顔を赤らめる。気にしないで、と言いつのると、真顔の良司と目が合った。彼はまじまじとこちらを見つめており、思わず言葉を失う。
良司の背後にあるカーテンがふわりとまた浮き上がる。しばし見つめ合ったまま、ふたりで風に吹かれていると、良司がようやく口を開いた。
とーこさんてさあ、とゆっくりと口にする。
「まじで兄貴に似てるよ」
しみじみと、彼は笑った。複雑な笑みだった。
「お兄さん?」
「そう。……そんなに似てると、ほんと参る。なんか説教食らったみたいだ」
ぽかんとする塔子をよそに、良司は額に手をやり、思い切り苦笑した。
「説教してるつもりはないんだけど……」
「おれは一発やられた気分だね」
塔子は困って肩をすくめた。彼はそのままゆっくりと息をつき、横目でちらりと窓を見やる。つい視線を追うと、アカマツの太くて赤い幹と茂る針葉が目に入った。そして上から射し込む、赤く輝く夕陽。
「そろそろ潮時なんだろうな」
窓に目をやったまま、ぽつりと良司は漏らした。声に振り返ると、彼は視線を戻し、しっかりと塔子と目を合わせる。
「もう兄貴だけじゃなくなったってことなんだよな」
「何が?」
良司はにこりと笑う。
「おれ、緑風会に入るよ」
質問には答えず、唐突に告げた。塔子は展開に付いていけず、ぎょっとする。
「……えっ? 今まで渋っていたじゃない」
「とーこさんのせいだよ。責任を取ってほしいくらいだ」
どこをどう辿れば、自分のせいになるのかがわからない。眉をひそめている塔子を見て、おかしそうに良司は笑った。先程とは違い、とてもさっぱりとした、明るい笑みだった。
「とーこさんが獅子になるなら、最後までついていくことにする。きみがホンモノだと思う」
塔子はさらに眉をひそめた。
「ホンモノって……。それにわたし、引き受けないかもしれないのに」
「そのときはおれもやめる」
え、と固まった塔子に、良司はおかしそうに笑った。
「まあ、いいじゃないか。先のことは。とりあえずは、これからよろしくってことで」
屈託のなさや押しの強さは、完全にいつもの良司だった。疑わしく見つめ続けると、彼はすっと右手を差し出してくる。良司は制服を腕までまくりあげており、筋張った腕と大きな手のひらが間近でよく見えた。
「ほら、見せものじゃないぞ。握手だって」
良司の手が、胸の前でひらひらと動いている。訳が分からないまま、塔子はおずおずと手を差し出した。ぎゅっと良司の大きな手に包まれ、おっかなびっくりで彼を見上げる。良司は笑顔のまま、ぶんぶんと腕を振った。
ふと手の温度で、入学式のことを思い出す。あのときから、良司はずっと塔子の味方をしてくれていたと、不意に思った。経緯や意図はさっぱりつかめなかったが、しかし何にせよ、彼はやる気になってくれたのだ。塔子と一緒に頑張ると言ってくれているのだった。
塔子は彼を見上げる。複雑な顔になったが、それでも、ありがとう、と声を漏らす。
「よく……わからないけど。坂本くんがいてくれると、わたしも心強いから。うれしいと思う」
しっかりと告げた一言に、良司は眉を跳ね上げた。見つめられきょとんとした塔子に、盛大にため息をつく。
「……あのねぇ、そういう言葉は、簡単に言うもんじゃないから」
「そうなの?」
呆れた声や表情とは裏腹に、手はさらに強く握り返される。すっぽりと大きく硬く、そして温かい手だった。おずおずと見上げていると、良司はしようがないといった風情で苦笑する。つられて塔子もそっと微笑んだ。
教室の壁には、日が傾き、さらに濃くなった松林の影がある。風に揺れて震えるその影と、そして真っ赤に染まる夕焼けの光が、美しく教室を彩っている。窓から入る涼しい夕刻の風はカーテンを揺らし、そして繋ぎ合うふたりの手も優しく包みこみ、やがて静かに吹き過ぎた。




