彼女の価値
雨は降り続いている。
校舎の玄関先まで塔子と柊一は来ていた。
帰途につく同級生たちが、賑やかに下足場から出て行く。雨に滲む灰色がかった前庭に、色とりどりの傘が鮮やかだ。
柊一は自前の黒い傘を、素早く取り出してさした。塔子に一瞥もくれずに、出ていく同級生の後に続く。塔子はといえば、もたもたと靴をはきかえ、折り畳みの赤い傘をやっと広げたところだった。彼は待つ気もないらしく、どんどん先へと行ってしまうので、焦って駆け出す。
前庭には、あちこちに水たまりが出来ている。柊一に追いつくのに必死で、塔子は何度かそこにはまってしまった。新しいローファーが、みるみるうちに泥だらけになっていく。
散々な思いで、それでも柊一の背中を追った。足の長さが違うので、追いついても、小走りを続けるしかない。
柊一はこちらを振り向きもしなかった。
まるで一人で帰途についているかのように、淡々と前庭から続く小道を過ぎ、広場を横切っていく。
その柊一の黒い傘のあとに、塔子の赤い傘がよろよろと頼りなく揺れて、付いて来ていた。
「あっ……!」
赤い傘が、突然大きく傾く。
ぬかるみに足を取られたのだ。なんとか重心を移しかえ、ほっとして肩で息をつく。その息も随分乱れており、急にみじめな気分になる。
(何をしているんだろう、わたし……)
目をつむって首を振る。そのままゆっくりと顔をあげると、前に立つ柊一と目が合った。
彼は立ち止まり、こちらに振り向いていたのだ。ただその視線は相変わらず冷たく、塔子を思いやるものではない。
塔子は何と言えばいいかわからず、彼を見上げた。
柊一も声をかけるつもりがないようで、しばし互いを無言で見つめあう。
傘を叩く穏やかな雨の音が、やけに響いて聞こえる。
二人は広場の中心まで来ていた。青々と茂るクスノキの巨木が、対峙する二人の中央にそびえている。
柊一は値踏みをするかのように、じっと塔子を見下していた。表情のない整った造作は、冷たい彫像のようだ。ただ眼光ばかりが鋭く、こちらを射抜いている。
「何でお前なんだ?」
雨の中、低い声が落ちる。強い視線は変わらず塔子に据えられたままだ。
「お前の、いったい何が特別だというんだ?」
「え……?」
唐突な問いかけだった。困惑する塔子に投げかけられるのは、更に冷たい一瞥。何も答えられないでいると、柊一はぐっと眉根を寄せた。
「苛々する」
「鷹宮、くん」
胃の底を冷たいものが走る。柊一は構いもせず、塔子に背を向けた。
「念のため言っておくが」
黒い傘ごしに言葉が投げられる。
「お前に話があるのは、俺じゃないから。勘違いするな」
言い捨てると、彼はまた何も言わずに歩き出しはじめた。目的地に着くまで、もうこちらを振り向きはしないだろうと、気配で知れる。
塔子は呆然と立ち尽くしてしまった。
本当は柊一が教室に来たときから、彼の用件は理解していた。その用件が本当は「誰」からのものであるか、またこれからどこへ行くのかも、承知しているし、そして――そこで告げられるだろう内容も、大体の見当がついていた。
(でも)
塔子は思う。
(でも、鷹宮くんは、良く思っていない……)
混乱する頭のなかで、その事実だけが確かなものだった。
胸が苦しくなりながら、塔子はまた彼につき従って歩く。重い空気が塔子にのしかかるようだ。長い道のりになりそうだった。
ようやく辿り着いた目的地は、緑の館だった。
雨にけぶるその洋館を、塔子は驚きもなく見上げる。
外壁に生い茂る緑の蔦は、雨の滴を浴びてさらにいきいきと輝いていた。暗い曇天を背景に、館を覆うその緑はあまりにも鮮やかで、妖しい雰囲気さえ感じられる。玄関を中心として、左右に一カ所ずつある格子窓は、今はしっかりとカーテンで閉めきられていた。なかの様子が窺えないことも一因しているのか、館はより一層謎めいて見える。
(ミステリーに出てきそうだわ)
塔子はふと思った。推理小説の舞台に、おあつらえ向きの洋館かもしれない。
少しだけ気がそれたことで、柊一の放つ重苦しい空気から解放され、そっと塔子は息をつく。
柊一はずんずんと緑の館へ進み、勝手知った様子で玄関扉を開けた。木製のドアで、開けると軋む音がする。そのまま無駄のない動作で傘立てに自分のものをいれ、玄関でスリッパに履き替えると、何も言わずになかへと進んでいく。
塔子は玄関ポーチでしばらくためらったが、柊一に続くことにした。なかに入ろうとして、ふと感慨深い気持ちになる。入寮式の日には、緑の館に足を踏み入れる日が来るなんて思いもしなかったのだ。遠い世界の住人が使う建物だと、一線を引いていたはずなのに。今そこに入ろうとしている自分がいる。
苦笑するしかない事実だった。
玄関には段差がなく、いきなり各部屋へと続く廊下がある。土足が基本の西洋建築を、内部も忠実に模しているようだった。
塔子はそっとなかに入る。申し訳程度に据えられた小さな玄関マットで靴を脱ぎ、柊一と同じようにそのまま脇に寄せて置いておく。スリッパに履き替えて進むと、急に個人の邸宅に訪問している気になった。
歩くたびにキシキシと鳴る飴色の木製の床と、白い漆喰の内壁。その廊下を歩くと左右にクリーム色のドアがあり、それぞれの部屋へと続いているようである。
廊下の先は突き当りになっており、そこに階段があった。柊一がそこを上がったのは足音でわかったので、そのまま塔子も続く。
階段は長い年月使われたせいで木肌が滑らかになっている。滑らないように細心の注意を払って、塔子は進んだ。ほこりっぽい匂いが鼻をつく。
二階にあがると、柊一が待ち構えていた。
彼は塔子に冷たい一瞥をやり、無言で奥の部屋へと足を進める。柊一の態度に館への関心も急速に消え、塔子も黙ってそれに従った。
奥の角部屋まで彼は進み、クリーム色のドアの前まで来ると静かにノックをする。どうぞ、と落ち着いた声が部屋からかかった。そっとドアを開け、なかへ入る。
ごく小さな部屋だった。中央に机と椅子が据えられており、狭い執務室のような雰囲気がある。
しかしまったく窮屈に感じないのは、正面の壁半分がすべて窓になっているからだった。そこから灰色の空とアカマツの林が一望できる。またその窓には扉が付いており、その先はガラス張りのサンルームになっていた。より近くで外の風景をのぞめるよう図らった贅沢なつくりだ。この建物に住まう人のなかで最も大切な人物のためにつくられた部屋だと、すぐにわかる。
いまそのサンルームにいるのは、一人の男子生徒だった。外を眺めているので、こちらからは影になった後姿しか見えない。しかし塔子にはそれが誰であるかも、もちろんわかっていた。
「連れてきました」
低い声で柊一は言った。そしてしばらく逡巡したような様子を見せたが、やはり思い切ったように、もう一言口にした。怒気をはらんだ声音だった。
「会長、やっぱり理解できません。こんな奴に何の価値があるっていうんです。俺には、とても認められない」
「彼女の価値はお前が決めることじゃないよ、鷹宮」
静かな声が遮る。部屋の主、会長、榊葉直哉がこちらに振り返っていた。彼のきっぱりとした物言いに、柊一は一瞬言葉に詰まる。
「ですが、会長!」
「もうさがっていいよ、ご苦労だったね」
直哉は被せるように、また静かに告げた。口調は優しかったが、明らかに出ていけという命令だった。柊一はしばらく立ち尽くしていたが、奥歯を噛み、はい、と悔しげに返答する。矜持の高い柊一を以てしても、逆らうことはできないらしい。
柊一は塔子を最後に思いきり睨みつけ、そのまま部屋から去っていく。ドアが叩きつけられるように閉まり、塔子はまた胸に冷たいものが走るのを感じた。
「やあ、篠崎さん。久しぶりだね」
直哉は柊一のことをまったく気にした様子もなく、気軽に声をかける。サンルームから出てきて、中央にある机の前まで来ると、そこに浅く腰掛け長い足を組んだ。立ちすくむ塔子をにこやかに見やる。
「……賢いきみのことだから、もうわかっているだろう?」
唐突な言葉だった。しかしはっきりと塔子の顔がこわばったのを見て取り、直哉は笑みを深くする。
彼の背後にはいちめんに広がる、アカマツの緑の林があった。その林を背に悠然と佇む姿は、なぜかしっくりと似合って不思議な説得力がある。まるで、緑の王国は彼のものだといわんばかりの光景だ。
本来の主となるべきはずの塔子がそう思うのは、とても皮肉なことだった。
塔子は小さく息を吸うと、直哉をまっすぐ見つめて言葉を押し出す。
「わたしは……わたしには、とても務まりません。誰か、ほかの人を探してください」
「無理だよ」
直哉はにっこりと笑う。そこに含みはなく、知らず顔が綻んだような笑みだった。喜ばしい出来事が、今目の前にあるかのような。
「わかっているだろう? もうきみは選ばれたんだ。次期獅子となる者――獅子の娘に、ね」
予期していた言葉に、塔子は拳をぎゅっと握りしめ、顔を伏せた。




