塔子
その日は朝から雨が降り続いていた。
春の匂い立つ雨だ。雫が放つ甘露のような香りと、水気をたっぷりと含んだ新緑の匂いが、学校全体を包んでいる。
塔子は肩肘をつき、脇にある窓を見つめている。最後の授業が終わり、ショートホームルームの時間に入っていた。担任の田中の、淡々とした低い声が、教室に響く。そして穏やかに降り続く、雨の音がする。
教室は、むせかえるような木の香りがした。雨が降ると、香りはぐっと濃くなるのだ。生活の様々な匂いもあるが、やはり生徒たちをすっぽりと覆う、木造校舎の香りが一番強い。
その香りをそっと吸い込んで、目を閉じ、また塔子は外を見た。
顔や肩には、薄ぼんやりと明るい外光があたっている。光は塔子の色白の頬をさらに白く映し、つり目がちの瞳を、わずかに潤ませて見えた。しかしその表情は、あまり芳しいものではない。口を真一文字に引き結び、軽く睨むような目付きだ。長めの前髪がそこに流れている。
(また、ムスッとしてる……)
隣で良司はひそかに笑った。
田中の話を聞き流し、窓に目をやる塔子を、その脇の良司が見つめていたのだ。二人して、あまり褒められた生徒とはいえないが、それを気にする良司ではなかった。
机に突っ伏すと、彼女の表情までよく見える。肩までの黒髪も、塔子はいつも耳にかけているので、良司の目を遮るものではない。
良司の最近のお気に入りは、塔子だった。
とくに彼女の不機嫌な顔は、面白いと思っている。ついずっと観察してしまうくらいだ。
初めて出会ったときには、気の弱い、ごく普通の内気な女の子だと思っていた。誰かが守ってやらねばならないような、頼りない印象だったのだ。けれど彼女はその実、見た目どおりの人物ではないらしい。
「人をなんだと思っているの。失礼にも程がある!」
と一喝されたのはついこの前だ。そのときには謝り倒したが、本音を言えば、良司は笑い出したくなるほど、痛快な気分を感じていた。ここ最近は、ほとんど感じたことのないような気持ちだ。
今までに出会った少女たちは、こういう反応はまずなかった。真に受けるか、狼狽えるかの、どちらかだ。出会ってすぐに、噂を煽る良司の悪ふざけを見抜き、さらに叱り飛ばすなんて、誰が予想できるだろう?
(しかも、こんな物静かな女の子が)
良司は不思議な気持ちで塔子を見つめる。
外を眺める塔子は、大人しい文学少女そのものといった風情だ。
またそんな風に一点を見つめている姿には、見る者をふと惹き付けるような、澄んだ雰囲気があった。潔癖そうな口元のせいか、物思いに沈む瞳のせいか、折れそうに細い体のせいかはわからない。
ただ、どこまでも透きとおっていくような、そんな清さがある。
その清純さのために、一部の男子から、熱烈な支持を集めていることも、良司は承知していた。
(織部なら、初対面でも突っかかってきそうだけどな)
塔子と仲の良い紗也加を思い出す。良司からすれば、いつ見ても、彼女たちは不思議なコンビだった。華やかで溌剌とした紗也加と、内向的で物静かな塔子は、どうしてか気が合っている。紗也加が前に出ることもなく、対等な関係であるらしい。
だがそれも、塔子の芯の強さがあればこそ、紗也加も一目置くのだろう、と良司は最近になって思うようになった。
(誰かに似てんだよな……こういうタイプの、怒ると恐いやつ……)
良司は微かに眉を寄せたが、すぐに思い付く。兄貴だ、と思った。
兄も塔子のように、普段は優しいが、いざとなると恐い性格の持ち主だ。思い切りどやされたことも、殴られたことも、良司には何度もある。主に良司の趣味の悪い性癖のせいではあったが。
(なつかしいな……)
良司は塔子を見つめて、小さく笑った。
自分が周囲のなかで、それなりに影響力を持つ存在だと知ったのは、いつのことだろう。
気が付けば良司はいつも人の中心にいたし、それを疑うこともなかった。
もとから物怖じのしない性格であったことと、そして何よりも、人より少しだけ、周りがよく見えていたせいだろうと思う。
周囲の人間の考えることは、大抵良司には予想できたし、人を見て自分の出方を変える技術も、気づけば身についていた。同級生を心酔させ、従わせることくらい、良司には苦もないことだったのだ。
だからこそ、自分の一挙一動で、人の反応や動きが変わることが面白かった。ときには喧嘩を増長させ、ときには噂を広げ操作し、流行をつくったり、縁結びをしてみたりもした。面白いことは何でもやったので、性質の悪いイタズラも、沢山やった。
そんな良司のイタズラに真っ先に気付くのは、なぜか親でなく、兄だった。どうやら良司の表情で見極めているらしい。性質が悪いものに関しては、良司を徹底的に叱り、あるいは殴ってやめさせた。
四つしか年が離れていないのに、恐ろしく聡明で、大人びた兄だった。
中学の頃、クラスメイトに悪質な嫌がらせをしていた良司を、帰省中だった高校生の兄は一目で見抜いた。現場も見られていたのだろう。
その時に、兄は言ったのだ。叱りもせず、殴りもせず、良司の目をただまっすぐに見つめて。
「お前のその才能を、そんなつまらないことで、腐らせるな」
と。ごく静かに、しかし一言一言を、良司に刻みこんでいくような声音だった。その言葉があまりにも悔しくて、何も言えずにうつむくと、兄は少し声を柔らかくして、こうも続けた。
「お前を取り巻く人間や、毎日が、いまは何もかもくだらないのかもしれない。お前には、まだそう見えているんだろう」
震えた良司を兄は責めなかった。ぽんぽんと良司の頭を軽くたたいて、そういうときはな、と秘密の話をするように言ったのだ。そういうときは、走るんだ。余計なことを考えないように、暗い方向へ、心が向いてしまわないように。少なくとも、気分転換にはなる――おれはずっと、そうしている、と。
心からの共感と、そして案じる目で、そう言った。
その日から良司は走っている。
気の短い良司には、短距離走は最適な種目だった。一瞬で結果が出る上に、無心で走ることができる。走ることは、清々しいほどにシンプルだった。良司はその単純さに、すぐに魅入られた。複雑な人間の相手をするよりも、よっぽど楽しいと思えたのだ。まさに、助言をした兄の慧眼だった。
(ああ、走りたいな)
良司は少しつま先を動かした。
息の詰まる時間、色だけになる景色、宙に浮くような疾走――走りきったあとの、広い空。その全ての感覚が、ありありと良司には思い浮かぶ。
走ることを覚えてから、良司の悪癖は、なりを潜めている。ただ、潜めるだけで、まったく無くなったと言えないところも、あるにはあるが。少なくとも、悪質なことは一切しなくなった。それだけは自負できる。
だから良司はそれ以降、兄を心から敬うようになった。
その敬う兄に、塔子が似ているとすれば、良司が好感を抱くのも当然の話だったといえる。
(まあ、兄貴に似てるなんて言ったら、また怒るんだろうけど……)
しかも、怒るとこわいところが、なんて、とても言えない。視線の先にいる塔子は、相も変わらず、飽きもせず外を眺めている。
白い頬と顎、そこから伸びる細い首すじがやけに眩しい。
良司は思わず視線を逸らした。何かばつが悪い気がする。視線を上にやり、ふと思った。
(でも何で、おれがふざけているって、わかったんだろう)
噂を煽ったことだ。初対面に近いあの状態で、良司の悪癖を、正確に見抜くことは難しいと思うのだが。今までも、兄にしか気取られなかったことなのに、塔子はなぜ理解できたのだろうか。
良司は少し考え、彼女を見た。もしかすると、さらに彼女の印象を修正する必要があるのかもしれない、とひそかに思う。
(とにかくは、聞いてみた方が早いな……)
こういう場合は、あれこれ考えるより、行動するのが良司であった。
ちょうど良く、終業のチャイムが鳴る。
田中が出ていき、にわかに教室が騒がしくなった。伸びをする生徒達のなかで、塔子は淡々と鞄に教科書をしまっている。
「ねえ、とーこさん」
良司が話しかけたときだった。
一際大きく、教室がどよめく。今までと違う騒ぎ方に良司が振り返ると、ドアからこちらへ来る人物が見えた。整った目鼻立ちに、冷徹な眼差し。良司は陰でひっそりと、いけ好かないと思っている人物――鷹宮柊一だった。
彼が歩くたび、波が引くように人が後ずさる。そして徐々に室内が静かになる。
(ああ、やべ)
良司は内心で毒づいた。柊一に、返答を迫られている案件があったのだ。おそらくそのことを聞きに来たのだろう。
どう答えたものかと迷っているうちに、柊一はずんずんとこちらへ向かってくる。とりあえず、にこやかに迎えようと顔をつくると、良司の予想に反して、柊一の視線は違う方向を見据えていた。怪訝に思って視線を追えば、その目は良司の隣にある。
塔子だった。
良司はぎょっとして、塔子を見つめる。
彼女も最初はかなり動揺して見えたが、柊一が迫ってくるにつれ、やがて立て直した。予期していたとばかりに、下唇を噛み、目を伏せ、そして一瞬のうちに顔を上げる。しっかりとした眼差しで、真っ向から柊一に対峙した。
良司は塔子の態度に、さらに驚く。
柊一はといえば、彼女の様子もまったく意に介さず、素早くその前に立ちはばかった。冷たい視線で彼女を一拍ほど見下し、傲然と言い放つ。
「篠崎塔子。話がある。……俺について来い」
柊一の言葉に、教室中がこれ以上ないほど、ざわめいた。女子からは悲鳴のような声も上がる。クラスメイトたちは、浮いた話を当然予想しただろうが、良司は違った。
唖然としながら、ひとつの考えに行き着き、はっとする。まさか、と思う。自分の考えに、なかなか納得がいかない。けれどタイミングはこれ以上なく合っている。
(……まじで?)
口をあんぐりと開けて彼女を見つめてしまう。
塔子はといえば、しばし柊一と見つめ合い、ゆっくりと息をついていた。震え出しそうなほど顔を青くしながら、それでも落ち着いた声をだす。
「……はい」
静かに立ち上がった。柊一が先に立って、二人で黙って教室を出ていく。
どよめきはますます加速して、教室は一層賑やかになる。女子の泣き叫ばんばかりの声が耳をつんざく。
そんななかで、良司は呆れたように息をついた。驚愕の事実ばかりで、理解が追いつかない。一つの疑問が浮かび、良司の頭を一杯にする。ゆっくりと頭を振った。
(……篠崎塔子って、何者なんだ?)
予想外にも程があるというものだ。
良司はまた、特大のため息をつき、そのまま頭を抱えたのだった。




