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獅子の系譜【旧版】  作者: 谷下 希
第3章 王の血統
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塔子

 その日は朝から雨が降り続いていた。


 春の匂い立つ雨だ。雫が放つ甘露のような香りと、水気をたっぷりと含んだ新緑の匂いが、学校全体を包んでいる。

 塔子は肩肘をつき、脇にある窓を見つめている。最後の授業が終わり、ショートホームルームの時間に入っていた。担任の田中の、淡々とした低い声が、教室に響く。そして穏やかに降り続く、雨の音がする。

 教室は、むせかえるような木の香りがした。雨が降ると、香りはぐっと濃くなるのだ。生活の様々な匂いもあるが、やはり生徒たちをすっぽりと覆う、木造校舎の香りが一番強い。


 その香りをそっと吸い込んで、目を閉じ、また塔子は外を見た。

 顔や肩には、薄ぼんやりと明るい外光があたっている。光は塔子の色白の頬をさらに白く映し、つり目がちの瞳を、わずかに潤ませて見えた。しかしその表情は、あまり芳しいものではない。口を真一文字に引き結び、軽く睨むような目付きだ。長めの前髪がそこに流れている。


(また、ムスッとしてる……)


 隣で良司はひそかに笑った。

 田中の話を聞き流し、窓に目をやる塔子を、その脇の良司が見つめていたのだ。二人して、あまり褒められた生徒とはいえないが、それを気にする良司ではなかった。

 机に突っ伏すと、彼女の表情までよく見える。肩までの黒髪も、塔子はいつも耳にかけているので、良司の目を遮るものではない。

 良司の最近のお気に入りは、塔子だった。

 とくに彼女の不機嫌な顔は、面白いと思っている。ついずっと観察してしまうくらいだ。


 初めて出会ったときには、気の弱い、ごく普通の内気な女の子だと思っていた。誰かが守ってやらねばならないような、頼りない印象だったのだ。けれど彼女はその実、見た目どおりの人物ではないらしい。

「人をなんだと思っているの。失礼にも程がある!」

 と一喝されたのはついこの前だ。そのときには謝り倒したが、本音を言えば、良司は笑い出したくなるほど、痛快な気分を感じていた。ここ最近は、ほとんど感じたことのないような気持ちだ。

 今までに出会った少女たちは、こういう反応はまずなかった。真に受けるか、狼狽えるかの、どちらかだ。出会ってすぐに、噂を煽る良司の悪ふざけを見抜き、さらに叱り飛ばすなんて、誰が予想できるだろう?


(しかも、こんな物静かな女の子が)


 良司は不思議な気持ちで塔子を見つめる。

 外を眺める塔子は、大人しい文学少女そのものといった風情だ。

 またそんな風に一点を見つめている姿には、見る者をふと惹き付けるような、澄んだ雰囲気があった。潔癖そうな口元のせいか、物思いに沈む瞳のせいか、折れそうに細い体のせいかはわからない。

 ただ、どこまでも透きとおっていくような、そんな清さがある。

 その清純さのために、一部の男子から、熱烈な支持を集めていることも、良司は承知していた。


(織部なら、初対面でも突っかかってきそうだけどな)


 塔子と仲の良い紗也加を思い出す。良司からすれば、いつ見ても、彼女たちは不思議なコンビだった。華やかで溌剌とした紗也加と、内向的で物静かな塔子は、どうしてか気が合っている。紗也加が前に出ることもなく、対等な関係であるらしい。

 だがそれも、塔子の芯の強さがあればこそ、紗也加も一目置くのだろう、と良司は最近になって思うようになった。


(誰かに似てんだよな……こういうタイプの、怒ると恐いやつ……)


 良司は微かに眉を寄せたが、すぐに思い付く。兄貴だ、と思った。

 兄も塔子のように、普段は優しいが、いざとなると恐い性格の持ち主だ。思い切りどやされたことも、殴られたことも、良司には何度もある。主に良司の趣味の悪い性癖のせいではあったが。


(なつかしいな……)


 良司は塔子を見つめて、小さく笑った。


 自分が周囲のなかで、それなりに影響力を持つ存在だと知ったのは、いつのことだろう。

 気が付けば良司はいつも人の中心にいたし、それを疑うこともなかった。


 もとから物怖じのしない性格であったことと、そして何よりも、人より少しだけ、周りがよく見えていたせいだろうと思う。

 周囲の人間の考えることは、大抵良司には予想できたし、人を見て自分の出方を変える技術も、気づけば身についていた。同級生を心酔させ、従わせることくらい、良司には苦もないことだったのだ。

 だからこそ、自分の一挙一動で、人の反応や動きが変わることが面白かった。ときには喧嘩を増長させ、ときには噂を広げ操作し、流行をつくったり、縁結びをしてみたりもした。面白いことは何でもやったので、性質の悪いイタズラも、沢山やった。


 そんな良司のイタズラに真っ先に気付くのは、なぜか親でなく、兄だった。どうやら良司の表情で見極めているらしい。性質が悪いものに関しては、良司を徹底的に叱り、あるいは殴ってやめさせた。


 四つしか年が離れていないのに、恐ろしく聡明で、大人びた兄だった。


 中学の頃、クラスメイトに悪質な嫌がらせをしていた良司を、帰省中だった高校生の兄は一目で見抜いた。現場も見られていたのだろう。

 その時に、兄は言ったのだ。叱りもせず、殴りもせず、良司の目をただまっすぐに見つめて。

「お前のその才能を、そんなつまらないことで、腐らせるな」

 と。ごく静かに、しかし一言一言を、良司に刻みこんでいくような声音だった。その言葉があまりにも悔しくて、何も言えずにうつむくと、兄は少し声を柔らかくして、こうも続けた。

「お前を取り巻く人間や、毎日が、いまは何もかもくだらないのかもしれない。お前には、まだそう見えているんだろう」

 震えた良司を兄は責めなかった。ぽんぽんと良司の頭を軽くたたいて、そういうときはな、と秘密の話をするように言ったのだ。そういうときは、走るんだ。余計なことを考えないように、暗い方向へ、心が向いてしまわないように。少なくとも、気分転換にはなる――おれはずっと、そうしている、と。

 心からの共感と、そして案じる目で、そう言った。


 その日から良司は走っている。

 気の短い良司には、短距離走は最適な種目だった。一瞬で結果が出る上に、無心で走ることができる。走ることは、清々しいほどにシンプルだった。良司はその単純さに、すぐに魅入られた。複雑な人間の相手をするよりも、よっぽど楽しいと思えたのだ。まさに、助言をした兄の慧眼だった。


(ああ、走りたいな)


 良司は少しつま先を動かした。

 息の詰まる時間、色だけになる景色、宙に浮くような疾走――走りきったあとの、広い空。その全ての感覚が、ありありと良司には思い浮かぶ。

 走ることを覚えてから、良司の悪癖は、なりを潜めている。ただ、潜めるだけで、まったく無くなったと言えないところも、あるにはあるが。少なくとも、悪質なことは一切しなくなった。それだけは自負できる。

 だから良司はそれ以降、兄を心から敬うようになった。

 その敬う兄に、塔子が似ているとすれば、良司が好感を抱くのも当然の話だったといえる。


(まあ、兄貴に似てるなんて言ったら、また怒るんだろうけど……)


 しかも、怒るとこわいところが、なんて、とても言えない。視線の先にいる塔子は、相も変わらず、飽きもせず外を眺めている。

 白い頬と顎、そこから伸びる細い首すじがやけに眩しい。

 良司は思わず視線を逸らした。何かばつが悪い気がする。視線を上にやり、ふと思った。


(でも何で、おれがふざけているって、わかったんだろう)


 噂を煽ったことだ。初対面に近いあの状態で、良司の悪癖を、正確に見抜くことは難しいと思うのだが。今までも、兄にしか気取られなかったことなのに、塔子はなぜ理解できたのだろうか。

 良司は少し考え、彼女を見た。もしかすると、さらに彼女の印象を修正する必要があるのかもしれない、とひそかに思う。


(とにかくは、聞いてみた方が早いな……)


 こういう場合は、あれこれ考えるより、行動するのが良司であった。

 ちょうど良く、終業のチャイムが鳴る。

 田中が出ていき、にわかに教室が騒がしくなった。伸びをする生徒達のなかで、塔子は淡々と鞄に教科書をしまっている。

「ねえ、とーこさん」

 良司が話しかけたときだった。

 一際大きく、教室がどよめく。今までと違う騒ぎ方に良司が振り返ると、ドアからこちらへ来る人物が見えた。整った目鼻立ちに、冷徹な眼差し。良司は陰でひっそりと、いけ好かないと思っている人物――鷹宮柊一だった。

 彼が歩くたび、波が引くように人が後ずさる。そして徐々に室内が静かになる。


(ああ、やべ)


 良司は内心で毒づいた。柊一に、返答を迫られている案件があったのだ。おそらくそのことを聞きに来たのだろう。

 どう答えたものかと迷っているうちに、柊一はずんずんとこちらへ向かってくる。とりあえず、にこやかに迎えようと顔をつくると、良司の予想に反して、柊一の視線は違う方向を見据えていた。怪訝に思って視線を追えば、その目は良司の隣にある。


 塔子だった。


 良司はぎょっとして、塔子を見つめる。

 彼女も最初はかなり動揺して見えたが、柊一が迫ってくるにつれ、やがて立て直した。予期していたとばかりに、下唇を噛み、目を伏せ、そして一瞬のうちに顔を上げる。しっかりとした眼差しで、真っ向から柊一に対峙した。

 良司は塔子の態度に、さらに驚く。

 柊一はといえば、彼女の様子もまったく意に介さず、素早くその前に立ちはばかった。冷たい視線で彼女を一拍ほど見下し、傲然と言い放つ。


「篠崎塔子。話がある。……俺について来い」


 柊一の言葉に、教室中がこれ以上ないほど、ざわめいた。女子からは悲鳴のような声も上がる。クラスメイトたちは、浮いた話を当然予想しただろうが、良司は違った。

 唖然としながら、ひとつの考えに行き着き、はっとする。まさか、と思う。自分の考えに、なかなか納得がいかない。けれどタイミングはこれ以上なく合っている。


(……まじで?)


 口をあんぐりと開けて彼女を見つめてしまう。

 塔子はといえば、しばし柊一と見つめ合い、ゆっくりと息をついていた。震え出しそうなほど顔を青くしながら、それでも落ち着いた声をだす。


「……はい」

 静かに立ち上がった。柊一が先に立って、二人で黙って教室を出ていく。

 どよめきはますます加速して、教室は一層賑やかになる。女子の泣き叫ばんばかりの声が耳をつんざく。

 そんななかで、良司は呆れたように息をついた。驚愕の事実ばかりで、理解が追いつかない。一つの疑問が浮かび、良司の頭を一杯にする。ゆっくりと頭を振った。


(……篠崎塔子って、何者なんだ?)


 予想外にも程があるというものだ。

 良司はまた、特大のため息をつき、そのまま頭を抱えたのだった。


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