平穏の終わり
「この学校にはね、ある一人の王様がいるの」
詩織は静かに口火を切る。
榊葉の言っていたことだ、と塔子は内心で思った。王様、と小さくつぶやくと、詩織はゆっくりと頷く。
「そう。わたしたちは、“獅子”と、呼んでいる。……いつの頃からかは、わからない。けれど戦前にはすでに、獅子は存在していたらしいわ」
「獅子とは……」
「学園を統べる者よ。この校内において、最高の権限を持つ人。事実上、緑風会よりも、立場が上だわ」
きっぱりと告げられた言葉に、塔子は目を見開く。懲戒権限を持つ緑風会よりも立場が上ならば、たしかに生徒が持ち得る、最高の権力だろう。
「……今どきに? この民主主義の世の中で?」
頓狂な声をあげてしまう。詩織はおかしそうに塔子を見やった。
「そう、わたしもそう思っていた……。時代錯誤も甚だしいわよね。でも、この学校は、そうなの」
少し言葉を区切る。眼鏡を押し上げ、話を続けた。
「獅子が自治活動にどこまで手をのばしているのかは、本当のところ、わたしもわからない。けれど、緑風会役員の人選は、獅子が関わっていると聞いているわ」
「人選……」
うちは指名制でしょう? と塔子をのぞきこむ。
「たとえば、会長職ね。緑風会の役員のなかから、会長となる人物を獅子が指名して、選挙に出しているという話。獅子のお墨付きの人物を、わたしたちは信任投票しているわけ。これも定かではないけどね。まことしやかに囁かれてる」
「そんな……」
そんなことが許されていいのだろうか?
戸惑って眉を下げる塔子に、詩織は笑った。
「あくまでも噂だから、そんなに気に悩まないで」
「ですが……なぜそうまでして続けるんです」
塔子はつかえながらも、率直に聞き返す。
「自治活動なら……わたしたちや、緑風会の手で十分出来るのでは。……わたしには、わざわざ獅子が必要な理由が、わかりません」
この時代に、そうまでして君主政治が生き残る理由が、塔子には理解できないと思う。
しかし返ってきたのは、あっけないほど簡潔な一言だった。
「いいえ、必要よ」
きっぱりと、詩織は言ってのける。ただ後の言葉は、少しもどかしそうに続けた。
「……必要だけれど、その理由は、わたしからは伝えられないの。あなた自身が考えるべきことだから。……獅子の必要性は、言われて知るものじゃなく、自分で理解するものよ」
「必要性を……?」
「そう。……わたしもそれが理解できたから、こうしてあなたに話している」
詩織がそっと目を伏せる。
塔子はまだどんな判断も下せず、疑問が疑問のまま、自分のなかで消化しきれないことを感じた。その喉につかえたような様子を見て、詩織は微かに笑ったが、やがて真剣な眼差しに戻る。
それと、と言葉を足した。
「聞かれる前に伝えておくけれど。……今の獅子が誰か、という質問もタブーよ。今日だけでなく、これからも。獅子になった瞬間から、その人は獅子とだけ、呼ばれるようになる。個人の名前はないものと見なすの。暗黙のルールよ」
塔子はまた眉を下げた。腑に落ちないことばかりだ。詩織の言葉は謎かけのように思える。
「なぜ……そこまでして正体を隠すんですか。生徒達にさえも。それでは、統率しようにも、できないのではないですか」
詩織は目つきを柔らかくし、言い含めるように伝えた。
「統率することは、間接的なものよ。実際には緑風会が動いているから、獅子が表立つ必要がないの。名前をなくすのは……それが獅子というものだから。そして」
わたしたちからすれば、と詩織は言葉を継ぐ。
「自分たちの王は、自身で見つけるものだから」
静かな言葉に、塔子は何も返せない。つまりは、獅子に関わる重要事項は、何もかも自分で見つけろということだった。
詩織はすまなそうに、塔子の肩にかかる髪を梳いた。時間が経ち、もうすっかり乾ききっている。
「いろいろと言えなくて、悪いわね。でも、獅子は校内の伝統のなかで、最も秘められるべきものなのよ。だから伝える日も、今日と限られている。わたしが伝えられるのは、ここまで。これ以上は、塔子が頑張って見つけて」
「はい……」
か細い声で返答すると、小さく笑う。
「まあ、知らなくても、当分の間は支障のない話だと思うわ。ゆっくりでいいからね。それから――最後に、大事なことをあともう二つだけ。わたしたちの義務と権利の話よ」
塔子は視線を上げて、詩織を見やる。すると彼女は少しこちらへ近づいて、ゆっくりと話しだした。
「まず、ひとつ目は、“獅子の名において”という伝令について。……獅子はね、王という立場から、あらゆる規則や慣例を超える存在になるの。ごくまれに、その立場を使って、指示が下されることがある。さっきの言葉が出たら、獅子からの直接の伝令ということ。これには、必ず従わなければいけない」
怪訝な顔をする塔子に、予想していたというように、笑ってみせる。
「もちろん、めったにあることじゃないわ。もしあっても、無茶苦茶な内容じゃないはずよ。必ず理由があってのことだから、安心して」
「でも、その伝令はどうやって流れるんですか? それに……もし万が一、従えないような内容だったら?」
矢継ぎ早の質問に、詩織は鷹揚に頷いた。質問があがったことに、どこかうれしそうに笑う。
「そうね。まず伝令はね、噂で流れるの」
「うわさ?」
「そう、口伝えにね。あの合い言葉を出せば、獅子からだとわかるでしょう? 証拠も出ないし、うちの学校は噂の回りが早いから、合理的なのよ。どこからともなく、流れてくるわ」
塔子は小さく相槌を打つ。やはり唯一の伝令であっても、獅子が表立つことはないようだった。徹底ぶりが窺えるというものだ。
それから、と詩織は言った。
「伝令が従えない内容の場合、よね。それは大事なことのふたつ目に関わるわ。……わたしたちはね、自ら獅子という王を選ぶことができないの。獅子は指名によって、密かに受け継がれるものなのよ。だからそのかわりに、王への挑戦権が与えられているの」
挑戦権、とまたオウム返ししそうになり、塔子は口をつぐむ。上目で彼女を見やると、にこやかに告げた。
「獅子の決定や伝令の何らかに、納得ができない場合、広場の中心にあるクスノキの、一枝を折るの。そして根元の地面にまっすぐ突き立てておく。これで、獅子に不服を申し立てることができるわ。すると、緑風会が間に入って、協議、もしくは……直接対決をすることができるの」
「対決って……どんなことを?」
ずいぶんと物々しいことだ。塔子は目を丸くする。詩織は眉をひそめた。
「うーん。じつはわたしも、そこまでは分からないの。不服の内容によって、いろいろと変わるものらしいわ。まあ、伝令も挑戦も、よっぽどのことがない限り、まずないからね。わたしもまだ経験したことがないし」
それくらい、まれなことなのよ、と詩織はいたずらっぽく笑った。
「でも……この二つが獅子に対する、わたしたちの二つの約束だから。それだけは覚えておいて」
はい、と塔子は頷くしかなかった。
今日一日の情報量があまりにも多く、頭がパンクしそうな気がした。そっとこめかみに手をやると、詩織が気遣うようにのぞきこむ。
「沢山話したわね。いまはこういう伝統があることだけ、分かっていればいいから」
塔子は安心させようと、もう一度、ゆっくり頷いてみせた。だが気にかかることがあり、顔を上げる。
「あの、獅子って、生徒の間で密かに受け継がれているんですよね……?」
「そうよ」
頷く詩織を、塔子はじっと見つめた。見つめたまま、少し唇を噛み、考えあぐねる。 ずっと聞くに聞けないことがひとつ、塔子にはあった。それを聞くのが、とても不安でならなかったのだ。
しかしここまで来れば、たずねてみるしかない、と思う。
ゆっくりと息を吸った。
「…………その……その継承は……どうやって、おこなわれるんですか」
思い切ってたずねた一言に、詩織は少し詰まったようだった。なぜか瞳が揺れて見えたが、すぐに目を伏せたので、それ以上はわからない。そして一呼吸のあとには、詩織はいつもの表情に戻っていた。顔を上げ、淡々と答える。
「わたしも詳しくは知らないの。でも次期獅子を指名するのは……入寮式か、進級式の日。必ずそのどちらかにおこなわれると、聞いているわ」
背筋が震える。
塔子には、返す言葉が見つからなかった。
あとになって、塔子は思うことになる。
もし、あのときトンネルに入らなければ、全ては変わっていたのだろうか、と。
気付いたときにはもう、何もかも遅かった。
すでに緑の王国は、塔子をからめ取ってしまっていたのだ。茂る緑のその奥。深い深い森のなかへと。
こうして、塔子の穏やかな学生生活は、静かに終わりを告げたのだった。




