継承
「おかえりなさい」
勉強机からドアへと顔を向け、詩織はにこやかに塔子に声をかける。
塔子は洗いたての濡れた髪をタオルで拭きながら、のろのろと部屋へあがった。
「……戻りました」
か細い声でやっとそれだけ答える。倒れ込むようにカーペットに腰を下ろし、壁に背を預けて足を伸ばした。そのまま放心したように天井を見上げる。詩織はくすくすと笑った。
「式から帰ってきたときも思ったけど、あなたって本当にわかりやすいのね。感想を聞こうと待っていたのに、一目瞭然だもの」
「感想もなにも……」
「疲れたのね」
詩織が淡々と引き継ぐ。塔子は心の底から大きく頷いた。
入寮式の時間はあまりにも濃密で、一日中動き回ったような気がしていた。寮に帰ったときには、疲れすぎて、何も手に付かなかったくらいだ。詩織に急かされ、遅い夕飯を終え、風呂に入り、ようやくこうしてひと段落ついている。紗也加もさすがに疲れたらしく、食事から風呂までずっと、二人とも無言を押し通していた。
体力のない塔子の体は、もうとっくに限界がきている。まぶたが落ちはじめ、座ったまま舟を漕ぎそうだ。
その様子を見て、詩織はまた苦笑した。
勉強机から、こちらへ来てしゃがみ、そっと頬をつつく。首を振って塔子は目を瞬かせた。首のあたりで低く結んだ詩織の髪が、さらさらと彼女の胸に落ちる。
「ごめんなさいね、すぐにでも寝かせてあげたいところなんだけど。今日はもうひとつ、やることがあるのよ」
申し訳なさそうに眉を下げて、こちらを見つめた。
なんですか、と塔子が目をこすりながら聞くと、詩織は少し沈黙する。塔子の眠たげな様子をしばし見つめて、やがて真剣な顔つきになり、口を開いた。
「……眠い状態で聞かせられるものじゃないの。何度も言えることではないから」
静かに告げる。含むものを感じ、はっとして見つめ返すと、詩織は少し表情を和らげてみせた。そのまま続ける。
「だから……まずは、あなたからね。今日の話を聞かせてちょうだい。眠気覚ましになるでしょう」
「でも、詩織さんのときと、きっと同じですよ」
驚いて返すと、いいのよ、と詩織は小さく笑う。塔子の不思議そうな目にぶつかり、言葉を足した。
「わたしもあなたに話す前に……一年前のこと、思い出しておきたいの。塔子の話を聞かせて」
塔子はゆっくりと考え、印象的だった出来事を、ひとつずつ話して聞かせた。誓約書のことや、山道の険しさ、道中で見た菜の花畑のことも。
もちろんトンネルに入ったことも話したが、榊葉と約束したことを、塔子は守った。注意深く、なかでの出来事を省き、ただ恐かったと感想だけ伝える。詩織はなつかしそうに共感し、それ以上のことは訊かなかった。
また良司から聞いた、男子の行軍についても話した。
女子よりも三十分早くに集められた男子たちだったが、じつは誓約書のサインが終わるやいなや、神社まで、全力疾走させられていたのだ。「体力をつける」という名目の新人いびりだと、良司は評した。榊葉をはじめとする緑風会の男子役員に追い立てられ、散々な目にあったらしい。
またトンネルを抜けた後も、出迎える三年生たちにホースで勢いよく水を浴びせられて、とんだ歓迎を受けたようだった。そして全員濡れネズミになり、夜の寒空の下、女子が来るまで捨て置かれたのだ。
「兄貴は“恐い行事”って言ったけど、おれにはヒサンな行事にしか思えない」
とは良司の言である。
自分は女で良かったと、言い添えて話を締めくくると、詩織はおかしそうに笑う。
「まあ、たしかにね。うちは元男子校だから、こういう行事は、厳しくつくられているのよ」
そうだったんですか、と塔子は目を丸くした。じつは今まで、知らなかったのだ。詩織は意外そうな目で、説明してくれる。
「大正時代に設立した学校ですもの。当時は、学校も男女別れていて当たり前だったようよ。ここはたしか……戦後から、共学になったって」
物珍しげに頷く塔子を見て、柔らかく微笑む。そして、やっと眠気が醒めたようね、とからかった。塔子は少し気恥ずかしく、上目で彼女を見やる。
詩織はそのまま少し黙り、視線を横座りしている、足元に落とした。ごく小さな声で、ありがとう、と言葉を漏らす。
「式のこと、とても懐かしかったわ。あのときはわたしも、そんな風に思っていた。これから話すことも……むかしは、すんなり受け入れられなかったもの」
首を傾げる塔子に、そっと微笑んでみせる。
「まさか、わたしが話す立場になるとはね。感慨深いわ」
詩織はまた笑ったが、次は苦笑に近いものだった。そっと息をついて目を伏せる。その顔はとても切なげで、何かを後悔しているようにも、諦めたようにも見えた。彼女のなかの複雑な思いが、ふと透けて見え、塔子は何故かドキッとする。詩織の心の本音に近い部分に、図らずも肉薄したような、そんな気がした。
塔子の視線に気付いたのか、詩織はすぐに笑顔に戻った。
「さあ、次はわたしの番ね」
どこから話そうかしら、と少し口をつぐむ。そしてこちらを見つめて、笑みを深くした。まずはこれが一番先ね、と告げる。
「改めて、入学おめでとう、塔子。晴れて――“本物”の松高生ね」
ありがとうございます、とあわてて返す。詩織はにこやかに頷き、話を切り出した。
「もうあなたは外の人ではないから、隠さず話せて、わたしも嬉しい。じつはね……学年ごとに、同じようにこんな式があるのよ。一年生は入寮式、二年生は、学年があがる前の二月に進級式が、そして三年生は卒業の日に、退寮式があるの」
わたしたち二年は、もう進級式を済ませているのよ、と付け加える。塔子はゆっくりと相槌を打つ。
静かな部屋に、詩織の落ち着いた声が響く。
「トンネルをくぐるのも、一度だけではないわ。どの式の日にも通るの。……ただし、退寮式は反対方向にね。トンネルを通って、学校を出ていくの。また“外の人”に戻るために」
夜は更ける。部屋の白熱灯が、小さく明滅していた。詩織の言葉は、柔らかく塔子のなかに積もっていく。
「二年生の進級式ではね、あの山道からトンネルをくぐるのは、入寮式と同じだけれど。その前に、誓約書をもう一度読み直すの。約束を違えず、遂行していくために、ね。……誓約の二番目は覚えている?」
ふと聞かれたが、塔子は頷いた。今日のことなので、はっきりと記憶がある。
「上級生となった暁には、機を読み正しく継承すること……」
そうね、と詩織は満足そうに頷く。
静かな時間だ。
塔子は先程から、少し違和感を覚えていた。寮が静かすぎるのだ。消灯前のこの時間帯ならば、普段はもっと賑やかに人の声が聞こえているはずである。しかし今日は皆眠ってしまったかのように、静まり返っていた。詩織の言葉が響いて聞こえるのも、そのせいだろう。妙な空気だった。
塔子の表情に察するものがあったのか、詩織はにっこりと笑い、続ける。
「あなたも気付いたでしょう。この日だけ、寮は静かになるの。今日が、“その日”だから」
つまり、と塔子の訝しげな視線を感じて、言葉を足す。
「誓約の二番目をおこなうため――それぞれの部屋で、二年生が一年生に、大切な話をするための日なの」
探るように、互いを見つめ合う。塔子は知らず知らずのうちに、息をひそめていた。
それが何の話であるかは、薄々感づいている。この濃密な空気には、覚えがあった。
長い前置きはここまで、と詩織はきっぱりと告げる。
「緑の王国の話を、しましょうか」
とうとう、このときが訪れたのだった。




