獅子の娘
「恐かったようだね」
うつむいていた塔子に、ふいに低い声がかかった。かがり火のあたりに、静かに佇む足元が見える。列から離れたところに、その人はひとりで立っていた。
ゆっくりと顔をあげると、背の高い男子上級生だった。列をつくっていた制服姿の面々とは違い、彼はジャージを着ている。少し長めの明るい髪が、風になびいていた。彫りの深い顔には笑みが浮かび、両腕を組み、悠然と佇む姿には、妙な威圧感がある。
榊葉会長だ、と塔子は直感した。
紗也加の評した通りの、風格ある人物のようだ。
榊葉は、ぼうっとした様子の塔子を見て、おやおやという顔をした。少し肩をすくめてみせる。
「そんなに恐かったかい。きみ、真っ青だよ」
「……恐かったです」
機嫌悪く、塔子は答えた。あんなに恐い思いをしたのにも関わらず、やけに軽々しい聞きようで、少しむっとする。恨めしくなって、彼をわずかに睨んだ。
そんな塔子を見て、榊葉は面白そうに笑みを深くした。
「なに、もしかして……肩でも、叩かれたとか?」
塔子は目を見開いた。
からかう様子でこちらを見やる榊葉に、呆然とする。やはり、そうかと思った。トンネルのなかのことは、仕組まれたことのようだった。
まったく悪びれない彼の様子に、むかむかと腹が立ち、怒りに火がつく。恐怖の反動がきたのか、気づけば塔子は榊葉に向かって、猛然と抗議していた。
「あなたたちが仕組んだことでしょう! どんな思いがしたか、分かって言っているんですか」
「ちょ、ちょっと待って」
急に逆上した塔子に驚いたのか、榊葉は先程の態度をすぐに引っ込める。こんなリアクションが来るとは、まるで思っていなかった、という顔つきだ。
少し狼狽えて、塔子の正面に立ちのぞきこむ。
「きみ、本当に叩かれたの? 肩を?」
「だから、そうだと言っています。でなければ怒るはずないでしょう!」
落ち着いて、と榊葉は塔子をなだめる。ほかの三年生がこちらを不思議そうに見つめており、彼はなぜかそちらの様子を、いたく気にしていた。あまり大ごとにしたくない様子だ。
塔子もはっとして口をつぐんだ。少し頭が冷えて、反省し顔が火照る。目立たないよう話すことに関しては、まったく同意見だった。
榊葉はその様子を見て取り、安心したのか、さらに塔子をのぞきこんでくる。そのまま声を低くして、囁くように聞いた。
「いいかい、よく聞いて。きみは、本当に肩を叩かれたんだね。何回だったか、覚えてる?」
言い含めるような態度に、塔子はやはりむっとする。しかし今度は、落ち着いた声音を出すことができた。
「……三回、です。でも、回数なんかどうでも良いことでしょう」
「いいや、重要だね」
塔子の言葉を遮るように、榊葉は言った。
不思議な反応に顔を上げると、驚くほど真摯なまなざしで、彼はこちらを見つめている。
何かを探るような目つきだった。
かがり火の揺らめく炎が、彼の背後にあった。見つめ合うふたりの頭上を、不安定にたゆたう光が照らしている。
一瞬ピリピリとした空気が、両者の間に走る。
榊葉の視線には、言いようもない、プレッシャーがあった。その目で見つめられると、悪巧みも洗いざらい吐き出したくなるような、そんな視線だ。塔子は先程の怒りも急速にしぼみ、怖気づく自分を感じた。気づけば、彼の視線に屈している。隠すことは何もないのに、後ろめたいような気持ちになり、知らず息を止めていた。
胸がどぎまぎし、早鐘を打つ。とうとう雰囲気に耐えかね、そっと口を開いた。
「……いったい、どういう意味なんですか」
塔子の言葉に、榊葉は少し黙り、やがて大きく息を吐いた。顔を上げた彼は、最初に声をかけたときのような、穏やかな顔に戻っている。
そして塔子を見据えたまま、ゆっくりと、一言一言を口にした。囁くような声で、おごそかに。
「つまり、肩を叩いたのは、おれたちじゃないってこと。きみに触れたのは……それは、王だ」
「王……?」
聞き慣れない言葉に、塔子は眉をひそめる。榊葉はその様子を微笑んで見つめた。
「そう、おれたちは、“獅子”と呼んでいる。どうやらきみは、ふたつの祝福を受けたようだ」
獅子、ふたつの祝福、分からない言葉ばかりを持ち出され、塔子は返しようがなかった。
塔子の様子を知ってか知らずか、榊葉は独白のように続ける。
「……となると、おれの予想は全部外れたってわけか。正直、次回に持ち越しだと、完全にタカをくくっていた。何より、」
と言葉を区切る。塔子をじっと見つめ、楽しそうに微笑んだ。
「面白い選択だ」
そう言って、笑みを深くする。口調には浮き足立った、興奮したものが感じられた。完全に置いてきぼりを食い、塔子はあわてて言い募る。
「あの! つまりどういうことなんですか」
「ああ、ごめんごめん。……そうだね。きみとは近いうちに、ちゃんと話す場を設けるよ。すべて話すから、何もかも。……それまでに、予備知識をつけておく必要もありそうだしね」
榊葉は簡単に受けあった。ただ、と言い添える。にわかに目つきが厳しくなった。
「今日起きたことは、誰にも話してはいけないよ。……たとえどんなに仲の良い人であっても、だ。いいね?」
榊葉の雰囲気には、有無を言わせぬものがある。訳もわからず塔子が頷くと、いいこだね、と満足そうにこちらを見やった。
榊葉はずいぶんと不思議な人物だった。ごく軽い、調子の良い人柄かと思えば、ふいに鋭い爪を喉元に突きつけてくる。そんな凄みを、平気な顔をして使い分けている。
なかなか一筋縄ではいかない人物だと、塔子には思えた。
「ほら、お友達がお出迎えだよ」
榊葉がそう言って、塔子を促す。
彼の指の先には、暗がりに立つ紗也加と良司がいた。
「塔子ー!」
紗也加がこちらへ手を振る。ふたりの姿を見て、塔子は急にほっとした。手を振り返し、いまのことを、とりあえず棚上げすることに決める。頭には疑問符ばかりが浮かんでいたが、彼女たちのもとへ行きたい気持ちが勝っていた。それに、榊葉はきちんと話すと、約束してくれたのだ。考えるのは後にしてもいいだろう、と思えた。
塔子はこの場を辞すために、ぺこりとお辞儀をする。彼は鷹揚に応じた。
「また、後日にね」
「はい」
しっかりと、頷く。
にこにこと見送る榊葉に、もう一度礼をする。そして塔子は紗也加と良司のもとへ、小走りに駆けていった。
そんな塔子の背を見つめながら、榊葉は感慨深げに大きく息をついた。
トンネルからは、また塔子の後続の一年が出てくるところだった。先程と同じく、上級生が賑やかに出迎える。
榊葉はそれらの声を聴きながら、ゆっくりと首を振る。その顔には、いつになく嬉しげな笑みがあった。
そして彼は、一言、低い声で呟く。
万感の思いを込めたような、静かな声音だった。
「……“獅子の娘”の誕生だ」




