第六部第九話:魔王母の遊戯と、届かぬ想い
第六部第九話:魔王母の遊戯と、届かぬ想い
背中を焦がした激痛が生々しく全身を這い回る中、ジェノスは荒く熱を持った息を吐き出しながら、苦悶の表情をわずかに歪めて隣で眠るエルの方へとゆっくりと身体を向き直らせた。
月の光が薄い天幕の布地を透かして差し込み、エルの整った美しい寝顔を淡く照らし出している。
その無防備で、どこか儚さを纏った横顔を見つめていると、胸の奥底が締め付けられるような、これまでにないほど深く熱烈な愛おしさがこみ上げてきた。
――この少女を守りたい。
自分のすべてを投げ打ってでも、この手で抱きしめたい。
冷徹な魔王族の幹部として生き、数々の血生臭い修羅場を潜り抜けてきたジェノスの心の中に、いまや理性を超えた狂おしいまでの執着が渦巻いていた。
これほどまでに誰かを愛おしく、慈しいと思ったことなど、彼の長い生涯において一度たりともなかった。
ジェノスは痛む背中の傷の痺れを歯を食いしばって堪え、ゆっくりと上半身を起こすと、眠るエルの柔らかそうな唇へと自らの唇をそっと寄せようとした。
その小さな温もりに触れたいという衝動を、もはや抑えられなかったのだ。
――その瞬間だった。
音もなく、気配すら一切感じさせずに、暗闇の空間が裂けるようにしてその存在が現れた。
ガシッ……!
「ぐっ……!?」
どこからともなくスルスルと伸びてきた華奢で白い腕が、ジェノスの頑丈な首筋を背後から冷酷に、そして圧倒的な握力で掴み上げた。
そのままの勢いで、ジェノスは負傷した背中の痛みも忘れるほどの渾身の力で、天幕の天井へと宙吊りに持ち上げられた。
「貴様! 私の大切なオモチャを、勝手に傷ものにしようってんじゃないだろうねぇ!」
ねっとりと甘く、しかし底知れぬ恐怖と冷徹な残虐性を孕んだ声。
そこに立っていたのは、この世のすべての理不尽を凝縮したような美貌の君主――魔王母メルフェレーンその人であった。
メルフェレーンの艶やかな指先から伸びた鋭い爪が、ジェノスの首の皮膚にグイグイと食い込み、生々しい赤い血が一筋、ツーっと流れ落ちていく。
「お、お赦しを……メルフェレーン様……っ!」
酸素を奪われ、首の骨を砕かれそうになりながら、ジェノスは冷や汗を滝のように流して絞り出すように謝罪した。
「なんだい、そんなに溜まっているなら、今夜は私が生娘の代わりにその相手をしてやろうか? 私の身体でたっぷりと満たしてあげてもいいんだよ?」
メルフェレーンは妖艶に微笑みながら、からかうようにジェノスの顔を間近で覗き込んだ。
「め、滅相もございません……!」
「ふんっ。……まあいいさ。今度、こんな愚かしい真似をしたら、その首ごと命はないものと思いな!」
吐き捨てるように冷たく言い放つと、メルフェレーンは邪魔な塵を払うかのように、ジェノスの身体を乱暴に床へと投げ捨てた。
「――ただし......」
不気味に微笑みながら、メルフェレーンは冷酷な宣告を続けた。
「あの娘が人間の王子どもの誰かと結婚し、この遊戯の決着がついた後なら……お前の好きなようにすればいいさ。そのあとで奪うも、嬲るも、壊すも、どれもこれも実に楽しそうじゃないか、ねぇ?」
底知れぬ悪意に満ちたその言葉を残すと、メルフェレーンは不敵な笑みを浮かべたまま、まるで最初からそこにはいなかったかのように、一瞬でかき消すようにその姿を消し去った。
しんと静まり返った天幕の中に、冷たい夜風だけが吹き抜ける。
床に崩れ落ち、荒い息を繰り返しながら、ジェノスは血の滲む拳を固く握りしめた。
「……できるはずないじゃないか……」
エルを本当に愛してしまった彼にとって、彼女を他の男に嫁がせ、その後に自らの手で蹂躙するなどという道は、地獄の苦しみよりも耐え難いものだった。
覆すことのできない絶対的な君主の支配と、あまりにも残酷な運命の前に、ジェノスは圧倒的な恐怖と深い無力感に打ちひしがれ、ただ震えることしかできなかった。




