第六部第二話:舞踏会の幻影と、漆黒の夜行
第六部第二話:舞踏会の幻影と、漆黒の夜行
地王暦五十年。
煌びやかなシャンデリアの光が夜空を焦がすかのように、ブラム王国の王宮では盛大な舞踏会が催されていた。
その華やかなる都の片隅、厳めしい石造りの壁に囲まれた貴族ゴーベン卿の屋敷では、主の出発に際して慌ただしい足音が響き渡っていた。
重厚な鏡の前で絹のドレスを幾重にも翻し、宝石の輝きに笑みをこぼすゴーベン卿の妻と娘。
ふくよかな夫人は満足げに扇を揺らし、着飾った娘は胸を張って馬車へと乗り込んでいく。
「お父様、早く来てちょうだいね!」
「ああ、先に行っていなさい。私は急ぎの公務を済ませてからすぐに後を追う」
髭を蓄えたゴーベン卿は、妻娘を機嫌よく見送ると、冷え切った夜風が吹き抜ける中庭の隅へと視線を落とした。
そこにいたのは、石畳に這いつくばるようにして雑巾がけをする、身なりも汚れた一人の少女――エルであった。
今年で十六歳になったエルは、この広大な屋敷の中で誰からも顧みられない最下層の奴隷としてこき使われていた。
荒れ果てた亜麻色の髪はぼさぼさと絡まり、すり切れた布切れのような麻布の衣の隙間からは、過酷な労働で傷ついた細い手足が覗いている。
遠く王宮方向から微かに聞こえてくる楽団の調べや、華やかな歓声の気配。
エルは冷たい雑巾を握りしめたまま、その煌めく夜空をうっとりと見上げ、遠い夢を見るように小さく息を漏らした。
(あんな素敵な場所へ行けたら……私も、あんな綺麗なドレスを着られたなら……)
しかし、それは奴隷の分際では到底叶わぬ、あまりにも途方もない夢物語にすぎなかった。
自嘲の笑みを浮かべ、エルが再び冷たい床へ視線を戻そうとしたその時だった。
「おや、エル……こんなところで何をしているの?」
甘ったるく、普段の冷酷さが嘘のような優しい声がかけられた。
顔を上げると、メイドたちが数人がかりで色鮮やかな布や小箱を抱え、微笑みながら歩み寄ってくるところだった。
「え……?」
戸惑う間もなく、メイドたちはエルを力任せに引き起こすと、屋敷の奥にある普段は使われない来客用の浴室へと連れ込んだ。
熱い湯が満たされた大理石の浴槽。
メイドたちはエルの汚れた服を強引に剥ぎ取り、温かなお湯で何日分もの煤と埃を洗い流していく。
ごわついていた亜麻色の髪は香油で丁寧に梳かれ、見違えるほど滑らかで艶やかな輝きを取り戻した。
湯から上がったエルの身体に纏わされたのは、夜空の群青を写し取ったような、上質なサテン地の美しいドレスであった。
胸元には控えめながらも気品あるレースがあしらわれ、華奢な肩のラインと透き通るような白磁の肌を美しく引き立てている。
鏡に映った自分の姿を見て、エルは驚愕に目を丸くした。
そこに映っていたのは、かつての薄汚れた奴隷の少女ではなく、息を呑むほどに気高く、愛らしい美少女であった。
(もしかして……私も、あの舞踏会へ行けるのかしら……?)
エルの胸の奥に、ほんの微かな、しかし強烈な期待の炎が灯る。
メイドたちは満足げに頷くと、彼女をそのまま広々とした豪奢な寝室へと案内し、静かに扉を閉めて去っていった。
だが、この美貌の仕立て上げには、全く別の醜悪な意図が隠されていた。
屋敷の主人であるゴーベン卿は、以前から密かにエルの秘められた美貌に目をつけ、我が物として淫らに弄ぼうと虎視眈々と機会を狙っていたのだ。
王宮の舞踏会へ出かける家族の隙を突いて、今夜こそ彼女を自らの欲望の餌食にしようと、企み通りにメイドたちを使ってドレスアップさせていたのである。
何も知らず、ベッドの端で震えながらも淡い期待を胸に控えていたエル。
ちょうどその時、ゴーベン卿が邪悪な笑みを浮かべながら、寝室へと続く重い扉に手を掛けようとしたその瞬間であった。
――ド・ド・ドッ……!!
屋敷の正面玄関を打ち破るかのような、重々しくも不気味な足音が響き渡った。
ゴーベン卿が眉をひそめて振り返ると、そこには常軌を逸した冷気を纏う、異様な三人の人物が立っていた。
全身を漆黒の甲冑と闇色のマントで包み込んだ、三人の黒衣の騎士たち。
先頭に立ったのは、鋭い眼光を隠さない冷徹な男――騎士ジェノス。
その傍らには、無機質な面持ちで大剣を背負う屈強な戦士スロットと、冷酷な美しさを漂わせる女騎士プランが静かに控えていた。
「……な、なんだお前たちは! ここは貴族ゴーベンの屋敷ぞ! 許可なく――」
怯えと怒りを混ぜ合わせた声を上げるゴーベン卿に対し、ジェノスは微動だにせず、重厚な石畳の上に膝を深く突いた。
「失礼つかまつる。――ゴーベン卿。永年にわたり、我が主筋にあたる高貴なるお方……エル様を匿い、こうして保護していただいたこと、騎士ジェノス、心より感謝申し上げます」
「……は? エル、だと……?」
寝耳に水の発言にゴーベン卿が間抜けな声を漏らすと、女騎士プランが合図を送った。
戦士スロットが持っていたずっしりと重そうな木箱が、ゴトンと音を立ててテーブルの上に置かれる。
スロットが無言で蓋を押し開けると、中には眩いばかりの純金の金貨が山のように詰まっていた。
「なっ……!?」
金貨の山を見た瞬間、ゴーベン卿の欲にまみれた目は完全に眩み、先ほどの邪悪な企みなど一瞬で頭から吹き飛んでいた。
「い、いやあ! エルならね、我が娘のように……そりゃあもう大切に、丁重に育てておったのだよ! ……おい、誰かおらんか! すぐにエルをここへ連れてまいれ!」
金貨の重みに目が眩んだゴーベン卿は、取り繕うように大声でメイドを呼びつけた。幸いなことに、今夜の企みのためにエルの身なりとドレスの準備は完璧に整えられていた。
これ以上の幸運はないと、男の脳内では金貨の使い道への皮算用が始まっていた。
やがて、びくびくしながら寝室から現れたエルを見るなり、ジェノスはハッと息を呑み、力強く声を張り上げた。
「おお……! エル様! お迎えにあがりました!」
「我らは、エル様にお仕えする忠実なる騎士にございます。大奥様の厳命により、この暗黒の闇を越えてお迎えに参上いたしました!」
ジェノス、プラン、スロットの三人が、一糸乱れぬ動作でエルの目の前に平伏した。
何が何だか分からないまま、目の前で次々と繰り広げられるただならぬ光景に、エルはただ立ち尽くし、青い瞳を大きく見開くだけだった。
「よかったなエルよ! お前には立派な身寄りがあったのだ。これからは幸せに暮らすのだぞ……!」
ゴーベン卿は媚びへどを隠さない笑顔でエルの肩を抱き寄せると、耳元へ顔を近づけて低い声で囁いた。
「いいか、この館で暮らしていた頃の惨めな身分や、雑用をしておったことなどは一切口外無用だ。……ここでの暮らしのことは、すべて秘密にしておくのだぞ。分かったな?」
「で、では! 猶予はならん、急ぎ失礼つかまつる!」
ジェノスが素早く身を翻し、重いマントを翻しながら屋敷の出口へと歩き出す。
外には夜闇に溶け込むような漆黒の大型馬車が控え、御者台には冷ややかに手綱を握るプランの姿があった。
後ろからエルがジェノスにエスコートされ、重厚な馬車の後部座席へと乗り込む。
馬車は凄まじい勢いで石畳を蹴立て、夜の闇へと走り出した。
「あの……あんな莫大な大金……本当に、よかったのですか……? 私にあんな価値があるなんて、どうしても信じられなくて……」
馬車の揺れの中で、エルは不安げに指先を絡ませながらジェノスに尋ねた。
奴隷として虐げられてきた彼女にとって、自分一人のために金貨の山が支払われたことが信じられなかったのだ。
「あれかい?」
ジェノスは片方の口元をニヤリと歪めると、懐から先ほど受け取ったはずの金貨を一枚取り出し、自分の手のひらに乗せて力強く握り締めた。そして、再びパッと手のひらを開いてみせる。
「……まぁ……!?」
エルの喉から小さな悲鳴が漏れた。
手のひらにあったはずの眩い黄金の金貨は、その形を残したまま、冷たく黒ずんだただの「石ころ」へと変化していたのだ。
「アハハハハハハッ!」
ジェノスと、御者台から振り返ったプランの笑い声が車内に響き渡る。
「ウケケケケケーッ!」
さらに、前を引く黒毛の駿馬までもが、まるで人間のように不気味で甲高い鳴き声を上げていなないた。
「おい!馬は笑うな!」
プランが冗談めかして馬の背中を軽く叩くと、馬は「ブヒン!」と鼻を鳴らして応える。
「うふふ……馬は笑いませんわ」
不思議な光景に緊張が解けたのか、エルは初めて心からの愛らしい笑みをこぼした。
(私に、本当のお迎えが来てくれたんだ……。もう、あの暗い奴隷小屋に戻らなくていいんだわ……)
胸の奥が温かな光で満たされていくのを感じながら、エルは静かに目を閉じた。
――その頃。
漆黒の馬車が走り去ったあとのゴーベン卿の屋敷では。
「ふふふ……エルを手放すのは惜しかったが、これだけの莫大な金貨が手に入ったなら、また新しい若い奴隷をいくらでも仕入れられるわい……ひっひっひ!」
テーブルの上の木箱を抱え込み、涎を垂らしながら狂喜乱舞するゴーベン卿。
その背後の闇が、グニャリと歪んだ。
「……その金貨は、もはや無意味だがね......」
低く掠れた、獣の唸りのような声が響く。
ハッとして振り返ったゴーベン卿の目に飛び込んできたのは、異様に肥え太った巨体に醜悪な猪の頭部を持ち、血走った凶悪な牙を剥き出しにした巨大な魔王族の姿であった。
「ひ……ひぃぃぃっ……! な、なんだお前は――ぐあっ!?」
助けを呼ぶ叫び声は、一瞬で重い肉の潰れる音にかき消された。
暗闇に包まれたゴーベン卿の屋敷は、その夜のうちに、一人の例外も残さず、すべての人間が惨殺の血煙の中に呑み込まれて消え去ったのであった。




