第六部第一話:井戸底の紫光と、魔王母の賭け
第六部第一話:井戸底の紫光と、魔王母の賭け
地王暦四十年。
魔王族や神々の影に怯える前の、ブラム王国がまだ穏やかな繁栄のなかにあった古き良き時代。
王国南方の肥沃な領地を治める、とある高名な貴族の屋敷。
その一隅にある薄暗い使用人舎の片隅に、身分の低い一人の奴隷の少女が暮らしていた。
朝の冷たい空気がまだ青白く残る薄明の中、少女は今日も日課である重い木桶を抱え、中庭の古びた石積みの井戸へと歩みを進めた。
亜麻色のボサボサとした髪を粗末な布でまとめ、すり切れた麻布の衣服に裸足という痛々しい身なり。
だが、その灰色の瞳の奥には、年齢には似合わない強烈なまでの生への執着と、満たされない焦燥感の炎が揺らめいていた。
少女は縄を垂らし、井戸の底深くへと木桶を沈めた。
その底、冷たい湧き水のなかに、奇妙な光を放つ物体が沈んでいることに気づいたのは、いつの頃からだったか。
「……今日も、綺麗……」
水面に揺らめきながら、妖しくも鮮烈な紫色を放つその石。
少女は誰に教わるでもなく、それがただの石ではないことを直感していた。
過酷な奴隷の身分から逃れたい一心で、少女は毎日その井戸に向かい、冷たい石畳に膝をついて両手を合わせ、祈りを捧げ続けていたのである。
「どうか……私をここから連れ出して……美しい『お姫様』になれますように……!」
その日も、少女はすり減った指先を強く組み合わせて切実に祈った。
――フハハハハハハハハハハッ……!!
突如、空間を切り裂くような艶かしくも不気味な笑い声が、少女の周囲を取り囲むように響き渡った。
「っ……!?」
少女が怯えて身を縮こまらせた瞬間、井戸の真上の虚空が黒く歪み、あり得ないほどの気高き美貌を誇る妖艶な美女がふわりと姿を現した。
漆黒のドレスを纏い、深紅の唇を妖しく歪ませたその女の肌は、月の光よりも滑らかに白く輝いていた。
背後には目に見えない魔王の気配が重圧となって渦巻いている。
「まだあどけない子供のくせに、随分と大した野心を持っているじゃないの。……いいわ! その強欲な願い、この私が叶えてあげる」
少女は息を呑み、恐怖と圧倒的な美への畏怖で身体を震わせた。
「あ、あなたは……だれ……?」
「私? 私はね――メルフェレーン。魔王母メルフェレーンよ。この世の楽しいことと、一番気持ちの良いことのすべてを司る……そうね、優しい『妖精』みたいなものかしら?」
少女の幼い心と知識に合わせて、メルフェレーンはからかうようにクスクスと笑ってみせた。
もちろん、それがどれほど血塗られた残酷な存在の自称であるかなど、少女が知る由もない。
「もう少し大きくなって、その野心が十分に熟した頃合いになったら、必ず迎えに来てあげる。それまで、心ゆくまで楽しみに待っていなさい。……あなたのその醜い欲望を、もっともっとたっぷりと膨らませてねぇ?」
メルフェレーンが細く白い指先を井戸の底へ向けた。
そこにあったのは、かつての戦いで砕け散った魔王力の結晶――『魔王石のかけら』であった。
淡い紫の光を放っていたその石片は、メルフェレーンの指先に吸い寄せられるようにふわりと浮き上がり、彼女が胸元に隠し持つ真の『魔王玉』へと吸い込まれて消えていった。
目の前で繰り広げられる人間離れした奇跡に、少女は魂を奪われたように見惚れ、ただただ身動き一つできなかった。
やがて、妖艶な美女の姿が夜霧のようにスッと消え去ると、現実世界へと引き戻された少女は、慌てて井戸の底を覗き込んだ。
しかし、そこにもはやあの紫の光は一切残されていなかった。
「……消えちゃった……でも」
少女は自分の胸に手を当て、狂おしく高鳴る心臓の鼓動を確認した。
恐怖よりも、胸を焼くような期待感が勝っていた。
「きっと……私のお願いは、本当に叶うんだわ……」
少女は震える手で木桶に水を満たし、足早に冷え切った使用人舎へと戻っていった。しかし、この夜の出来事は、自分の心の中だけの秘密として、誰の口にも決して語ることはなかった。
時は流れ、地王暦四十五年――。
ブラム王国の先の戦乱で亡くなった皇太子バッカスには四人の息子たちがいた。
いずれも国の未来を背負い、王位を継承するべき高貴なる身分。
しかし、その内実は血肉の権力争いと傲慢さが渦巻く、若き獣たちの群れにすぎなかった。
人間界の裏で暗躍する魔王母メルフェレーンは、遠くからその四人の若き王子たちの様子を眺めながら、ふと赤い唇を面白そうに吊り上げた。
「……ふふ。あの時の人間の小娘を、どの王子に嫁がせてやろうかしらねぇ」
歳の頃も成長した少女に釣り合うよう、メルフェレーンはこの四人の皇子のうち誰をその「オモチャ」の相手に選ぶか、あらかじめ決めておくことにした。
それだけではない。
彼女はさらに退屈しのぎの悪癖を思いついた。
「そうだわ……配下の魔王族どもを集めて、この四人のうち『誰とあの娘が結ばれるか』、賭けをさせてあげましょう」
魔王の間で開かれる秘密の遊宴。
メルフェレーンが勝てば、配下たちから至高の『邪王力』をたっぷりと上納させる。逆に、もしも配下どもの誰かが賭けに勝つことがあれば――その時は、気まぐれにこの魔王母メルフェレーン自身との「交尾の権利」を与えてやろうというのだ。
「さあ、どいつが一番、あの娘の欲望と人生を盛大に狂い咲かせてくれるかしらね……」
新しいおもちゃを手に入れた無邪気な子供のように、メルフェレーンはクスクスと愉悦の笑声を闇夜に響かせた。
そして、運命の歯車が音を立てて回り始める。
メルフェレーンが再び、あの野心に満ちた奴隷の少女の前にその姿を現すのは――それからちょうど五年後の、地王暦五十年のことであった。




