第六部第十三話:静かなる病棟の奇跡と、予期せぬ求婚
第六部第十三話:静かなる病棟の奇跡と、予期せぬ求婚
数ヶ月の歳月が流れるうちに、王都の空気はかつてないほどの異様な殺伐さに包まれていた。
第一王子ヴェリテ、そして第二王子サジェス――それぞれの陣営は、いつ何時訪れるとも知れない王位争いの最終決戦に向けて、日を追うごとに軍備を激しく増強し続けていた。
王宮の内外を問わず、誰もが「いよいよ血みどろの兄弟抗争が始まる」と予見し、息を潜めてその動向を窺っていた。
そんな中、病弱ゆえに争いから距離を置く第三王子レヴリと、冷徹にその共倒れを計算する第四王子オルギーは、表向きには中立を決め込んでいた。
しかし、彼らの真の目的はもはや単なる王位そのものではなく、その副賞として絶対に手に入れなければならない『エル』という究極の存在の獲得にあった。
レヴリには二人の争いを止めるだけの力がなく、オルギーに至っては、兄たちが共倒れして破滅してくれることを心の底から祈っていた。
当の本人であるエルは、高まる緊張感を肌で感じ取り、どうにかしてこの不毛な争いを止められないものかと心を痛めていた。彼女は純粋に、これ以上血が流れるのを防ぎたいという一心で、ヴェリテやサジェスに幾度となく和平を説いて回った。
しかし、彼女に一切の悪気や計算がないからこそ、その純真な言葉とか細い嘆願は、かえって二人の王子の独占欲と焦燥感を煽り立て、まるで火に油を注ぐような結果をもたらしていた。
王都全体に渦巻く、人間のどす黒い欲望と邪悪な思惑――その負のエネルギーを、はるか遠くの暗がりで魔王母メルフェレーンはたっぷりと吸い込みながら、恍惚とした表情で酔いしれていた。
どうにもならない膠着状態に頭を悩ませていたエルの前に、ある日、ひっそりとした回廊で蒼白な顔をした第三王子レヴリが姿を現した。
「……エル殿、このような場所で、お一人でいらしていたのですか?」
「レヴリ王子……! ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。お体の具合はいかがですか?」
エルの心配そうな問いかけに、レヴリは痛々しい苦笑いを浮かべて首を振った。
「ああ……見てのとおりだ。日を追うごとに衰弱し、息をするのもつらくなっている。……もう、この命は長くはないかもしれないね」
「まあ……! そのような、ご自身の命を投げ出すような気弱なことは仰らないでくださいませ……!」
エルの青い瞳がハッと見開かれた。
その瞬間、彼女の目に信じられない光景が飛び込んできた。
レヴリの痛々しく痩せ細った背中に、おぞましい形相をした下等な魔王族が、まるで呪いのようにべったりとしがみつき、彼の生気を貪り食っていたのだ。
「まぁ……っ!?」
エルが思わず息を呑み、小さく声を漏らすと、レヴリの背中にしがみついた魔王族がニヤリと醜悪な笑みを浮かべて囁いた。
「おや、見つかっちまったか? なら、早くいつもの退魔の呪文を唱えなよ、お嬢ちゃん」
その挑発的な言葉に導かれるように、エルは反射的に小さく息を吸い込み、呟くように呪文を紡いだ。
「…………メル・フェ・レーン」
「そうそう、それそれ! ぎゃあああああっ!」
魔王族はわざとらしく大げさな悲鳴を上げ、まるで恐ろしい光に焼かれたかのように煙を巻いてその場から逃げ去っていった。
その呪文が響いた瞬間、レヴリの身体を縛り付けていた重苦しい倦怠感と死の気配が嘘のように霧散していった。
血の気がサーッと顔に戻り、胸の奥から熱い生命力がみなぎってくるのを、レヴリは肌で実感した。
「……嘘だろ……身体が、こんなにも軽い……!」
自分の変化に驚愕したレヴリは、感謝と胸の締め付けられるような愛おしさに突き動かされるまま、目の前にいたエルを力強く、しかし優しくその腕の中に抱きしめた。
「ありがとう、エル殿……! まさか、私の身体にそんな魔王族が取り憑いていたなんて……君が命の恩人だ」
「い、いえ……当然のことをしたまでですわ、レヴリ様……」
至近距離で感じるレヴリの温もりと、誠実でまっすぐな鼓動に、エルの頬はほんのりと朱色に染まっていった。
戦いや権力闘争に怯える日々の中で、この病弱ながらも心優しい王子の穏やかな眼差しは、エルの凍てついた心に深く染み入るようだった。
レヴリもまた、美しく気高いだけでなく、自分を救うために迷わず手を差し伸べてくれたエルに対し、かつてないほどの深い恋心に囚われていた。
「エル殿……! お願いだ、私と結婚していただけないだろうか?」
「まぁ……っ!?」
予想もしていなかった突然の求婚に、エルは驚きで大きく目を見張った。
レヴリはエルの細い両手をしっかりと握りしめ、真剣な瞳で切々と説いた。
兄たちの終わりのない抗争を止めるには、自分がエルと結ばれ、彼女を妻に迎えるしかない。
彼女を巡る争いの根源を断ち切らなければ、この国は破滅してしまう――その政治的な動機はもちろんあったが、それ以上に、レヴリの胸にあるのは偽りのないエルへの愛だった。
エルの心もまた、その真摯な言葉と穏やかな優しさにほだされ、静かにレヴリへと傾いていこうとしていた。
数日後、王宮の一室でレヴリ王子とエルによる「正式な婚約」が突如として発表された。
その電撃的な報せを聞いた第一王子ヴェリテと第二王子サジェスは、まさに「トンビに油揚げをさらわれる」とはこのことかと、怒りと悔しさで激昂し、血走った目を剥いて猛烈に憤慨した。
そして、兄たちの共倒れと漁夫の利を冷ややかに狙っていた第四王子オルギーでさえも、この予想外の結末には冷静さを失い、激しい怒りに全身を震わせていた。
「……あの病弱なクズが……! 余計な真似をしやがって――っ!」
普段は常に冷徹で平静を装っているオルギーだったが、この時ばかりは怒りのあまり手元のグラスを力任せに握り潰し、歪んだ嫉妬の炎を燃え上がらせていたのだった。




