第六部第十二話:途上の暗雲と、激突する二大陣営
第六部第十二話:途上の暗雲と、激突する二大陣営
サジェス王子の待つ湖畔の美邸・ヴァルサール宮殿へと向かうエルたち一行の行く手に、突如として砂塵が巻き上がった。
響き渡る重々しい馬蹄の音とともに、行軍を塞ぐようにして現れたのは、完全武装した第一王子ヴェリテの軍勢であった。
「何者か! 王家の威光を背負う退魔師エル様の御道中と知っての狼藉なれば、タダではおかぬぞ!」
先頭に立つジェノスが漆黒の剣に手をかけ、低い地鳴りのような声で一歩を踏み出す。
その全身から放たれる威圧感に、ヴェリテの兵たちが一瞬ひるんだ。
「待たれよ!」
陣の奥から甲冑を鳴らして馬を進め、姿を現したのは他ならぬヴェリテ王子本人であった。
彼はジェノスを粗暴に手で押しのけると、一直線にエルの乗る馬車へと歩み寄り、切羽詰まった表情で迫った。
「エル殿! ヴァルサール宮殿へ行ってはなりませぬ! あそこへ行けばサジェスの陰謀にはまり、監禁されて恐ろしい仕打ちを受けることになりますぞ!」
ヴェリテは力任せにエルの真っ白な両手を包み込み、大げさなほどの礼儀正しさと熱量をもって懇願した。
「どうか私めを信じて、王宮へお戻りください」
エルは動揺を見せず、首をわずかに傾けて優しく問い返した。
「しかし、サジェス様のお招きを不意に断っては、サジェス様の名誉を傷つけることになりませんか?」
「何をおっしゃる! 私は弟サジェスを罪の淵から救わんと、こうして駆けつけたのです! あなたを毒牙にかけようとする恐ろしい陰謀を食い止めるために……!」
「まあ……なんとも頼もしいことですのね、ヴェリテ様」
エルはうっとりとした、どこか可憐で無垢な眼差しをヴェリテに向けた。
エルがヴェリテの申し出に従って王宮へ戻る決断をしたのは、決して彼の言葉を真に受けたからではない。
ここでことさらヴェリテの面目を潰して逆らい、無用な凶事を招かないためであった。
そのやり取りを背後で見つめるジェノスにとって、エルを己の欲望のために利用しようとする男は、サジェスであろうがヴェリテであろうが憎むべき敵に違いなかった。しかし、手出しも口出しも許されない。
ただ己の感情を殺し、冷たい沈黙を守るしかなかった。
それこそが、エルと魔王母メルフェレーンの望む舞台の「筋書き」だったからである。
王宮へとエルを連れ戻したヴェリテだったが、ここでまた彼の愚かな悪癖が顔を出した。
サジェスを排斥し、己の正当性を誇示するために「サジェスがエルを酷い手口で誘惑し、監禁しようとした」という不名誉な噂を、王都じゅうに面白おかしく流布したのである。
その噂は、すぐさまヴァルサール宮殿でエルを待ちわびていたサジェスの耳にも届いた。
「おのれ……! いつものように黙って指をくわえて見ていれば良いものを! よくも私を愚弄してくれたな!」
サジェスは怒りのあまり手元の羊皮紙を破り捨て、青筋を立てて激怒した。
プライドを根底から打ち砕かれたサジェスは、直ちに自領の兵を率いて王都へと進軍を開始した。
万が一の事態に備えて集められた兵は、いつしかそれ自体が破滅的な大軍勢へと膨れ上がっていた。
対するヴェリテもまた、待ってましたとばかりに自らの軍勢を率いて城外へと出陣し、凄まじい緊迫感の中で広大な平原に陣を敷いた。
両軍が対峙し、陣前で対面した兄弟の視線が激しく交錯する。
「兄上! よくも知略もなく、我が名誉を泥で塗ってくれたな!」
「愚かな弟よ! 己の不徳を認め、悔い改めるならば許してやる! さもなければ、この場で一戦を交えてもよかろぞ!」
対立の端緒はエルを巡る諍いだったはずだが、いまや二人の頭からその存在は霞みつつあった。
これはもはや、ブラム王国の玉座をかけた実力行使による最終決戦へと変貌を遂げていたのである。
ヴェリテは一向にそれで構わなかった。武力でサジェスを叩き潰せば、王位もエルも一度に手に入ると単純に信じ切っていたからだ。
しかし、サジェスには違っていた。
感情に任せて全面戦争に突入すれば、国は荒廃し、エルも玉座もすべてを失いかねないという激しい葛藤が胸を締め付けた。
――だが、このサジェスの理知的な葛藤こそが、王国が即座に破滅する最悪の惨事を水際で防ぐこととなった。
サジェスは怒りに任せて軍を動かした己の軽率さを冷静に認め、一度後方へと兵を引かせて陣を敷き直した。
その間にも、二人の王子の動向を注視していた各地の有力貴族たちから、双方の陣営へと続々と援軍が集まり、事態はますます大掛かりなものとなっていった。
「戦術の駆け引きならば、私の方が遥かに上だ。短慮な兄上に負けるはずがない」
サジェスは冷徹に盤面を分析していた。恐れるべきは、ただ一つ――戦術を無視してヴェリテから「一騎打ちの決闘」を申し込まれ、武力でねじ伏せられることだけだった。
「そうなる前に、知略で完全に引導を渡さねば……」
サジェスは自陣の天幕で、深く深く知恵を巡らせて考え込んだ。
一方のヴェリテは、自陣で剣を研ぎながら、サジェスを効果的に叩きのめし、自らの勇猛さをアピールすることでエルの評価を上げようと企んでいた。
そこへ、騒乱を憂慮したエルが密かにヴェリテの天幕を訪れ、静かに膝を突いた。
「ヴェリテ様……どうか軍をお引きください。王国の兵たちが血を流すことなど、私は望んでおりません」
「エル殿、下がりなさい! これは男と男、王と王の戦いだ!」
ヴェリテは荒々しく手を振り払い、聞く耳を持たなかった。
エルの必死の嘆願すらも、彼の歪んだ自尊心には「エルがまだサジェスを庇い、憐れんでいる」ようにしか映らなかったからである。
エルの言葉は、かえってヴェリテの嫉妬心に油を注ぐ結果となってしまった。
その頃、果てしなく膨れ上がる両陣営の対峙を、遥か遠くから見つめる二つの影があった。
王宮の暗がりから高みの見物を決め込む第四王子オルギー。
彼は、二人の愚かな兄たちが勝手に憎しみ合い、自滅に向かって突き進む滑稽な様を見て、不気味な笑みを浮かべていた。
そして、さらに遠く、王都の上空に漂う歪んだ邪悪な気配の渦の中で、魔王母メルフェレーンが恍惚とした表情で唇を歪めていた。
「そうよ……もっと憎みなさい、愛を求めて奪い合いなさい……」
二人は全く違う視点から、この滑稽で血生臭い愛憎劇の行く末を思い思いに嘲笑っていたのであった。




