第2話 Alice72は庭師である
第2話 Alice72は庭師である
翌朝、あゆみは目覚まし時計が鳴る前に、右膝の痛みで目を覚ました。昨夜はゲームを終えたあとも小説を書き続け、布団へ入ったのは午前二時を過ぎていた。枕元には老眼鏡と読みかけの文庫本が置かれ、脱いだ靴下が片方だけ布団の下から出ている。窓の外では配送トラックが後退し、注意を知らせる電子音を何度も鳴らしていた。あゆみは薄い掛け布団を押しのけ、膝を両手で包んでから、ゆっくり足を床へ下ろした。
「今日は佐伯さんが来るんだったね。少しは片づけないと、玄関で帰られちゃうよ」
誰も返事をしない部屋で声を出し、あゆみは襟の伸びた白いTシャツの上へ、薄紫色のカーディガンを羽織った。灰色のズボンには、昨日ゼラニウムへ水をやったときについた土の染みが残っている。着替えようにも、洗濯機の横にある籠には、まだ畳んでいない衣類が山になっていた。あゆみは濡らした布巾で土をこすり、薄くなったところで手を止めた。
朝食には、六枚切りの食パンを一枚焼いた。冷蔵庫には卵が二個と豆腐が半丁あったが、卵は特売日まで残しておきたかった。食パンの端には冷凍庫の匂いが移っていたため、マーガリンを普段より少し厚く塗る。トースターから取り出すのが遅れ、右端だけ黒く焦げていた。
「焦げも香ばしさのうちです。真っ黒なところだけ取れば、まだ食べられます」
あゆみは包丁で焦げた部分をこそげ落とし、皿へ散った黒い粉を指先で集めた。インスタントコーヒーには砂糖を一杯入れ、牛乳の代わりに粉末のクリームを落とす。窓際には昨日から干したままのタオルが三枚あり、乾いた布から安い柔軟剤の甘い匂いが漂っていた。食パンをかじりながら部屋を見回すと、片づけなければならない場所がいくつも目に入った。
折り畳み机には、小説の下書き、電気料金の請求書、ゲームの攻略情報を印刷した紙が積まれている。床には図書館から借りた本が七冊、その隣には半分ほど土の残った園芸用の袋が置いてあった。テレビの前には取り込んだ洗濯物が重なり、玄関までの細い通り道だけが空いている。あゆみはコーヒーカップを持ったまま考え、まず本を紙袋へ入れることにした。
一冊目を持ち上げたところで、腰の奥に痛みが走った。あゆみは本を胸へ抱えたまま動きを止め、机の端へ左手をついた。七冊すべてを本棚まで運ぶのは無理だったため、紙袋へまとめて机の下へ押し込む。上から古い新聞をかぶせると、床は少しだけ広く見えた。
「片づけたというより、隠しただけだね。でも佐伯さんは床の下まで調べないでしょう」
食べ終えた皿とカップを流しへ運ぶと、昨夜使った茶碗と味噌汁の椀が残っていた。食器を洗えば立っている時間が長くなるため、水を張って後回しにする。マーガリンと冷めた味噌汁の匂いが混じっていたので、台所の小窓を少し開けた。網戸の桟には黒い埃がたまっていたが、そこまで掃除を始めたら佐伯が来る時間に間に合わない。
壁の時計は午前十一時を指していた。佐伯が来るのは午後二時なので、まだ三時間ある。ゲームへ少し入って庭を確認し、昼食を食べてから残りを片づければよい。あゆみはそう決め、パソコンの前へ座った。
「三十分だけ。十二時になったら、必ず終わりにします」
冷めたコーヒーを机へ置き、あゆみはMMORPGを起動した。古いパソコンのファンが低い音を立て、画面に色鮮やかな草原が現れる。銀髪の魔術師Alice72は、ギルドハウスの入口に立っていた。青い外套には銀色の刺繍が入り、腰には水晶のついた杖を下げている。
現実のあゆみは椅子から立つだけでも机へ手をつくが、Alice72は石段を二段飛ばしで駆け上がった。庭を一周しても息は切れず、腰も膝も痛まない。あゆみはAlice72を噴水の周囲で何度か走らせてから、玄関脇に置いた「追憶の赤花」の前で止めた。赤い花びらから光の粒が舞い、昨日と同じ形のまま風に揺れている。
「今日も元気だね。水がいらない花は、世話が楽でいいよ」
現実の玄関にあるゼラニウムは、昨日の水を吸って少しだけ葉を持ち上げていた。それでも傾いた茎は戻らず、茶色くなった葉も残っている。ゲームの花なら、置いた瞬間から一番美しい姿で咲き続ける。しかし現実の花は、世話をしてもすぐには応えてくれなかった。
ギルドハウスの庭には、白い噴水を中心にして灰色の石畳が敷かれている。庭具を置ける数には上限があり、ギルドの共同資金にも余裕はない。そのため、あゆみは高価な家具を並べるのではなく、安い木箱や柵を組み合わせて景色を作っていた。石畳は一枚ずつ間隔を空け、その間へ背の低い草を置くことで、少ない枚数でも道が奥まで続いているように見せている。
噴水の裏側には、安価な木の柵を三枚重ねて置いていた。角度を少し変えると、ただの柵が古い建物の壁に見える。使わなくなった木箱の上には鉢植えを載せ、庭の隅にはベンチを一脚だけ置いている。人の輪へ入りにくい仲間でも、庭の端から会話を眺められるように作った場所だった。
ギルドチャットへ、見慣れない名前が表示された。昨夜加入したばかりのハルというプレイヤーだった。頭には大きな猫耳の帽子をかぶり、背中には初心者用の剣を下げている。ハルは石畳から外れて花壇へ入り、慌てて道へ戻ってきた。
「おはようございます。ここ、本当にプレイヤーが作った庭なんですか?」
「おはよう。王様の庭ではないから、花壇へ入っても牢屋には入れられないよ」
「今の、見ていたんですか?」
「猫耳の帽子が花の中から出ていたからね。ずいぶん元気な猫がいると思ったよ」
ハルは照れた顔の動作を使い、噴水の周囲を歩き始めた。庭具を一つずつ調べ、追憶の赤花の前で足を止める。昨日ユウが持ってきた花だと説明すると、ハルはAlice72の周囲を二度回った。操作に慣れていないらしく、話しかけるつもりで何度も杖を抜いている。
「この庭、Alice72さんが全部作ったんですか?」
「だいたいは私だよ。でも花や木は、みんなが持ってきたものです。高い家具はあまり使っていないから、新人でもまねできます」
「Alice72さんは、庭師なんですね。ところで、名前の七十二はレベルですか?」
あゆみは思わず笑い、飲みかけのコーヒーへ手を伸ばした。このゲームの最高レベルは百を超えているため、七十二では初心者とも熟練者とも言えない。若い人が自分の年齢を名前に入れることは少ないのだろう。あゆみは少し迷ってから、正直に打ち込んだ。
「年齢だよ。レベルなら、とっくにカンストしてる」
チャット欄が止まった。年齢を知った途端、必要以上に丁寧な言葉を使われたり、どう接すればよいのか分からず離れていかれたりすることは珍しくない。あゆみは返事を待っていないふりをして、噴水の位置を一マスだけ動かした。しかし、何度調整しても元の場所よりよくならず、結局、同じ位置へ戻した。
「七十二歳って、本当ですか?」
「嘘をつくなら、二十七歳にするよ。数字を逆にするだけだから、覚えやすいでしょう」
「僕は二十歳です。僕の祖母と同じくらいです」
「そう。五十二年たったら追いつけるね」
「祖母はゲームをしません」
「私も編み物はしないよ。七十二歳が全員、同じことをするわけじゃないからね」
「すみません。変な言い方をしました」
ハルが謝ると、会話を見ていたユウが庭へ入ってきた。黒い鎧を着た剣士で、背中には体より大きな剣を背負っている。ユウはAlice72の前で丁寧に頭を下げる動作をした。続いて、チャット欄へ「新人だから知らないんだな」と書き込む。
「ハル、この人はうちの庭の師匠だぞ」
「師匠なんですか?」
「いつの間にか、そういうことになったみたいだね。月謝は取っていないから、安心してください」
「師匠、僕にも庭の作り方を教えてください」
「まず、家を買ってから言いなさい。野宿のままでは庭を作れないよ」
チャット欄へ笑った顔の記号が並んだ。あゆみは画面を見ながら、カーディガンの袖口に浮いた毛玉を指でつまんだ。年齢を知られたあとも、仲間たちの態度は変わっていない。ハルはAlice72の周囲を歩き、庭具の置き方について次々と質問してきた。
あゆみは入口から噴水まで続く石畳の脇へ、赤い花壇を一つ置いた。きれいな家具を隙間なく並べれば、庭が美しくなるわけではない。人が歩く道を残し、目立たせたい花の周囲を空ける必要がある。現実の部屋ではできていないことを、ゲームの庭では自然に考えられた。
「師匠、この椅子だけ、どうして庭の隅にあるんですか?」
「みんなの真ん中に座るのが苦手な人もいるでしょう。隅に一脚あれば、そこには座れるから」
「一人で座るための椅子ですか?」
「一人で座っていても、仲間の話は聞けるでしょう。無理に輪へ入らなくても、同じ庭にはいられるよ」
「そんなことまで考えて作るんですね」
「庭は見るだけの場所じゃないからね。誰かがそこで過ごすことまで考えないと、家具を並べただけになります」
ハルは隅のベンチへ座った。ユウは噴水の近くにある別の椅子へ腰かけ、二人の間に会話が始まる。庭の中央にいなくても、ハルの文字は同じチャット欄へ表示された。あゆみはその様子を確かめ、ベンチの横へ小さなランプを一つ置いた。
壁の時計が一時半を指していた。三十分だけのつもりが、二時間以上たっている。あゆみは慌てて立ち上がり、腰へ走った痛みに顔をしかめた。佐伯が来るまで、あと三十分しかない。
「師匠、午後も来ますか?」
「今日はお客さんが来るから、夜に戻るよ。それまで庭を壊さないでね」
「このゲーム、ほかの人の庭を壊せるんですか?」
「壊せないけど、年長者は若者へ注意するものなの」
ゲームを終了すると、静かになった部屋で冷蔵庫の音だけが聞こえた。机には朝の皿とコーヒーカップが残り、床へ積んだ資料も傾いたままである。あゆみは皿を流しへ運んだが、洗う時間が惜しくなり、水を張って昨夜の茶碗へ重ねた。昼食を食べていないことにも気づいたが、今から作っている余裕はなかった。
玄関へ行くと、ゼラニウムの土はまだ湿っていた。傾いた茎は元へ戻っていないが、根元にある緑の芽はしおれずに残っている。その隣には土だけの鉢や、去年枯れた朝顔の支柱が並んでいた。捨てれば玄関が広くなると分かっていても、鉢は来年使えるかもしれず、支柱も曲がってはいない。あゆみは枯れた蔓だけを外し、支柱を壁際へ立てかけた。
午後二時ちょうどに、玄関のチャイムが鳴った。あゆみはカーディガンの前を合わせ、白髪を手ぐしで整えた。小さな鏡を見ると、頬には寝具の跡が薄く残っている。台所のタオルで顔をこすってから扉を開けると、紺色のパンツスーツを着た佐伯真理子が、黒い鞄を持って立っていた。
「こんにちは。少し早かったでしょうか?」
「いいえ。時間はちょうどです。私の片づけが遅かっただけです」
「お邪魔してもよろしいですか?」
「どうぞ。足元に気をつけてください。物が勝手に増える家なので」
「物に足はないと思いますけど」
「夜中になると生えるんですよ。特に紙がよく育ちます」
佐伯は笑い、靴をそろえて部屋へ上がった。あゆみは机の前にある椅子を勧め、自分は布団の端へ腰を下ろした。来客用の座布団は押し入れの中にあるが、その前には段ボール箱が二つ置かれている。箱を動かすと腰へ響くため、取り出すのは諦めた。
佐伯は血圧、通院、食事、入浴について順番に尋ねた。あゆみは朝に食パンを食べ、昨夜はアジの開きとご飯を食べたと答えた。昼食について聞かれ、まだ食べていないことを思い出す。佐伯の視線が流しの食器へ向いたため、あゆみは先回りして口を開いた。
「食べていないわけではありませんよ。洗っていないだけです」
「そこは心配していません。腰が痛いと、立って洗うのも大変ですか?」
「明日でも洗えますから、大変というほどではありません」
「明日になると、明日の食器が増えますね」
「そこが食器というものの困ったところです。洗っても、また使うんですよ」
あゆみが笑うと、佐伯も口元を緩めた。しかし、玄関の鉢や床の紙袋へ視線を向けられるたびに、あゆみの指はカーディガンの裾を引っ張った。ゲームの庭なら、どの方向から見ても美しくなるように整えられる。色の組み合わせも、人が歩く道も、椅子の位置も考えられる。それなのに現実の部屋では、玄関から布団までの道を空けるだけで精いっぱいだった。
「散らかっているでしょう。午前中に片づけるつもりだったんです」
「今日は何か片づけましたか?」
「本を七冊、紙袋へ入れました。机の下に隠しただけですけどね」
「一度に全部運ぼうとしませんでしたか?」
「一冊持ったところで腰が痛くなったから、運ぶのはやめました」
「そこでやめられたのはよかったです。無理をして動けなくなる方が困りますから」
佐伯は資料を捨てるようにも、植木鉢を減らすようにも言わなかった。代わりに、一日のうちで最も長く過ごす場所を尋ねる。あゆみがパソコンの椅子を指すと、佐伯は机に積まれた小説の下書きと、ゲームの家具配置を描いたメモを見た。ノートの端には麦茶の染みが残り、余白には「赤花を入口へ」「ベンチは一人用」と書かれていた。
「このパソコンで、何をしているんですか?」
「小説を書いています。それと、オンラインゲームです」
「毎日ですか?」
「ほぼ毎日です。ゲームの中では庭を作っています。現実の庭は、この通りですけど」
あゆみは玄関の方へ顎を向けた。長時間のパソコンを控え、もっと外へ出るよう言われるかもしれない。ゲームをしている時間があるなら、部屋を片づければよいと思われるかもしれない。あゆみは膝の上で両手を組み、聞かれる前に通信費の説明を始めた。
「光回線とプロバイダーで、月に一万七千円かかります。でも、スマートフォンは持っていません。小説もゲームもパソコンがなければできないので、通信は切れません」
「通信費をやめてくださいとは言いませんよ」
「でも、高いでしょう?」
「安くはありません。ただ、金額だけで必要かどうかは決められません。ゲームも小説も、あゆみさんが続けたい暮らしの一部なんですね」
あゆみは組んでいた手をほどいた。佐伯は、きれいに片づいた部屋を作るためだけに来たのではないらしい。何をやめさせるかではなく、あゆみが何を続けたいのかを知ろうとしている。それでも、口だけでゲームの庭を説明するのは難しかった。
「少しだけ、見ますか? 子供の遊びみたいに思うかもしれませんけど」
「見せてください。私はゲームに詳しくないので、変な質問をしたら教えてくださいね」
あゆみはパソコンを起動し、Alice72をギルドハウスへ戻した。読み込みを待つ間、机に置かれた爪切り、目薬、菓子の空き袋を端へ寄せる。キーボードの隙間にはパンくずが入り、モニターには指の跡が残っていた。ティッシュで拭くと、汚れが横へ伸びて、かえって目立った。
画面に白い噴水と石畳が現れた。入口には追憶の赤花が咲き、道の先には仲間が休める椅子が置かれている。佐伯は画面へ顔を近づけ、庭の隅にある一脚のベンチを指した。あゆみは、ハルへ説明したことをもう一度話した。
「この椅子だけ、離れた場所にありますね」
「人の輪へ入るのが苦手な人用です。あそこなら、一人で座っても仲間の話を聞けます」
「現実の公園にも、こういう場所があるとよいですね」
「誰も座らない日もあります。でも、ないよりはいいでしょう」
「はい。座るかどうかを、自分で選べますからね」
そのとき、ギルドチャットへハルの言葉が表示された。先ほど教わった方法で、自分の庭を作ってみると書かれている。続いてユウもログインし、今夜の冒険を忘れないでほしいと伝えてきた。佐伯は画面の文字を読み、あゆみの横顔を見た。
「本当に、師匠と呼ばれているんですね」
「年寄りだからじゃありませんよ。庭だけは、私の方が上手なんです」
「はい。それは画面を見れば分かります」
あゆみは返事をせず、マウスを握り直した。机の後ろには乾いた洗濯物が下がり、流しには水につけた食器が残っている。玄関には枯れた鉢も並んでいる。それでも画面の中には、自分で考え、自分の手で整えた庭があり、そこへ帰ってくる仲間がいた。
「ゲームの庭なら、きれいにできるんです。腰も痛くならないし、重い鉢も指一本で動かせますから」
「現実の庭も、同じ方法で考えてみませんか?」
「指一本では、鉢は動きませんよ」
「使えるお金と庭具の数が限られていても、あゆみさんは工夫していますよね。現実では、使える体の動きに合わせて工夫すればよいんです」
「腰を曲げなくても水をやれるようにする、ということですか?」
「そうです。鉢を高い場所へ置いたり、軽い容器を使ったり、一度に全部やろうとしない方法もあります」
佐伯が帰る前に、二人は次の訪問までに試すことを一つだけ決めた。部屋全体を片づけるのではなく、パソコンから玄関までの通り道にある物を、一日に一個だけ移す。ゼラニウムの水やりには、大きなじょうろではなく、空になった五百ミリリットルのペットボトルを使う。あゆみは少なすぎるように思ったが、一日一個なら一か月で三十個になると佐伯は言った。
「増やさなければ、三十個減りますね」
「そこは自信がないなあ。本は勝手に増えますから」
「紙にも足が生えるそうですからね」
「佐伯さんまで信じるようになりましたか」
佐伯を見送ったあと、あゆみは流しの食器を三枚だけ洗った。茶碗、味噌汁の椀、コーヒーカップを洗ったところで腰が重くなり、残りは明日に回す。窓際のタオルも一枚だけ外し、角を合わせて畳んだ。部屋全体はほとんど変わっていないが、玄関までの通り道から新聞の束が一つなくなった。
冷蔵庫から豆腐の残り半分を出し、鰹節と醤油をかけた。昼食を食べ損ねた腹には冷たい豆腐だけでは足りず、食パンをもう一枚焼く。今度は時計を見ていたため、焦がさずに取り出せた。マーガリンを塗ったパンと冷ややっこを交互に食べる妙な献立になったが、あゆみは気にせず皿を空にした。
パソコンへ戻ると、ハルが自分の家へ来てほしいと待っていた。Alice72を移動させると、庭には赤、青、黄色、紫、白の花が隙間なく並べられている。噴水の前にも椅子の周囲にも花が置かれ、人が歩く場所がほとんど残っていなかった。ハルは花壇の間へ挟まり、動けなくなっている。
「師匠、好きな花を全部並べたら、ごちゃごちゃになりました」
「好きなものを全部置いたら、そうなるよ。まず三種類だけ残してみて」
「ほかの花は捨てるんですか?」
「倉庫へしまうだけ。必要になったら、また出せばいいよ」
「三種類だけだと、寂しくなりませんか?」
「空いている場所があるから、残した花が見えるんだよ。歩く道も必要でしょう」
ハルが花を一つずつ倉庫へ移すと、土の地面が見え始めた。赤、白、黄色の三種類だけを残し、入口から家まで石畳を敷く。道の途中には、あゆみが勧めた一人用のベンチを置いた。先ほどまで家具に埋もれていた庭に、人が歩き、座って過ごせる場所が生まれた。
「師匠、これならどうですか?」
「うん。さっきより、ずっと庭らしくなったよ」
「少ない方が、きれいに見えるんですね」
「少ないからじゃないよ。何を残すか決めたから、きれいに見えるんだよ」
言いながら、あゆみは机の下へ隠した七冊の本へ目を向けた。明日は一冊だけ本棚へ戻そうと思った。ゲームの庭のように簡単にはいかなくても、現実の部屋にも、歩きやすい道を一本くらい作れるかもしれない。一度に全部できなくても、今日の一個を動かせばよい。
玄関へ出ると、ゼラニウムの葉が夕方の風に揺れていた。花はまだ咲かず、曲がった茎も元には戻っていない。それでも根元の小さな芽は、昨日より少し持ち上がって見えた。あゆみは空のペットボトルへ水を入れ、鉢の縁からゆっくり注いだ。
「ゲームの庭みたいにはいかないけど、こっちも少しずつ作ろうか」
水を吸った土から、湿った匂いが立ち上った。ペットボトルなら片手で持つことができ、台所と玄関を一度往復するだけで済む。あゆみは枯れた葉を一枚摘み、土の入っていた空袋へ落とした。ゼラニウムは急に元気にはならなかったが、昨日より悪くもなっていない。
部屋へ戻ると、画面の中でハルとユウが一人用のベンチを挟んで話していた。あゆみはAlice72を二人の近くまで歩かせ、追憶の赤花によく似た花を一輪、ベンチの横へ置いた。現実の部屋には洗濯物も資料も残り、流しには洗っていない食器もある。それでも今日、新聞の束を一つ移し、食器を三枚洗い、ゼラニウムへ水をやった。
「師匠、次は何を置きますか?」
「今日は、もう置かないよ。座って庭を見よう」
Alice72がベンチへ腰を下ろすと、ユウとハルも隣へ座った。三人の前には、家具を減らしたことで広くなった庭と、夕日に照らされた赤い花がある。あゆみは毛玉のついたカーディガンの袖を引き下げ、冷めたコーヒーの代わりに水を一口飲んだ。画面の中と玄関先にある二つの庭は、どちらもまだ完成していなかった。だから明日も、あゆみには庭師としてすることが残っていた。




