第1話 枯れかけのゼラニウム
第1話 枯れかけのゼラニウム
九月最初の月曜日、あゆみは朝食の茶碗を流しへ運び、古い折り畳み机を布巾で拭いた。朝食は昨夜の残りのご飯にお湯を注ぎ、梅干しを一つ入れたものだった。冷蔵庫には卵が二個と半丁の豆腐が残っていたが、月初めから食べてしまうのが惜しくて手をつけなかった。薄紫色のカーディガンには毛玉が浮き、灰色のズボンの膝は少し白くなっている。着替える予定もないため、あゆみは寝るときに履いていた靴下をそのまま履き、引き出しから茶封筒を取り出した。
机の上には、生活費として使える七万五千七百五十円が置かれている。家賃六万五千円は住宅扶助から支給されるため、この金額には含まれていない。それでも、一か月を三十日として割れば、一日に使えるのは二千五百円ほどだった。あゆみは唾で湿らせた指で紙幣を数えかけ、銀行員だった母に「お金を触る指をなめるものではありません」と叱られたことを思い出した。今さら見ている人もいないのに、湯飲みの水で指先を湿らせ直す。
「はいはい、お母さん。七十二歳になっても、あなたの娘は行儀が悪いですよ」
返事の代わりに、台所の蛇口から水滴が落ちた。ぽたり、ぽたりという音が気になったが、強く締めると手首が痛む。あゆみは蛇口の下へ薄い布巾を置き、音だけを止めてから紙幣を数え直した。
食費と書いた封筒に三万円、光熱水費の封筒に一万五千円、通信費の封筒に一万七千円を入れる。通信費は光回線とプロバイダー料金で、あゆみの家計では食費の次に大きな出費だった。日用品の封筒へ五千円を移すと、机の上に残ったのは八千七百五十円になる。そこから通院の交通費を出し、トイレットペーパーや洗剤が予定より早くなくなれば補い、急な出費にも備えなければならない。園芸用品へ使えるお金が残るかどうかは、月末まで分からなかった。
「食費さん、今月も勝手に逃げないでください。電気代さんは、もう少し遠慮してください」
茶封筒へ話しかけながら、あゆみは大学ノートにも金額を書き込んだ。罫線からはみ出した数字の横には、先月こぼした麦茶の薄茶色い染みが残っている。パソコンにも家計表はあるが、封筒とノートの両方で確認しないと落ち着かなかった。書き終えたところで腰を伸ばすと、背骨の下に太い針を差し込まれたような痛みが走った。あゆみは息を止め、机の端を両手でつかんだ。
「今日は機嫌が悪いね。昨日は膝で、今日は腰ですか」
誰に聞かせるでもなく言い、ゆっくり立ち上がった。窓の外では、ごみ収集車の音楽が近づいている。流しの脇には、昨日出し忘れた可燃ごみの袋が置いてあった。急げば間に合うかもしれなかったが、二階から階段を下り、また上がってくることを考えると足が動かない。あゆみは袋の口をもう一度縛り、次の収集日まで台所に置くことにした。生ごみの入った小袋だけは冷凍庫へ押し込み、凍った食パンの隣に収めた。
玄関へ新聞を取りに行くと、湿った外気が頬へまとわりついた。夜に雨が降ったらしく、古い木造アパートの廊下は濡れた板と土の匂いがした。あゆみは戸口に片手をつき、腰をかばいながらサンダルへ足を入れる。そのとき、壁際に並べた植木鉢の一つが目に入った。
赤いゼラニウムは、数日前よりも小さくなっていた。厚みのあった葉は端から茶色く乾き、細い茎が鉢の外へ傾いている。土の表面は白っぽく固まり、指を触れなくても水分がないと分かった。その株は、母が団地のベランダで育てていたものだった。母は花殻を摘むときだけ、台所用とは別の赤い柄の鋏を使い、切り終わると新聞紙の上へ土をきれいに落としていた。
「あんたは水をやりすぎるから、根を腐らせるのよ」
母の声が頭の中によみがえり、あゆみはゼラニウムの前で口を曲げた。水をやりすぎていた娘は、今では水を運ぶことさえ後回しにしている。台所には二リットル入る緑色のじょうろがあるが、満水にすると重く、片手では持てない。半分だけ入れて何度か運べばよいと分かっていても、玄関と台所を往復するだけで腰と膝が痛んだ。
「今日は雨だったんだから、少しくらい入ったでしょう」
軒下にある鉢へ雨が届いていないことは、乾いた土を見れば分かる。あゆみは腰を曲げ、指先で葉を一枚持ち上げた。ざらついた葉から青臭い匂いがかすかに立ったが、茎にはまだ緑色が残っていた。今すぐ水を持ってくればよい。それなのに立ち上がったときには、額へ汗が浮き、膝の裏まで震えていた。
「水は、あとでね。パソコンをつけたら、忘れないように紙へ書くから」
あゆみは室内へ戻り、玄関の横に置いた靴箱の上から新聞を取った。台所まで来たところで水を飲み、じょうろには手を伸ばさなかった。先に小説の閲覧数を確かめるだけ、そのあと水を運べばよいと自分へ言い聞かせる。だが、パソコンの前へ座ると、腰の痛みが少し和らいだ。座布団を二つ重ね、背中と椅子の間へ丸めたバスタオルを挟む姿勢は、長年かけて見つけたあゆみ専用の形だった。
電源を入れると、古い本体のファンが低い音を立て始めた。机の隅には、飲みかけの麦茶、爪切り、目薬、使い終えた乾電池、小説の人物名を書いたメモが重なっている。モニターが明るくなるまでの間に、あゆみは昨夜脱いだ白いブラウスをハンガーへ掛けた。洗濯するほど汚れてはいないため、窓際で一日風に当て、もう一度着るつもりだった。
小説投稿サイトを開くと、昨夜更新した話の閲覧数は二だった。お気に入りも感想も増えていない。十万文字近く書いても、読みに来る人は一日に数人しかいなかった。あゆみは更新ボタンを押し、数字が変わらないことを確かめてから、もう一度押した。
「二人も読んでくださった。日本の人口を考えなければ、大成功ですよ」
声に出してみたものの、右手は三度目の更新ボタンへ向かった。あゆみは途中で指を止め、画面を閉じる。机の上には、次の話の下書きを印刷した紙が十六枚積まれていた。昨夜、登場人物を一人死なせたところで眠くなり、夕食に食べたアジの開きの骨を皿に残したまま寝てしまった。その皿は今も流しにあり、部屋には魚とインスタントコーヒーが混じった匂いが残っている。
「死なせるのは、まだ早かったかな。あの人、おにぎりを一口しか食べていないし」
あゆみは下書きの余白へ「生存させる」と書き込んだ。生活が苦しい人物ほど、物語の中では簡単に死なせたくなかった。少なくとも温かいものを腹いっぱい食べさせてから、次の場面へ進ませたい。そう考えているうちに、玄関のゼラニウムは頭から消えた。
正午を過ぎると、空腹より先にゲーム仲間からの通知音が鳴った。あゆみは冷蔵庫から朝の残りのご飯を出し、豆腐半丁に醤油をかけた。味噌汁を作る気力はなく、電気ポットのお湯へ顆粒だしと乾燥わかめを入れる。わかめが増えすぎて椀からあふれそうになり、箸で半分を豆腐の皿へ移した。
「一人分って、どうしていつまでたっても覚えられないんだろうね」
ぬるい汁をすすりながらゲームを起動すると、銀髪の魔術師「Alice72」が画面中央に現れた。現実のあゆみが着ている毛玉だらけのカーディガンとは違い、Alice72は青い刺繍の入った外套と銀色の長靴を身につけている。背筋は伸び、走っても膝は痛まず、大きな階段も一息で上れる。ギルドハウスへ移動すると、庭には昨夜配置した花が朝と同じ姿で咲いていた。
画面の向こうから、若い仲間のユウが声をかけてきた。
「師匠、こんにちは。新しい花、もう見ました?」
あゆみは豆腐を口へ入れたまま、キーボードを打った。
「今来たところ。どこにあるの?」
「噴水の裏です。赤いやつ。師匠が好きそうだと思って、一本残しておきました」
噴水の裏へ回ると、丸い葉の間から赤い花を咲かせた家具が置かれていた。名前は「追憶の赤花」。説明欄には、古い記憶を養分にして咲き続けるため、水を必要としないと書かれている。あゆみは箸を止め、画面へ顔を近づけた。
「これ、ゼラニウムに似ているね」
「ゼラニウムって、どんな花ですか?」
「うちの玄関にもあるよ。母からもらった赤い花。昔はもっと元気だったんだけどね」
そう打ち込んだ瞬間、あゆみは玄関に置き去りにした鉢を思い出した。ゲームの赤花は、光の粒をまといながら規則正しく揺れている。水を忘れても、季節が変わっても、葉の一枚さえ枯れない。現実のゼラニウムとは違った。
「師匠、庭のどこに置きます?」
ユウの問いかけが表示された。あゆみはすぐに返事をせず、椀に残ったわかめをかき込んだ。立ち上がれば、また腰が痛む。じょうろへ水を入れて運んでも、枯れた花が元に戻るとは限らない。それでも、何もしなければ戻らないことだけは分かっていた。
「少し待っていて。現実の花へ水をやってくる」
あゆみはゲームを開いたまま、椅子から立ち上がった。台所でじょうろへ三分の一だけ水を入れ、両手で腹の前に抱える。歩くたびに水面が揺れ、冷たいしずくがカーディガンの袖へこぼれた。玄関までの十歩が、ゲームのダンジョンより遠く感じられた。
ゼラニウムの鉢へ少しずつ水を注ぐと、固くなった土がじわじわと黒くなった。乾いた土の匂いに湿り気が混じり、軒下の空気がわずかに変わる。鉢底から細い水が流れ出すまで待ち、あゆみは葉についた埃を指で拭った。
「遅くなってごめんね。今日の分だけは、ちゃんと持ってきたよ」
赤い花はまだ咲いていない。傾いた茎も、茶色くなった葉も、そのままだった。それでも根元には、親指の爪ほどの小さな緑の芽が残っている。あゆみはそれを何度も確かめてから、空になったじょうろを玄関へ置いた。
パソコンの前へ戻ると、ユウから新しいメッセージが届いていた。
「おかえりなさい。じゃあ、追憶の赤花は玄関の近くに置きましょう」
あゆみは画面の中の花を、ギルドハウスの入口へ移した。現実のゼラニウムが元気になるまで、この場所に置いておこうと思った。母から譲られた花と、名前も顔も知らない仲間が残してくれた花が、二つの庭の入口で赤く重なった。
「ただいま。今度は、忘れないようにするよ」
誰に向けた言葉なのか自分でも分からないまま、あゆみはキーボードへ両手を置いた。机の端には、八千七百五十円と書いた予備費の封筒がある。玄関には水を吸った鉢があり、画面の中には決して枯れない赤い花がある。あゆみは小説の新しいページを開き、枯れかけた花へ水を運ぶ老女の場面を書き始めた。




