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第3話 十万文字と五十円のパンジー

第3話 十万文字と五十円のパンジー


あゆみは午前二時を過ぎても、パソコンの前から離れられなかった。灰色のスウェットの膝には昨夜こぼしたインスタントコーヒーの染みがあり、肩には毛玉のついた紺色のカーディガンを羽織っている。机の端では夕食に食べた鮭弁当の空き容器が乾き、醤油の小袋だけが未開封のまま残っていた。画面には、十万文字を超えた長編小説の最新話が表示されている。主人公の女騎士が百人の兵を相手に戦う場面で、あゆみは剣の振り方や鎧の傷まで何度も書き直していた。


「これなら、今度こそ読んでもらえるかもしれない」


投稿ボタンを押すと、第八十七話が公開された。あゆみは作品管理画面を開き、閲覧数が増えるのを待った。一分たっても数字は動かず、五分後に更新してもゼロのままだったが、夜中だから仕方がないと自分へ言い聞かせた。台所では水切りかごに伏せた茶碗から、一滴ずつ水が落ちている。洗濯機の上には、畳むつもりで取り込んだ下着と靴下が三日前から積まれていた。


あゆみは布団へ入ってからも、枕元のスマートフォンで管理画面を確認した。午前三時に閲覧数が一つ増え、それから数字は動かなかった。ブックマークの欄には、細長いゼロが残っている。それでも、朝になれば通勤電車の中で読む人がいるかもしれないと考え、スマートフォンを伏せた。隣の部屋から目覚まし時計の音が聞こえ始めた頃、あゆみはようやく眠った。


目を覚ましたのは午前九時半だった。薄いカーテンから白い光が入り、昨夜脱いだ靴下が片方だけ布団の脇に落ちている。あゆみは布団の中でスマートフォンを開き、寝ぼけた指で作品管理画面を更新した。閲覧数は三、ブックマークはゼロだった。感想欄にも通知はなく、八十七話分の題名だけが縦に並んでいた。


あゆみはしばらく画面を見ていたが、台所から冷蔵庫の作動音が聞こえると、スマートフォンを枕元へ置いた。昨日の味噌汁を鍋ごと温め、少し硬くなったご飯にかける。味噌汁の具は大根の端と油揚げ一枚で、煮詰まった汁は朝の喉には塩辛かった。冷蔵庫を開けると、卵の容器が空になっている。財布には千円札が一枚と、小銭が四百三十七円入っていた。


スーパーでは卵が一パック百八十八円になる日だった。あゆみはクリーム色のセーターに黒い綿のズボンをはき、赤いダウンジャケットのファスナーを顎まで上げた。玄関には乾いた土の入った植木鉢が三つ並び、去年枯らしたミニトマトの支柱が傘立てへ突っ込んである。捨てるつもりで半年も置いたままになっていたが、その日は目を合わせないように外へ出た。


スーパーの入口では焼き芋の機械が動いていた。甘い匂いに腹が鳴ったものの、一本二百九十八円という札を見て、あゆみは買い物かごを持ったまま通り過ぎた。卵のほかに、半額になった食パンと一袋二十九円のもやしを入れる。菓子売り場では小豆入りのどら焼きを手に取ったが、合計金額を頭の中で計算し、棚へ戻した。


会計へ向かう途中、園芸用品売り場の隅に、小さな値下げ台があった。季節を過ぎた鉢植えがプラスチックのケースへ寄せ集められ、黄色い紙に「処分品」と書かれている。その中に、紫と黄色のパンジーが一鉢だけ残っていた。花は横へ傾き、葉の先が茶色くなっている。土の表面は白く乾き、鉢を持ち上げると驚くほど軽かった。


値札には、赤いペンで五十円と書かれていた。五十円あれば、もやしをもう一袋買える。見切り品の豆腐なら一丁買えるかもしれない。あゆみは鉢を元の場所へ戻し、卵売り場の方へ歩き出した。


十歩ほど進んだところで、あゆみは立ち止まった。パンジーのことを考えずに済むよう、通路に積まれた特売のカップ麺を眺めたが、紫色の花びらが頭から離れなかった。ゲームの庭では、季節が変われば古い花を片づけ、課金で買った新しい花へ植え替えている。けれど、あのパンジーは売れなければ、今夜には捨てられるのだろう。


「五十円だけだから」


誰に許しを求めるでもなく口にして、あゆみは園芸売り場へ戻った。鉢を買い物かごへ入れると、傾いた花が卵の容器へ寄りかかった。レジ係の若い女性はパンジーを手に取り、値引きのシールを確かめた。


「ずいぶん乾いていますね」


「水をやれば、まだ大丈夫でしょうか」


「枯れた花を取って、少し大きな鉢へ移したら元気になるかもしれませんよ」


あゆみは五十円玉を一枚多く出し、卵ともやしと食パンとパンジーを持って店を出た。外では自転車の籠に白菜を押し込んでいる女性が、電話で今夜は鍋にすると話していた。あゆみも白菜が欲しくなったが、財布に残った小銭を確かめ、そのまま帰った。


部屋へ戻ると、赤いダウンジャケットを脱ぐ前にパンジーへ水をやった。乾いた土はすぐには水を吸わず、鉢の縁から茶色い水が流れ落ちた。あゆみは慌てて、流しに積んであった皿を端へ寄せる。朝に使った味噌汁の椀が下から現れ、油揚げの欠片が内側へ張りついていた。


植え替えに使えそうな鉢を探すと、玄関に置いていたものの中で、一番小さな素焼き鉢が使えそうだった。あゆみは古い土を新聞紙の上へ出し、残っていた根や小石を取り除いた。腰を曲げたままでは痛くなるので、台所の椅子へ座り、膝の上にごみ袋を広げて作業を続ける。セーターの袖口に土がつき、爪の間も黒くなったが、途中で手を洗おうとは思わなかった。


パンジーを黒いビニール鉢から抜くと、細い根が固まった土を包んでいた。あゆみは指先で根を少しほぐし、新しい鉢へ植え替えた。ゲームなら、花の家具を選んで決定ボタンを押せば終わる。現実の花には濡れた土の重さがあり、傷んだ葉のざらつきがあり、茎を折らないように支える加減が必要だった。


指についた土を何気なく鼻へ近づけると、雨上がりの公園に似た匂いがした。子供の頃、母に連れられて団地の花壇へチューリップの球根を植えたことを思い出す。母は土を触った手で顔をこすり、頬へ黒い筋をつけていた。あゆみが笑うと、母も理由を知らないまま一緒に笑った。


「あなたも、まだ咲けるよね」


パンジーは答えず、濡れた花びらを下へ向けていた。それでも、水を吸った土は先ほどより黒く、鉢にも重みが戻っている。あゆみは枯れた葉を三枚だけ摘み、日当たりのよい窓辺へ置いた。そばには飲みかけの麦茶と、ゲームの攻略情報を書いた大学ノートがあったので、少し離して場所を空けた。


昼食には、買ってきた食パンを二枚焼いた。一枚にはマーガリンを塗り、もう一枚には目玉焼きをのせた。黄身を箸で割ると、半熟の黄色がパンの端まで流れた。あゆみはこぼさないよう皿へ顔を近づけながら食べ、ときどき窓辺のパンジーを見た。閲覧数が三だったことは変わらないのに、朝ほど管理画面を開きたいとは思わなかった。


夜になり、あゆみは長編小説の最新話を開いた。女騎士が十九人目の敵を斬り倒し、次の部隊へ向かうところまで読み返す。剣がぶつかる音や敵兵の配置は細かく書いてあるのに、戦っている女騎士が朝に何を食べたのか、鎧の下でどこが痛むのか、何を守りたくて剣を握っているのかは書かれていなかった。あゆみは千文字近い戦闘場面を選択し、削除キーを押した。


代わりに、城下町の片隅で、売れ残った花を買う老女の場面を書き始めた。老女の財布には銅貨が五枚しかなく、夕食の豆を買えば花は買えない。花屋の前を一度通り過ぎた老女は、傾いた紫色の花を思い出して引き返す。家へ持ち帰り、欠けた鉢へ植え替えながら、戦場へ行った孫が幼い頃に土まみれで帰ってきた日のことを話すのだった。


女騎士は偶然その家へ立ち寄り、老女から一杯の豆のスープをもらう。スープは薄く、器の縁は欠けている。それでも女騎士は、城を守れと命じた王の顔ではなく、窓辺の花へ水をやる老女の手を思い浮かべ、翌朝もう一度剣を取る。あゆみはそこで指を止め、冷めた麦茶を一口飲んだ。


書き直しを終えたのは、午後十一時を過ぎた頃だった。窓辺のパンジーはまだ傾いていたが、紫色の花びらは昼間より少し開いて見えた。あゆみは公開ボタンを押したあと、閲覧数を確かめずにパソコンを閉じた。指の爪には、洗っても落ちなかった土が細く残っていた。


翌朝、最初に見たのは作品管理画面ではなかった。あゆみは薄桃色のパジャマの上へカーディガンを羽織り、窓辺まで歩いた。パンジーの茎はまだ斜めになっていたが、その先の花は窓から入る朝日へ向いている。あゆみはコップ半分の水を鉢へ注いでから、食パンを焼くために台所へ向かった。


その途中でスマートフォンが一度だけ鳴った。昨夜の最新話に、初めての感想が届いていた。


「花を買うおばあさんのところで、亡くなった祖母を思い出しました。続きを待っています」


あゆみは返信欄を開いたが、すぐには言葉が浮かばなかった。トースターの中では食パンの端が焦げ始め、流しには昨日の皿が一枚残っている。窓辺では、五十円だったパンジーが、朝の光を受けていた。



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