98 脳の支配者
もちろん、模擬空間での話で、実際に殺されるわけではない。
もし仮に小犬が最後まで攻撃してこなければ、実際の小犬も彼に対し無害である可能性が出てくる。前回、小犬が幻覚に出てきたのは、きっと何か別の目的があったのだ。
そう決心したグドンは、別の日、脳海に現れた小犬に対し無防備な状態で一歩ずつ近づいていった。もちろん、グドンからは一切攻撃しない。
十メートル、五メートル、一メートル…。
「えいっ!」
次の瞬間、グドンは肩を怒らせたチンピラのように小犬へ体当たりした。
ぶつかった!
彼の体が小犬に触れたと思ったとき、小犬の姿が模擬空間からパッと消えた。
グドンは思わずあっと声を上げた。
小犬が消えたからではなく、ぶつかった際に痛みを感じたからでもない。声を上げたのは、小犬が消える直前、相手の体温を感じたからだ。
いや、体温というより、正確には生き物が持つ熱量、エネルギーといったほうがよい。
それは錯覚ではないし幻覚でもなかった。小犬は生身の妖獣そのものだった。
小犬は自分の意思でグドンの世界に入り込んだ侵入者だった。
小犬の姿が消えてしばらく経っても、グドンのドキドキはなかなか治まらなかった。
小犬の存在がグドンの能力と無関係なのは間違いない。入り込んだのは、小犬の意思であり、グドンが望んだことではないからだ。であれば、他人の脳海や、脳海につくられた偽の世界へ自由に出入りする能力があるということだ。
思わず、グドンの額に冷や汗が浮かんだ。
もし仮に、ほんの少しでも相手に悪意があったら、自分は今、確実に死んでいるはずだ。誰に、どうやって、なぜ殺されたかもわからないままに…。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したグドンは、起こったことを冷静に回想、分析してみることにした。さらに、今回のことから学べること、今、自分に何ができるかを考察した。
結果は明らかだった。
グドン自身にも、他人の脳海へ侵入することができるのではないか、ということだ。言い換えるなら、自分に小犬の能力を吸収、模倣することが可能か、だった。
考えると、鳥肌がたち体がぞくぞくした。
まず気になったのは、脳海に入り込むのが、生身の自分自身なのか、それとも分身なり、自分の精神だけなのかという点だ。
たとえば、実際の肉体は抜け殻のようになってその場に残り、分身や魂だけが脳内に入り込む場合はどうだろう? 自分の肉体が極小化して脳内に直接入り込む場合はどうか?
残念ながら、考えるだけでは答えはでなかった。答えを見つける一番簡単な方法は、実際にやってみることだ。そのためには、他者の脳や脳海へ入り込む必要があり、入り込むには、まず対象が必要だった。
対象はどんな生き物が適当だろうか?
出来るだけ脳が発達した高等な生物がいいか、それとも知能が低いものほど侵入、制御が容易なのか?
まあ、下等生物に脳海があるとは思えないが、脳内への侵入には、ある程度の危険は避けられない気がした。それはグドンと侵入対象双方について言える。
相手の脳へ侵入したはよいが退出できなければ試みは失敗したも同然だ。考えようによっては、瞬時に殺されるより遥かに残酷な結果が待っている。下等生物の脳に閉じ込められ、「助けてくれ!」と喉が裂けるまで叫び続ける自分の姿を想像すると、まさに恐怖で体が冷たくなった。
もちろん、人族の脳に入り込むことも論外だ。自分は無事に逃げ出せても、相手に大きな被害を出す可能性がある。脳を傷つけたり、ましてや命を奪うようなことになれば、ただ後悔するだけでは済まされない。
模擬の世界で試してみることを考えたが、なぜか、それではうまくいかない気がした。
実際やってみるとその予感は的中し、脳海につくり出した人族の脳内へ侵入することは、どうしてもできなかった。侵入する脳なり脳海は、本物でないと駄目なのだ。
ということは、グドンの脳海へ入り込んだ小犬は、模擬世界へ入り込んだのではなく、彼の本体へ侵入していたことになる。そうした想定に、グドンは改めて戦慄を覚えた。
次にグドンが対象の候補として考えたのは魚類だった。海岸へ行けば対象はいくらでも手に入る。だが、結局はこれも候補から外した。
水槽で飼われているものならともかく、海を泳ぎ回る魚は、制御に失敗したら手に負えなくなる。仮に、グドンの肉体が抜け殻になって残された場合、肉体と分身なり魂なりが離れすぎてしまったら、どうなるか? 考えなくとも、答えは明白だった。抜け殻には二度と戻れなくなる。
グドンは蟻巣島で飼われている小動物を探した。
飼育されていた動物は、そのほとんどが今も島内に放置されている。その代表が家畜だ。食肉用や搾乳用の家畜などは置き去りにされ、無残にも餓死する運命を待っていた。その中から搾乳用の家畜を選び、グドンは修練に使うことにした。
家畜の前に立つと、グドンは目を閉じ、まず自分の脳海に現れた小犬の姿を想像した。
小犬は、極小化された実体のある小犬自身か、奴の分身か、それとも魂か? いや、その全部という可能性もある。
じっと小犬を凝視すると、小犬が見返したようにグドンは感じた。
感じた瞬間、小犬と自分が重なり、どうやって小犬が脳海へ入り込んだのか、分かった気がした。
グドンは家畜の脳内へ入り込んだ自分を想像した。
次の瞬間、彼はもう家畜の中にいた。
成功した!
これほど容易く試みが成功するとは思ってもみなかったが、とはいえ、家畜の脳内にいる感覚は、グドンが予め予想していたのと幾分違っていた。
脳内に入り込んだのは、やはり彼の本体ではなく、いわば分身だった。もっと正確にいえば、彼の心の分身と表現してもよい。エネルギーをもった精神だ。
分身は、家畜の脳内に侵入すると、その脳活動に影響を与えた。脳の支配者が家畜自身とグドンの二人になったといえばよいか。
脳の元々の持ち主からすると、そのとき、侵入した他者がはっきり見えるようになる。
しかも、分身には強い存在感があった。グドンが小犬に感じたように、分身自体が熱量を発散している。
脳の支配者として、グドンが家畜に啼くよう命じると、家畜は当たり前のように啼き声をあげた。グドンが足を動かしたいと思うと、家畜の足が動いた。
そうした試みを何度か繰り返すうち、グドンは、何やら気分が悪くなり、強い吐き気に襲われた。
彼は慌てて家畜の脳から退出した。
退出したのはいいが、自分の中へ戻ったとたん、眩暈を感じ立っていられなくなり、その場にへたり込んだ。
激しい全身疲労と吐き気で倒れそうになり、地面に手をついてやっと体を支えた。
家畜の脳内への侵入は、時間にすればほんのわずかだったが、それにもかかわらず、全身の虚脱感が激しく、極度の憔悴で危うく気絶しそうだった。
もう二度とやりたくない。誰かの能力を模倣吸収して、こんな気持ちになったのは初めてだった。
能力の使い方が正しくないのか、グドンの能力そのものが低すぎるせいかはわからない。とにかく、今のままなら何の役にも立たないのは目に見えていた。それどころか、自ら墓穴を掘りにいくようなものだ。
またどこかで小犬が笑って見ている気がしたが、そんなことをかまっている余力はなかった。
とりあえず吐き気が治まると、グドンはいったん宿舎へ戻ることにした。
他者の脳海や脳に侵入する試みは放棄する、そう決めた。
しかし、宿舎のほうへ向け何歩か歩き出したとき、グドンはふと自分が何かとんでもない間違いを犯している気がして足を止めた。
おいらはどこかで間違いを犯している? いったい、どこだろう?
首を捻りつつしばらく考えてようやくはっと思いついた。
小犬の能力は、敵を攻撃するには役に立ちそうにない。だが、自分を守るためには、今すぐ必要な能力なのではないか?
小犬は自分の脳海へ入り込んだ。いや、入り込んだのは小犬自身ではないが、危険性はまったく同じだ。あのとき、相手はグドンを操り、ひと思いに殺すこともできた。
能力がどんなものか分かった今、侵入を阻止するためにそれを利用できないか?
地面の汚れもかまわず、グドンはその場に腰を下ろして再び目を閉じた。
模擬の世界で他者の脳へ侵入するのは無理だ。だが、かつて起こったことを自分の脳海で再現するのは、どうだろう? きっと可能なはずだった。
彼は脳海に侵入した小犬を想像した。
自分がやったのと同じように、他人の脳に対するもう一人の支配者となった小犬。
脳海に、小犬の姿が鮮明に浮かび上がる。
グドンは、小犬の能力を阻止し脳海から追い出そうとした。
もう一人の支配者である小犬は、それを敏感に感じ取り抵抗を開始する。
四つの眼が互いに睨み合う。
小犬の能力がグドンをはるかに上回ってるのは間違いなかった。正面から戦って勝てる相手ではない。それを承知で、脳海から小犬を締め出そうとしたとき、相手の体が細かく震えるのがわかった。
グドンは驚きにはっと息をのんだ。
おいらの能力が相手に影響を与えている。たとえ、力の差があるにせよ、こっちもまったく無力ではないのだ。
そう思ったとたん、また小犬が笑った気がした。
グドンは頭に割れるような痛みを感じた。
トン。
小犬が上げた片足を地面につくと、グドンの意識が遠のいた。
気付いたときには、地面の上に仰向けになって倒れていた。
信じられない。こんな簡単にやられるなんて…。
ここは家畜の飼われている小屋の中だ。床は汚れ放題で、糞尿の匂いもする。実際、後頭部は何かでべとりと濡れていた。家畜の尿なのか、まさか自分の血ではないだろうが…。
いずれにせよ、そんなことを気にしている暇はなかった。おいらは小犬に負けて自分の脳海から追い出されたんだ。そう。自分の脳から。
もちろん、これは仮想空間での話だ。実際の世界だったら、グドンはすでに死ぬか、発狂していたかもしれない。
こうした状況にもかかわらず、グドンの顔には不敵な笑みが広がった。
修練すれば、おいらにも勝ち目があるかもしれない。きっとこれは、戦う舞台がグドンの脳内だったからに違いない。別の場所が舞台なら、グドンと小犬の能力の差はさらに歴然としていたはずだ。だが、グドンの脳海では、やはりグドンが主宰なのだ。負けたとはいえ、一定の抵抗力を発揮できる。
グドンは同じ修練を続ける決心をした。
だが、この家畜小屋は、修練の場所としてあまりにも環境が悪すぎる気がした。
ふらつく足で立ち上がると、グドンは海岸へ向かうことにした。
あそこであれば、他人に邪魔されることはないだろうし、倒れて意識を失った場合も、砂浜が衝撃を和らげてくれる。
いったん宿舎へ戻りしばらく休みたいという気は起きなかった。グドンは、成長する可能性を実感できることが何よりも嬉しかった。
ここ数日ずっと心が塞いでいたのが嘘のようだった。
それから何日か、グドンは同じ修練を何度も繰り返した。
繰り返し、繰り返し…。そして、ついに自分の脳海から小犬を締め出すことに成功した。
最後、脳海から小犬の姿が消えた瞬間、グドンは、それまでの鬱屈した気持ちが爆発するように大笑いした。
消える直前の小犬は無表情だった。
また別の場所で会うことになる、そう言っているようにも見えた。
渉不城を出るときに見た小犬と、今回の小犬はやはり同じ妖獣かもしれない、最近、グドンはそう思うようになっていた。色が違うと感じたのは単なる光の加減だろう。どんな理由からか、小犬は自分をつけ回している。だが、それでもかまわなかった。それどころか、小犬が新たな能力を見せてくれる度、自分は成長できる。小犬は言わば彼の師匠だ。仮にそうなら、その出現は大歓迎と言ってよい。
グドンは笑顔のまま宿舎に戻り、久しぶりにぐっすり眠った。




