96 煉薬2
老人は書物に記された順番どおり、薬草を炉に投入していく。
熱せられ、溶けだした薬の成分が室内に充満する。
それを見ていたグドンが微かに眉を顰めた。
彼の期待していたものと、老人の作業工程に若干の違いがあったからだ。
もちろん、老人はそんなことを知るはずもなく、黙々と作業を続けていく。
次々に投入される薬草が、互いの薬効を増強し、また相殺する。
室内にたちこめる匂いがさらに強くなった。
炉の中の薬草が溶け合い、やがてひとつに変化していく。
丹炉には蓋がされていて中が見えないが、老人は炉の中が透けて見えるように、状況をしっかり把握出来ていた。これも長年の経験とそこから来る勘のなせる業だ。
書籍にどれほど詳しく記述があろうと、それはただの死んだ知識でしかない。その死んだ知識に命を与えるのが熟練した技能と勘だった。
とくに火加減には細心の注意が必要だ。一瞬の気の緩みも許されない。
額の汗はさらに粒が大きくなり、やがてこめかみから頬を伝って床へ流れ落ちた。
老人がふっと大きく息をつくと、次の瞬間、炉に入れられていた火が消えた。
グドンが再び眉を顰める。
それとは対照的に、老人は薄い笑顔を浮かべてグドンを振り向いた。
「第一段階は終了した」
第一段階?
グドンが質問する間もなく、老人は炉の中で溶け合いどろどろになった半固形物を取り出し、別の容器へ移して、さらにそこへ水溶液を加えた。
グドンはあっと声を上げたが、もう遅かった。
老人はグドンの反応を面白がるように、
「大丈夫だ。これから第二段階に入る。水溶液につけて薬効成分を抽出する。それが済んだら、第三段階だ」
グドンは何か言いかけたがやめて口を閉じた。
「しばらく時間がかかる。ただ待つのは退屈だから、きみの試験を続けるとしよう」
と老人がいう。
「試験? それはもう終わったんじゃないの?」
「馬鹿をいいなさい。試験の内容を自分で決める試験がどこにある。さっきは冗談で承諾したまでだ。だが、心配することはない、試験は簡単だよ。待っているうちに、清霊丹の煉薬に必要な薬草を揃えてもってきなさい。きみならわけはないだろう? それに合格すれば、試験は終わりだ」
グドンは思わず失笑した。
「合格したら、おいらは何がもらえるの?」
「もらえる? 何をいっている。初めに話したではないか。薬草の基礎があるとわかったら、薬師になる素質があるかどうか調べてあげる」
「え? これは素質を調べるためにやってるんじゃないの?」
今度は老人が眉を顰める。
「そんなはずがないだろう。薬草の知識があるかどうかと、薬師の素質にどんな関係がある」?
いわれてみれば、老人のいう通りである気もした。グドンは反論するのをやめ、抽斗のある壁の前に戻って、清霊丹に必要な薬草を集め始めた。
その速さは、老人が自分でやっても叶わないと思えるほど凄まじかった。
老人は初め、唖然としてその様子を眺めていたが、やがて、奇妙なことに気付いて、少しがっかりした表情になった。
グドンの集めた薬草の中に、清霊丹に必要のないものも数多く含まれていたからだ。
やはり、この青年の知識もこの程度のものか…。
そう思いかけた老人だったが、あることに気付いて、とたんに体を緊張させた。
違う。この子が集めているのは清霊丹の薬草だけじゃないんだ。
案の定、グドンは集めた薬草を持って老人の前に立つと、
「清霊丹のはこっち。残りは、さっきあなたが煉薬したのと同じもの」
と説明した。
清霊丹の薬草の選別に、一つも間違いがないのはいうまでもなかった。
「同じものをもう一度集めてどうするつもりかね?」
もう試験のことなどどうでもよくなり、老人がせっつくように尋ねる。
まさか、同じことをもう一度やってみせろというのではあるまい。青年専属の曲芸師でもあるまいし、面白いからもう一度やれといわれてやるほど暇ではない。
「おいらも自分でやってみたくなった」
「あ?」
老人は返す言葉を失った。
これでは、外科治療を行った治療師に対し、こどもが自分もやってみたいと言っているようなものだ。ひとを馬鹿にするにもほどがある。グドンはまだ若いとはいえ、もうそれが理解できないほど幼くはない。さすがに老人の顔に陰険な表情が浮かぶ。
ところが、グドンはそれを一向に意に介さぬ様子で、
「水出しするには、あとどれくらい待つ必要があるの?」
と訊く。
そんな質問には答えたくなかったが、老人は仕方なく、
「特殊な溶液を使っているから、二三時間ですむはずだ」
それを聞いたグドンは嬉しそうに白い歯を見せ、
「じゃ、おいらが先に丹炉を使わせてもらうよ。いいでしょ? 水出しが終わるまでには、こっちも片を付けると約束する」
片を付けるというのがどういう意味か、老人には不明だったが、こどもと本気でいい合うのも大人げない気がした。
「きみは、煉薬の経験がないと言ったじゃないか」
「ないよ」
グドンは平然と答える。
「でも、あなたのやるのを見て、だいたいどんな感じかわかった気がする」
ふざけるな!
喉元まで出かかったその言葉を老人がのみ込んだのは、余りの憤怒でうまく声が出なかったからだ。
だが、老人がほんの少し冷静さを取り戻したとき、グドンはすでに丹炉の前にいた。
「大丈夫。絶対に丹炉を傷つけないと約束するから」
老人の一番の懸念はそこだろう、と確信した口調でグドンが言う。
止めようとした老人が体を乗り出したときはすでに手遅れだった。
丹炉に火が入ったのを老人は感じた。
素人がな、なんてことを…。
その丹炉は、おまえが一生かかっても払い切れないほど高価なものなんだぞ!
はらわたが煮えくり返るほどの怒りに我を失いかけたとき、老人はあることに気づき、再び体を硬直させた。まさに頭からから冷水を被せられる思いといってよい。
少年は火を使っていなかった。
どこにも炎が見えない。にもかかわらず、明らかなに丹炉が温まっている。
これはどうしたことか?
呆然と見守る老人の目の前で、グドンが次々に薬草を投入していく。
老人の時と同様薬の匂いが室内に立ち込め、新たな薬草が投入されるたび、匂いも少しずつ変化していく。
だが、その匂いは老人の時よりずっと微かなものだった。
老人には炉の中の薬草の変化が見える気がした。
薬草は互いに溶け合い融合して一つになっていく。
老人の目には見えない火の加減も絶妙な温度が保たれている。
そのとき、老人は信じられないものを見た気がした。
どろどろに溶け合った薬草から、何か液体のようなものがふわりと浮かび上がったのだ。
それは初め、小さな水滴のようなものだった。
それが次第に大きくなっていく。
水滴は一つではなく、炉の中で幾つも浮かび上がっていた。
やがて、それらがひとつになって、半固形の溶液へと姿を変えていく。
それが何なのか老人にははっきりわかった。
これはきっと水出しした薬効成分をろ過し、固形化したのと同じものに違いない。
老人の目の前で、その溶液に対しさらに熱が加えられていく。
何かが溶液から分離され、蒸発して消えるのが見えた。
実際には音は聞こえなかったが、ジュッ、ジュッと音を立てているような気がする。
蒸発しているのは不純物であると、老人にはわかった。
彼が第三段階で煉薬する際も同じ工程を通る。
不純物が消え、より強い薬効で形作られた固形物は、次第に丸みを帯び、固形物としての硬さを増していく。
そのときになり、老人は室内に立ち込めた匂いが、なぜ、自分の時より薄いと感じるのか分かった気がした。
恐らく何かが、青年の施した何かが、炉内から薬効が逃げるのを阻んでいるのだ。自分のやり方では、多くの薬効成分が匂いと一緒に空中へ飛散してしまっていた。
やがて、完全に不純物が消え、薬効が頂点に達したとき、パンと音がして丹炉の蓋が開き、中から丸い丹薬が飛び出した。
一、二、三…。
合計六粒の丹薬だ。
老人はもう立っていられず、その場にへたり込んだ。
まさに奇跡を見たといってよかった。
丹薬は今少年の掌の上にのっている。
しかし、老人はもう丹薬を見ていなかった。
見ているのはグドンだ。
肝心なのは奇跡が起こったことではなく、奇跡を起こしたこの青年だ!
老人はそのことを鮮明に意識していた。
「な、何だ、きみは? 化け物か?」
無意識にそう呟いて、老人ははっと我に返り、
「すまない。失礼なことを言った。だが、きみが使ったその能力は何だ? きみは半妖だと聞いた。半妖には皆、そんな力があるのか?」
もう何度も聞かされている同じ質問を、グドンはまた聞いた気がした。
「ほかの半妖のことはわからないけど、煉薬は元々、人族のためのものじゃないと思う。煉薬の際、丹炉の中に精気の陣術、精陣を張る必要があるんだよ。その能力が人族にはない。だから、ほとんどの薬効成分が空中へ逃げてしまう。溶け合った薬草から薬液を抽出するときも、水出ししていたら、滓しか残らない。人族は、何かもっと別の方法を探して煉薬すべきだよ」
グドンの何気ない言葉に、老人の心は今にも崩壊しそうだった。
青年のいう通りなら、わたしがこれまで人生をかけてやって来たことはいったい何だったのだろうか?
「ごめんよ。でも、本当のことだから。でも、今日は本当にためになったよ。それに面白かった。お礼をいうよ」
グドンはそれだけいって、老人に背を向けようとした。
衝撃による心の痛手に打ちのめされていた老人は、何とか視線をあげ、
「ちょっと待ちなさい」
とグドンの背中へ声をかけた。
グドンが振り向くと、老人はやっとという感じで立ち上がり、
「ここで待っていてもらえないか。試験にも合格したし、薬師の素質があることもわかった。約束通り、贈り物を上げよう」
「贈り物?」
意外に思ってグドンが片眉をあげると、老人は、
「きみには必要ないかもしれないが、いつか役に立つこともあるだろう」
と言いおいて部屋を出ていく。
しばらくして戻ってきたときは、手に何か札のようなものを握っていた。
「これをあげよう」
グドンが手に取ると、それは何かの許可証のように見えた。
「きみが薬師であることを証明する、いわば身分証だ。それがあれば、いろんなところで特別な待遇を受けることができる。何か困ったことがあったときは、それを見せるといい。必ず役に立つと約束はできないが、役に立てば儲けものくらいに思ってほしい」
やっと老人は小さく笑顔を見せた。
「ありがとう」
グドンは薬師一級と書かれたその札を懐へ仕舞った。
「いいそびれたが、わたしはカワラマチギヘイ(河原町義平)という。またどこかで会えるといいが」
「ギヘイさん…」
グドンはその名を記憶した。
「本当にまた会えるといいね。でも、そのためには、一刻も早くここを離れること。この言葉がおいらからの贈り物だよ」
笑顔になった彼は、手を振ってギヘイに別れを告げようとした。だが、ギヘイはまだ何やら話がある様子で挨拶を返さない。
グドンが戸惑う顔になると、老人は気まずそうに、
「先ほどの丹薬を譲ってはもらえまいか? 自分から贈り物のお返しを求めるようで恥ずかしいが…」」
と、彼の手に握られた丹薬を指さす。
グドンは益々笑みを大きくして、
「どうぞ」
と丹薬をギヘイに渡し、
「でも、絶対に服用しないで。これは人族が使用するために作られていないと思う。のめば、たぶん害があるよ」
そう言うと、急に何やら思いついた様子で手を打ち、
「待って。ひょっとして、水出しして薬効を薄めたのはこれが原因だったのかもしれない。人族がのんでも害がないように、故意に陣術を使わず、水出しするんだ」
「いや…」
それは真実ではないと思ったが、それでもギヘイは笑みを洩らした。これまでのやり方が間違いではなかったと安堵したからではなく、グドンの気遣いに感謝したのだ。
「じゃ、本当に、さようなら」
二人は笑顔で別れを告げた。




