94 老薬師
それからの一か月、グドンは海岸での修練に明け暮れた。
いっぽう、ほかの島民たちは大移動を開始した。
その凄まじさたるや、桟橋付近では大渋滞が起きるほどで、グドンやリンタロウが島を離れるよう説得する必要すらないように思えた。
こうした事態を引き起こした最大の原因は、薬師協会の離島だった。
蟻巣島は元々薬草と煉薬で成り立ってきた島だ。その島から薬師協会がいなくなれば、半分存在価値がなくなったのも同然だった。
協会が、もうこれ以上薬草が手に入らないと判断し、煉薬を放棄して島を離れることを決めたのだから。
それでも、グドンの聖地入りに期待し、島に残ることを選択する者もいた。しかし、それはあくまで少数だった。
むしろ、島を大混乱に陥れたのは、輸送手段の不足だった。
島を離れるためには当然ながら船に乗る必要がある。その船がまるで足りなかった。
蟻巣島には何隻かの中型船が係留されていたが、それでも、大半の島民が同時に移動するとなれば、とても数が足りず、極端な供給不足が起こった。
船は、蟻巣島と付近の陸地の間でピストン輸送を繰り返したが、それも焼け石に水だった。
こうした事態がさらに別の問題を引き起こした。
島から持ち出す財産の制限だ。人を輸送するだけでも十分な手段を確保できないのだから、大型の家財道具や煉薬の設備を移動させるスペースなどあるはずがない。
これは裕福な島民ほど悩みが大きかった。
結局は泣く泣く家財を放棄し、船に乗ることになったが、やはり、あちらこちらで揉め事が起こった。
それでも、日がたつにつれ、島からはみるみる人影が消えていった。
この頃になると、日中やることのないグドンは、島内をぶらぶら散策するようになった。これは単なる気晴らしに過ぎなかったが、同時に、残った島民たちに離島を勧める絶好の機会ともなった。
彼は殊更大袈裟に七号薬草地での経験を語って聞かせた。
大半にはそれで十分だった。
それでも、彼を信じず島に残ると言い張る者もいたが、その数は著しく減少した。
散策を続ける中、グドンはある立派な建物の前で偶然足を止めた。
よく見ると、薬師協会と表示が掲げられている。
トクサワを始め協会所属の薬師たちは、ほとんどがすでに島を離れており、建物内で活動を続けている者はもういないか、残っていても極く僅かなはずだった。
グドンはほんの気まぐれで協会内へ足を踏み入れた。
たとえ誰か残っていても、すぐ追い出されたり、空き巣呼ばわりされる危険はないと思えた。今はもうそういう状況ではないからだ。
一階はほとんどが事務方の執務室だった。
無味乾燥な机や機器、資料の棚などが並んでいる。そんなところを見て回っても面白いはずがないから、そのまま通り過ぎ二階へ上がった。
そこは階全体が薬草、煉薬に関係する文献の書庫になっていた。
グドンは気の向くまま何冊かを手に取りパラパラと中身に捲った。
だが、彼が失望したのは、その内容の大半がすでに知っている情報だったことだ。薬草に関する知識はもちろん、煉薬の方法に関しても、グドンの脳内に湧いて出る情報のほうが量的にも豊富で内容も詳細だった。
溜息をついてその場を離れようとしたとき、一冊の書籍が彼の目にとまった。
そこには奇薬百選とある。
思わず手に取り目次に目を落とすと、グドンが聞いたこともない丹薬が名を連ねていた。
聞いたこともないとは、脳内に情報が湧いて出ないという意味だ。
さらにページを繰っていくと、乳児期に飲ませれば、男児を女児に変化させることのできる丹薬というのが出てきた。
これは本当だろうか?
面白半分に情報の詳細に目を向けたが、残念ながら、煉薬の際に使用する薬草の中には、グドンの知らないものが多数存在した。
これでは実際には煉薬不能だから何の役にも立たない。
次に目を止めたのは、齢百歳の老人、老婆でも、失った歯や髪を取り戻すことができるという丹薬だ。だが、これも使用する薬草が現在存在しなかった。
おやっと、彼がページを繰る手を止めたのは、傷ついた神経を修復できるという丹薬だ。
彼が関心を持ったのは、使われている薬草が、ごく一部を除き、現在も存在するものばかりだったからだ。しかも、今は存在しない薬草についても、かつて存在したことが知られており、別の薬草を複数調合することで代替することが可能なものだった。
もし、これが本当なら、書籍の内容がすべて嘘とは限らないことになる。
もしかすると、ほかの丹薬も過去には実際に存在したのだろうか?
グドンが感心して眺めていると、
「薬草や煉薬に興味があるのかね?」
と、背後で男の声がした。
振り向くと、小柄で痩せた六十過ぎの老人が柔和な笑顔で立っている。
老人は白地に青の筋の入った薬師特有の作業着を着ていた。
「残念ながら、その本に書いてある丹薬はすべて出鱈目だ。興味半分に読むには面白いかもしれないが、役には立たない」
グドンは反論せず、頷くと本を書棚へ返した。
「きみは、宿舎に住む使役労働者だろう? 何歳の時、この島へ来たのかね?」
老人が尚も尋ねる。
なぜ、そんなことを訊くのだろう、とグドンが不思議に思っていると、
「幼いころここへ来て、ずっと薬草について学んでいたなら、それなりの知識はあるだろう。今は暇だから、薬師に関心があるなら、才能があるかどうか試験してあげてもいい」
親切そうに言うので、グドンもやっと事態がのみ込めた。
老人は、グドンが薬師希望者だと誤解して声をかけたのだ。
希望者が不足しているとも思えなかったが、老人が声をかけたのは、きっと親切心からだろう。もしかすると、大半の薬師が離島してしまい、島に一人残った彼はほかにやることがなくて退屈なのかもしれない。
「あなたは、島を離れなくていいの? ここは今、凄く危険だと思うけど」
グドンの問いに、老人は少し驚いた顔になったが、すぐ笑顔を取り戻し、
「わたしは、人混みが大嫌いなんだ。最後の最後、皆がいなくなってから島を離れるつもりだ。それより、きみこそ、島を離れなくていいのかね?」
「おいら? おいらは大丈夫」
「なぜ? 自分でもさっきここはとても危険だと言ったじゃないか?」
グドンは一瞬、自分が誰か話すべきか迷ったが、
「おいらはあなた方が色々噂してる半妖だから、グドンという」
と真実を告げた。
何となく、彼は老人に好感を抱いていた。そういう相手には、多少なりとも嘘をつきたくなかった。
「きみが話題の半妖か!」
老人は心底驚いた顔になったが、とたんにグドンに対し興味を失った様子で、何もいわずに背を向けようとする。
これにはグドンのほうが驚いた。この老人は見かけによらず半妖に偏見、反感を持っているのだろうか?
「ねえ、おいらに試験をしてくれる話は、どうなったの?」
薬師になる気などなかったが、老人の真意が知りたくて声をかけた。
「駄目だ」
と老人は背を向けたままにべもなくいう。
「駄目? どうして?」
グドンの問いに、相手は仕方なさそうに振り返り、
「きみは幾つだね? 二十歳か二十一か? 半妖なら、もっとずっと上かもしれないな」
「たぶん、十八だけど、それが何か…?」
「たとえ、本当に十八でも、今から薬草を学ぶのでは遅すぎる。噂の半妖ということはまだこの島へ来たばかりだろう? 薬草については素人のはずだ。それではもう間に合わない。頭も体も固くなり始めているだろうからね」
グドンはなぜかこの老人に強く興味を引かれた。
きっと、この人は薬草や煉薬以外には何も興味を持たず生きてきたのじゃないだろうか? そうして薬草一筋の人生を送ってきた学者、職人に違いない、そんな気がした。




