90 揺らぎの正体
洞窟の入口まで戻り外を見ると、辺り一面が蟻の大群に埋まっていた。
だが、なぜか、今日は小犬の姿が見えない。
大蟻の大群がカシラを失った烏合の衆のように思え、グドンは少しがっかりして溜息をついた。せっかくあの小犬との再会を楽しみにしていたのに…。
もしかして、背後に隠れている者にはもう、小犬の幻覚を見せるだけの余力が残っていないということか?
グドンはかまわず蟻の大群のほうへ歩み出した。
同時に、彼の体が炎で燃え上がる。
海岸で練習していた仙族の能力だ。しかし今は、その力が何倍にも高まって、グドンの体を何重にも包み込んでいた。
そのままの姿で大群の中へ進みでると、炎に包まれた周辺の大蟻が爆発するように燃え上がった。
彼らにはまったく抵抗する力がなく、ただ苦痛に蠢いて、金属を擦り合わせたような断末魔の叫びをあげている。
グドンはさらに腔妖術を使った。
彼が大群を指さして何か念じると、まさに大波で洗われるように一帯の蟻たちが次々と倒れていく。
その数は前回の数倍、いや十数倍にも及んだ。
グドンは、今の自分の能力を正確に把握できていた。唯一の懸念は、能力を使い果たし精根尽きてしまうことだった。こんなところで意識を失えばとんでもないことになる。
だが、今はまだまだ余裕があった。
大蟻の大群に被害が広がるにしたがって、周囲の空間が益々不安定になるのがわかった。
幻覚をつくり出している何かは最早、現状を維持できない様子だ。
振り向くと、洞窟の中の薬草はきれいさっぱりその姿を消していた。現在はまた、ガランとして何もない剥き出しの岩肌に戻っている。
グドンは計画どおり、次の段階に進むことにした。
再び蟻の大群のほうへ向き直ると、その場に座り胡坐をかいて目を閉じる。
それをグドンの敗北と受け取ったのか、力を得た様子の蟻たちが一斉にグドンのほうへと押し寄せてくる。
グドンはそれにはかまわず、脳裏に大海を思い浮かべた。
どこまでも続く青い海原…。
ときおり、あちらこちらに白い波がしらがあがる以外、見えるものは何もない。ただ海面がゆっくり上下動を繰り返すのみだ。眺めていると、そこにはとてつもないエネルギーが秘められているとわかる。この星そのものが持つ強大な力…。
グドンが目を開くと、遠くから大波が押し寄せてくるのが見えた。
海岸で見た高さ四五メートルの波とは比較にならない、巨大な大津波だ。
その大波が辺り一帯を埋め尽くした蟻の大群を少しずつのみ込んでいく。
このままなら、蟻の大群だけでなく、グドンのいる洞窟の前の全て、いや、丘陵地全体をのみ込んでしまいそうな勢いだ。
しかし、グドンはいっさい怖気づく様子を見せず、水平線の彼方に目を凝らす。
さらに大きな波が突如発生し、グドンたちのほうへ向かって迫ろうとする。
それはまだ何キロも先にあるはずだった。それなのに、大波のせいで丘陵地全体に陰りができ、辺り一帯が夕暮れ時のように徐々に薄暗くなっていく。
蟻たちはまるで自分の意思があるように背後を振り返る。
それから、驚嘆と恐怖でパニックに陥った兵士のごとく、隊列を乱し、散り散りになって逃げ惑い始めた。
空間が大きく揺らめいて、ついに耐えきれなくなった幻覚が徐々に端から消え始めた。
蟻の大群、大海原、打ち寄せる大波、そして、背後にあった洞窟までもが、何かに拭われたように少しずつ消えていく。
その光景に、こうした結果を作り出した張本人であるグドンでさえ、呆然と目を見開いた。
正直いってグドンは、洞窟まで消え去るとは思っていなかった。洞窟は幻覚ではなく実体があると感じていたのだ。だが、そうではなかった。
しばらくして気づくと、グドンは何もない岩肌が露出しているだけの広大な空間にポツンと取り残されていた。
それまで彼がいた、いや、いると思っていた薬草地ではなく、広大で何もない平らな空き地と表現するのが相応しい場所に。
周りを見回すと、別れた二人の使役者が少し離れた地面に倒れているのが目に入った。
どちらも意識がなく、まるでもう死んでいるように見える。
その額に、掌ほどの大きさの何かが乗っていた。
よく見ると、それは巨大な蟻だった。蟻は頭部の触手を小刻みに蠢かせ、まるで人の脳と意思の疎通を図っているように見える。
倒れている二人はどちらも体に異常はなかったが、頭部だけ養分を吸い取られ、痩せこけて干からびていた。
奴らがほしがっていたのは人族の脳だったようだ、とグドンは感じた。
グドンは慌てることなく体を起こし、自分の体とその周辺を確認した。
彼の体のすぐ傍にも、使役者の額にいるのと同じ蟻が腹を見せて転がっていた。
確かめるまでもなく死んでいるのが分かる。
この生き物がグドンたちの幻覚を作り出していたのだろうか?
そうではないだろう、とグドンは思った。
きっと、こいつらは陰で糸を引いている奴の手下か、道具に過ぎない。
親玉の作り出していた幻覚がグドンの幻覚に打ち破られたことで、この哀れな大蟻は命を落とす羽目になったのだ。
細かい点はともかく、こうした結果はグドンの想像どおりだった。
薬草地は実体のないただの幻影にすぎない。
使役者たちは、分岐点を過ぎたあたりから意識を失い、幻覚を見させられていたのだ。
それが終了すると、薬草というお土産をもらい家へ帰されることになる。
グドンは、立ち上がり、意識のない使役者たちに歩み寄った。
彼らの傍らには背負っていた籠が置かれている。
中を覗き込むと、とんでもない数の小さな蟻が這い出してきて、どこへともなく逃げていく。
籠の中には二人が摘んだはずの薬草が残されていた。
きっとどこかに本物の薬草地があるのだろう、とグドンは想像した。
幻覚で見ていたのとは比較にならないだろうが、どこかに薬草を採取できる土地があって、そこで採取されたものが蟻たちによって運ばれてくる。
使役者が摘んだ薬草が運ばれてくるというより、予め準備された薬草が供与されるのだ。使役者たちはそれを自分たちが発見し採取したと錯覚して持ち帰る。
何のためにそんなことをするのか?
薬草という餌で、人族という餌をおびき寄せるためか?
それなら、なぜ、こんな面倒臭いことをするのだろう。手に入れたものをお土産までつけて帰す必要はないではないか?
恐らく、薬草にも限りがあるうえ、一度に消化できる餌の量が限られているからではないか、とグドンは推測した。
人族でも、半妖でも、消化できる食事の量には限度がある。いくら大量の食料があっても、一度に収穫すれば大半を腐らせてしまう。といって、放棄してしまうわけにもいかない。彼らは薬草で人をつなぎ留め、必要になった分だけを確保できる環境を維持したかった。そういうことだろう。
だが、そうしたリズムがここへ来て崩れ始めた。
目の前に倒れている使役者も今回は収穫される運命にあったようだ。
今は手あたり次第といったところか。
その理由は何か? グドンには想像がついていたが、蟻の巣の黒幕に会えば、その答えは自ずとはっきりするはずだった。
だが、今回はまだそのときではない、とグドンにはわかっていた。
黒幕に会うのは聖地へ乗り込んだときだ。今回はそのときのための予行演習に過ぎない。
ただ問題は、今回、グドンに秘密の一端を暴かれたことで、彼らが攻撃的になる可能性があることだった。
果たして、この七号薬草地から地上へ戻れるかどうかも、グドンには自信がなかった。すべては相手の出方次第。そして、相手とグドンの能力の高低次第といったところか。
グドンは使役者の額に取り付いていた巨大蟻を足で蹴り飛ばした。
蟻はつぶれて木っ端微塵に吹き飛んだが、使役者はそれでも意識を取り戻さなかった。
逆に巨大蟻が体を離れたことで、それまで生命を保っていた細い糸がぷつりと切れたように、どちらも静かに息絶えた。
巨大蟻は、幻覚を見せると同時に、彼らの脳を吸い取っていたのだろう。
餌が息絶えるのを待ち、蟻は親玉のところへ戻って、採取した栄養を差し出す。
グドンは改めて自分の体を隅々まで点検したが、どこにも異状はなかった。何かを吸い取られた形跡もない。半妖のグドンから養分を吸い取る力は、彼らにはなかったようだ。
空間の一端に通路へ繋がる入口が見えた。
グドンは躊躇することなく、歩いて行って、その入口をくぐった。
意外にも、そこからは平たんな道がまっすぐ続いていた。
飛び石もなければ、奈落の底に続く落とし穴もない。
これは何かの罠だろうか? それとも、グドンの幻覚能力に敗れたことで、彼に危害を加えることをやめたのか?
理由は何でもかまわなかった。
グドンはさらに進んだが、出口に近づいても、もう空間が揺れることはなかった。
ここにはもう幻覚も別の世界も存在しない。
何の抵抗も受けることなく、彼は分岐点から外へ出た。
そこには、何人かの使役者が地面に腰を下ろし、固唾をのんでグドンたちの帰りを待っていた。
入口からグドンの姿が現れると、驚きとも溜息ともつかない声が、彼らから上がった。
「ほかの者たちは?」
最初に口を開いたのは、飛び石の前で引き返した男だった。
グドンが首を振ると、男は大きく息をついて視線を落とした。
その表情には、自分が九死に一生を得たという喜びも、死んだ仲間を揶揄する嘲りも見られない。あるのは苦渋に満ちた悲しみの表情だけだ。
背後を振り返ると、四か所あった入口のうち、今グドンが出てきた入口以外の三つは跡形もなく消失していた。
もうここには七号薬草地も分岐点たるべき幻も存在しない。
これは何を意味するのか?
陰で糸を引いていた者の力が弱まったのだろうか? それならいいが、とグドンは心の底から思った。
彼には最初からこの島を救う気などなかった。
ただ、使役者たちが意味もなく死んでいくのを止めたい、それだけだった。そのためには、陰にいるのが何者なのかを暴きだす必要がある。でなければ、アサホやトクサワが逃げ出しても、島の幹部が代わるだけで、また同じことが繰り返される恐れがあった。
そうした恐れの芽を根から断ち切ること、それがグドンの最終目標だった。




