84 グドンが死んだ世界
ホウカとリンタロウが目を醒ましたとき、二人は見知らぬどこかの建物に横たわっていた。
古い古い木造の家屋、平たくいえばあばら家の一軒だ。
室内には粗末な家具が必要最低限という感じで置かれている。
建物の隙間から外気が入り込んでくるのか肌寒い。いや、外気どころか、壁の隙間から日の光が洩れてくるのが見える。
まるで貧乏な家庭を絵に描いたような光景だった。
だが、肝心なのはそこではなかった。
二人を、とりわけホウカは驚かせたのは、自分がリンタロウと同じ一組の煎餅布団で眠っていたことだ。しかも、リンタロウの手は今も、はだけたホウカの胸元に差し込まれたまま、そこにある豊かな膨らみを握っている。
二人は反射的に体を起こし、慌てて相手からの距離をとろうと後ずさった。
ホウカの胸にはまだリンタロウの手の感触が残っている。それはリンタロウのほうも同じだった。
「あなた、わたしに何をしたの!」
ホウカは激しく相手を罵ろうとしたが、実際に口から出た言葉は、
「好きな女性にはもう少し優しくできないの?」
だった。
しかも、甘ったるい、心を許した相手に対し媚びを見せるときの女の声だ。
リンタロウは何か言い訳しようとしたが、
「ゆうべはきみから求めてきたんじゃないか。あんなに激しく迫っておいて、今さら…」
と、自分でも信じられない台詞が口をついて出た。
二人は何かおかしいと感じた。
おかしいのはわかったが、どこがどうおかしいのかはわからない。
無理に表現すると、心にも体にも、もう一人別の誰かが同居している感じだ。
耐えきれないほどの羞恥心を感じながら、そのいっぽうで、どちらも、もう一度相手を抱きしめ、抱きしめられ、唇を合わせたい衝動を抑えられない。
二人はうずくような頭の痛みを感じた。
まるで抱き合いたいと願う気持ちに抗うと、それだけ痛みが激しくなる感じだった。
「今日一日くらい、仕事を休んでも大丈夫でしょ?」
自らの欲求に負けたように、ホウカはリンタロウににじり寄って火照った体を彼の胸に預けた。すると不思議なことに、頭の痛みがふっと消え、心も体も楽になった。
それは蕩けるような心地よさだった。
リンタロウは彼女を抱く腕に力を込め、そのうなじに唇をつけ、同時に体臭を吸い込んだ。
「きみが心の奥底ではまだ、グドンを愛しているのはわかってる。でも、あいつはもう死んだんだ。おまえを心から愛せる男はもうおれ以外にいない」
「いわないで。グドンなんてもうとうに忘れたわ」
グドンが死んでもう三年…。
初めの二年はホウカにとって地獄のように孤独な日々だった。その苦しみからやっと少しずつ解放され、半年前、自分を見守ってくれたリンタロウと夫婦になった。
今はリンタロウに抱かれているときが一番幸せ…なのだろうか?
ほんの一瞬、ホウカの脳裏を言葉にできない不安と疑念がかすめた。
これは本当にわたしの記憶だろうか?
それ以前に、わたしはいったい誰だろう?
ホウカ?
いや、そんな名前ではなかった気がする。それなら、誰?
だが、リンタロウを求める体の疼きにはもう抗えなかった。
二人は耐えきれなくなったように唇を重ね、気付いたときにはどちらも裸になっていた。
目の前にあるのは欲望だけだった。
必死で互いをまさぐり、さらに深い快楽を求め溺れていく。
どこまでも、どこまでも…。
乱れた布団の中で、ホウカは玄関の扉が閉まる音を聞いた。
リンタロウが仕事に出ていったのだ。
足音が完全に遠ざかるのを待って、彼女は起き上がり、床に無造作に脱ぎ捨てられていた着物をかき集めると、一つひとつ身に着け始めた。
しばらくして冷静な自分に戻ると、頭の疼きが戻ってきた。
これは本当の自分の姿ではない。
心の奥でそんな心の声が聞こえた気がした。
リンタロウがいなくなっても、彼女の体のほてりは完全に収まっていない。それでも、後悔とも自責の念ともつかないものが心の奥底からこみ上げてくる。
落ち着いて一から考えようとしたが無理だった。
気が付くと、瞼から涙が溢れていた。堪えてもこらえても、止めどもなく、涙が頬を伝って流れ落ちてくる。
なぜ泣いているのか、自分でもよくわからなかった。
やがて、涙は嗚咽を誘い、しゃくりあげるような泣き声へ変わると、最後にはそれが号泣になった。
悲しみよりも、抑えきれない憤りがあった。
これは本当の自分ではない。まるで誰かに操られているよう…。
そう思ったとたん、頭にまた割れるように痛みが走った。
ホウカは激しく頭を振ると、何かを吹っ切るように勢いよく立ち上がり、土間へ下りて、桶にくまれていた水に顔をつけた。
しばらくずっとそのまま怒りが治まるのを待つ。
息が苦しくなって仕方なく顔を上げると、掌で顔を何度もごしごし擦った。
やっと頭痛が治まりかけたとき、玄関をノックする音がして、
「お姉さん、まだいる?」
と若い女性の声がした。
ホウカは胸を大きく上下させ、タオルで顔を拭うと造り笑顔を浮かべた。
扉を開けると、そこに知らない娘が立っていた。
いや、わたしはこの子を知っている。でも、誰だろう…?
娘がはにかむように笑うと、蘇った記憶にホウカはあっとなった。
この子はリンタロウの妹のコンだ。
すぐ見分けがつかなかったのは、目の前のコンがもう二十歳近くの大人になっていたからだ。
見るからに仕立てのよさそうな服を着て、どこかのお嬢様然とした姿でホウカに笑顔を向けている。
正確にいえば、コンはもうお嬢様ではない。大店の薬問屋へ嫁入りし、半年ほど前に男の子を産んだばかりの婦人だ。
リンタロウとホウカがこんなボロ屋に住んでいるのは、援助しようというコンの申し出を断わり、リンタロウが自立した生活を望んでいるためだ。
ホウカはそういったことを思い出し、やっと本物の笑顔になると、コンを中へ招き入れた。
「お姉さんは、これからお仕事?」
コンの言葉を背後に聞きながら、ホウカは慌てて奥の部屋へ上がると、布団をたたんで、押し入れに仕舞い込んだ。
それが終わると、何気ない素振りで三面鏡を覗き込む。
鏡に映った自分はもう二十代半ばの成熟した女性になっていた。
「本当なら、ずっと早くに出かけていないといけないんだけど。何だか寝坊しちゃって。でも、そのお陰で、コンちゃんに無駄足させずにすんだわね」
何とか誤魔化せたかしらと、座布団を出して、コンに座るよう勧める。
コンはなぜか、わけ知り顔に小さく笑い、
「兄さんとホウカ姉さんが仲良さそうでよかった。うらやましいくらい」
とたんに、ホウカの顔が赤く火照った。
コンはもうこどもではない。何もかもお見通しなのだ。それはそうだろう。満足げに艶々した顔で、寝乱れたままだった布団を慌てて押し入れに仕舞い込んだのだ。これで、つい先刻まで何が行われていたのか気付かなければ馬鹿だ。
「今日はどうしたの? 仕事が休みの日に来れば、リンタロウさんと三人でゆっくりお話ができたのに」
何とか気持ちを落ち着かせ、ホウカは話題を切り替えた。
「言い難いけど、また例のお願いなの」
部屋に上がって正座したコンは、申し訳なさそうに口を窄め話を切り出した。
「お店のほうへまた面倒な客が現れるようになったのよ。もちろん、前回の口とはまた全然別の話なんだけど。お姉さんの力で、というか、お仲間の力で、何とか仲裁してもらえないかしらと思って」
コンが言うお願いの意味がわかって、ホウカは優しく頷いた。
商売をしていると、何かと難癖をつけて金をたかろうとする輩が現れる。薬屋であれば、買った薬で腹を下したとか、熱が出て何日か寝込んだとか。それくらいならまだよいが、中には薬のせいで死人が出たと訴える者さえいる。
大概は少額の金を包めば満足していなくなるが、中には長期的に利益を貪ろうと執拗につき纏う集団も出没した。彼らは店の商売そのものに口を出し、見ヶ〆料をせしめようとする。しかも、いったんたかりに成功すれば二度と退くことはない。
ホウカは今、そうしたもめ事を仲裁、解決する集団に関わっていた。さらに、その「互助組」には、もう一つ別の顔があり、彼女はその組織の主要構成員だった。
「わかったわ。お姉さんに任せて」
詳しい事情や相手の素性を聞くことなく、ホウカはあっさり請け負った。
互助組がその気になれば、相手がどこの誰で、どれほどの力を持つ者たちか、調べるのはわけもなかった。
「でも、大店の若奥様も大変ね。こんな雑用までやらされて」
とホウカが言う。
「わたしは、ホウカ姉さんと違って何の能力もないもの。うちの人の役に立つのはこれくらいなの」
うちの人といったときのコンの表情は喜びに満ちていた。誰かの女であることに誇りを持ち、満足しきっている様子だ。
もしグドンがまだ生きていて、あの人と一緒だったら、わたしも…。
ふと心に湧いたそんな思いを、ホウカは慌てて打ち消した。
リンタロウの妹であるコンの目の前で、別の男のことを考えるなんて不謹慎にもほどがある。
ホウカは作り笑いを浮かべ、立ち上がると、
「途中まで送るわ。これ以上仕事に遅れると、わたしも大目玉をくらいそうだから。もめ事の件は心配しないで。すぐに解決できると思うから」
家を出て、コンを自宅近くまで送り届けると、そこから大通りを抜けて喧騒から外れ、さらに裏通りの入り組んだ路地を勝手知ったる顔で進んで、大工と乗れの下がった長屋の一軒の前で立ち止まった。




