83 修練3
グドンが目を覚ましたとき、辺りはまだ明るかった。
太陽の位置を見る限り、夕暮れが迫る時間帯のようだ。
前回、気を失ったときと比べれば、目を醒ますまでの時間が短縮されている。これを進歩として喜んでい良いのかどうか、グドンは複雑な思いだった。だが、今回も体や心に何ら異状がないところを見ると、たとえ進歩がないとしても、これでよしとするべきだろうと彼は感じた。
元々グドンが辺鄙な海岸を選んだこともあり、昼間といえども、周囲に人影はなかった。二日続けて倒れていたにもかかわらず、誰にも発見されなかったことを考えると、ここへは滅多に人がやってこないとみてよいだろう。
やはりひどく腹が減っていた。
宿舎へ戻るかどうか一瞬迷ったが、修練の意味も含め、もう一度魚を捕る練習をすることにした。
食料を手に入れることが目的ではなく、自分の能力を制御する力をつけることが目的だった。
何よりも、津波を起こさないのが大事だ。
心の中で、そう自戒の言葉を繰り返しながら波間に目を凝らすと、水中を泳ぐ魚の群れが鮮明に見えた。
能力を一点に集中させるようにして、魚を引き寄せる。
次の瞬間、魚の体が風船のように弾け、血煙となって辺りの海水に広がった。
「あ!」
驚きの声を上げると同時に、グドンの体に悪寒が走った。
能力のすべてを魚一匹に集中させたために、魚の肉体が強い力に耐えきれず弾け飛んだのだ。もし能力の対象が魚ではなく、人族や半妖だったらと思うと、まさに背筋の凍る思いだった。
グドンは自分の力を極限まで制御しながら、魚を捕獲する練習を繰り返した。
五回、十回、五十回…。
極めて残酷な行為であったし、海が魚の血で濁ってしまうのではないか、と心配になるくらい失敗したが、グドンは、次第に能力を制御するコツをつかんだ。
これは、妖獣を制御する能力にも使えるはずだ。修練を繰り返すうち、グドンはそのことに考えが及んだ。力を一点に集中し、その力を極限まで制御することは両者ともまったく同じはずだった。
となると…。
このとき、グドンは別のことに思いあたりぞっとなった。
妖腔術を使う際、力の向かう範囲が広がりすぎていたのは、むしろ幸運だったのかもしれない。範囲が広がったために、一人ひとり、一匹一匹にかかる力が弱まった。仮に力が一点に集中していたら、彼らの体は弾け飛んでいただろう。
グドンは出てもいない額の汗をそっと拭った。
完全な状態の魚を数匹捕獲するには時間を要した。やっとそれに成功すると、次は同じやり方で魚を制御する術を試行錯誤した。
初めは大群そのものが意識を失い海面に浮かび上がったが、次第に意識を失う魚の数が減り、最後には意識を失わせないまま、思い通りに魚を操ることができるようになった。
グドンは結果に満足し、修練を終えると、捕った魚を熾した炎で炙って食べた。
今回の修練ではわかったことがもう一つあった。
脳海で修練を繰り返すことに比べ、現実の世界で能力を使うことは、疲労の程度が少なくてすむということだ。
とりわけ精神的な疲労に関しては何十分の一というレベルに思えた。
これは現実での施術が疲労を伴わないというより、脳海での修練にはいかに多くのエネルギーが必要で、精神的疲労を伴うかを示している気がした。
グドンは食事を終えると宿舎へ戻り自分の寝台で眠った。
その夜、蟻巣島近くの上空を二つの影が滑空していた。
影はどちらも中年の男性の姿をしていたが、人族ではなく半妖でもなかった。
「蟻巣島の島主は、若くはないが、かなりの美形というじゃないか?」
背が高く痩せた男が下卑た笑い声をあげると、背の低い太ったほうが、
「これは仕事なんだ。それを忘れるな」
と尖った声を出した。
「はは。本当はおまえも関心があるんだろう? あっちのほうも約束の報酬に含まれていると脅せば、嫌とは言わないはずだ。元々、お盛んなタイプらしいしな」
太っちょが溜息をついたとき、突如、彼らの前方にもう一つの影が現れた。
「ん? 何だ、あれは?」
のっぽが言って目を眇める。
太っちょは緊張するでもなく、いつもの癖で持っていた得物に手を伸ばした。
どんな場合も警戒を怠らない。それが彼のモットーだ。
今回の殺しの対象か? それにしては体が小さすぎる気がするが…。
「ぐうっ…」
次の瞬間、太っちょは何か奇妙な音を聞いた気がして、音のほうを振り向いた。
何の音だろう? 確か隣りの相棒のほうから…。
「あ!」
太っちょは、そこで見たものにギョッと目をひん剥いた。
確かに音は隣りの、のっぽの口から出ていた。だがそれは声ではなかった。口から漏れ出す大量の黒い液体だ…。
「お、おまえ…!」
救いの手を伸ばそうとしたが、そのとき、相手の下半身がすでにないことに気づいた。
太っちょの背筋が凍り付く。
前方にいたあの影だ! あいつがやったに違いない。
見ると、影は素知らぬ様子で彼を見返している。
再度、のっぽへ目を戻すと、のっぽは、いや、のっぽの上半身はゆっくり下方の海面へ向け落ちていく。
もう息がないのは明らかだった。
相手がいつ、どうやってのっぽの下半身を破壊したのかわからなかった。
しかも、辺りにはその残骸さえない。
太っちょは顔を前へ戻し、手にしていた得物を投げ捨てた。
「待ってくれ、これは何かの誤解だ!」
と叫ぼうとする。
だが、最後まで言い切ることはできなかった。
次の刹那、のっぽの体から頭部が消えていた。
一滴の血も流れず、何の音もたてず…。
それを確認して、前方の影は小さく笑ったように見えた。
残念ながら、今の太っちょにはもうその様子を見ることはできなかったが…。
グドンは夜中になるのを待って再び海岸へと出向いた。
今夜の修練は、グドンが一番重視し、結果を最も期待しているものだった。
それが具体的に何なのか、実は彼にもわかっていなかった。
七号の薬草地で感じた、ある力を、自分でも再現できるか試してみようと思ったのだ。うまくいかない可能性が高かったし、成功しても役に立つ能力かどうか不明だった。だが、仮に失敗しても失うものはないはずだった。
グドンは浜辺に腰を下ろして胡坐をかくと、いつも通り瞑想状態に入り、己の脳海に意識を集中した。
今夜も、ホウカとリンタロウがそんなグドンの様子を遠くから見守っていた。
グドンが砂浜で瞑想を始めたとき、リンタロウがうんざりしたように溜息をついた。
「退屈なら、宿舎へもどってもいいのよ」
ホウカが皮肉を込めた視線を向ける。
リンタロウは慌てて顔を取り繕い、
「とんでもない。グドンは妹の命の恩人だ。彼が何に取り組んでいるにせよ、おれとしては、最後まで見守る義務がある」
真面目腐ったリンタロウの顔に、ホウカはぷっと小さく笑った。
「どうせ、興味半分でしょ? わたしだってそうだもの。今夜の彼はどんな能力を試そうとしているのか、見学しない手はないわ。すべて無料で入場料がいるわけでもないし」
「本心をいえば、入場料を払ってもいいくらいだよ」
二人が声を立てず笑ったとき、異変が起きた。
何やら二人の耳元で、ブーンという羽音のようなものが聞こえた。
周囲の空間が不安定になり、二人の周りで白い光の帯のようなものが揺らめき始める。
とたんに、二人は体のバランスを失い、それを何とか堪えようと互いに相手のほうへ手を伸ばした。
その刹那、何かが弾ける音がした。
二人は抱き合うようにその場に崩れ落ちた。
意識を失う寸前、またグドンの腔妖術にかかってしまった、と二人は当然のように考えた。だが、それは間違っていた。二人は腔妖術にかかったわけではなかった。




