81 修練
部屋へ戻ったグドンは、服を着たまま寝台に上がって横になると目を閉じた。
眠りはなかなかやってこなかったが、それでも呼吸音に耳を澄ませていると、知らないうちに闇に落ちた。気付いたときはもう真夜中になっていた。
辺りは物音ひとつ聞こえず、波の音さえ聞こえない。どうかすると、ここが島であることさえ忘れてしまいそうだった。
グドンは、できる限り物音を立てぬよう用心しながら宿舎を抜け出した。
ひと気のなくなった町なかを抜け、足早に砂浜が続く海岸へと向かう。
島の夜は真っ暗だった。漆黒と表現してもよい。ほんの少し人家を離れ、森の中へ足を踏み入れると、自分のかざした腕さえ見えなくなる暗さだった。
だが、そんな中でも、グドンだけは何かに躓いて倒れることもなかった。もちろん、夜目の能力のお陰だ。漆黒の闇の中でも、昼間同然にはっきりとものが識別できる。ものの形が朧げにわかるというレベルではなく、色さえ正確に判別できた。昼間、白く見えるものは白、灰色なら灰色、緑は緑というように。
海岸に出た彼は、波打ち際をさらに町から遠ざかるほうへどんどん進み、仮に銅鑼を叩いても島民には聞こえないと思えるところまでくると、そこでようやく足をとめ胡坐をかいて座った。
目を閉じ、心を落ち着けて呼吸を整える。
グドンには、この機会に修練しておきたい能力があった。
空を飛ぶ能力、火炎を使う能力、妖獣を制御する能力、そして、自分でもその内容を正確には把握できていない新たな能力…。
グドンはまず、空を飛ぶ能力から始めることにした。
といって、実際すぐに体を浮かせようとしたのではない。頭の中で飛翔する自分の姿を思い描いたのだ。薬草地で初めて宙に飛び上がったとき、まず頭でボウの姿を思い描いた。そのことから考案した方法だった。
脳裏(グドンはそこを脳海とか識海と呼ぶべきだと知っていた)に、飛ぶ自分をしっかり描写できたとき、実際に浮かび上がるより早く、その能力を自分のものとすることが出来る、と彼にはわかっていた。簡単にいえば、脳海で起こったことがそのまま現実となる、それが自分の能力だ、と。
脳海に描いた力の形が曖昧なら、発揮される能力もそれなりだ。だから、今は可能な限り想像をたくましくして、空を飛ぶ自分を思い描く必要があった。
初めはふわりと宙に浮くことから始め、次第に浮き上がる高度を高くした。十メートル、五十メートル、百メートル…。
やがて、グドンの視界の中で、蟻巣島が豆粒ほどの大きさに小さくなった。
もし、この時の光景をボウたち仙族が見たら、何を思ったろうか?
これはグドンが自分たちから学んだ能力だと信じたろうか? 地上から十メートル浮き上がるのが精いっぱいの彼らの力は、グドンの能力とはまったく別物だ、と思ったろうか? 自分たちも努力すれば、同じように飛び上がれると闘争心にかられたろうか?
さらに高度を上げると、さすがにグドンの心にも恐怖心が湧き上がった。突如、自分が能力を失い落下する姿を想像すると思わず体が竦む。
だが、そうした怖気も僅かの内に消え去った。
それは習慣の力といってよいかもしれない。慣れることで、彼にとっては地上一メートルも、千メートルも同じになった。
さらに高度を上げると、島の上空にいるという感覚そのものが薄れ始めた。
グドンは一万メートルを超えたところで上昇をやめ、その場に停止することなく、すぐに下降を開始する。
とたんに、恐ろしい風圧が彼を襲った。
顔の形が変形し、呼吸するのが難しくなる。両腕を脇につけ、頭から下降しないと、風圧で腕が捥げそうだった。
下降の速度はみるみる上がり、一時、顔の周囲が真空になる。
グドンはこのとき完全に窒息した状態だった。
それでも、そのことを心配する間もなく体の機能が正常に戻っていく。
彼は、いつの間にか体全体が何かの膜で覆われているのに気づいた。それはグドンが意識的にやったことではなく、何かが自然に促した結果だった。今は体への負荷も、呼吸しづらさも、速度そのものさえ感じない。
だが、グドンの実感とは裏腹に、実際はどんどん速度が上がっていき、やがては音速を超えるまでになった。
下降するにつれ、白い雲のようなものが湧き上がり、彼の頭部から下方へとどんどん流れていく。
何かを感じて、グドンが下降を停止したときは、地上から三メートルも離れていなかった。
それでも、恐怖心はまったく湧かず、これが当然の結果だという気さえした。
彼は再び上昇を始めた。前回よりも二倍三倍速い速度で。
そして、再び下降する。
彼はそれを何十回と繰り返した。
脳海で想像するのをやめたとき、現実世界でもまったく同じことができる、とグドンには確信できていた。
実際、次の瞬間、グドンは砂浜から飛び上がった。あっという間に、地上五千メートルに達し、下降を始めると、上昇したとき以上の速度で地上に到達した。
次は水平飛行の訓練しよう。
そう考えたとき、東の空がすでに明るくなり始めていることに気づいた。
脳海での仮想訓練は思う以上に時間を費やすらしい。今日はこれくらいでお終いにして、次はまた明日にしよう。いや、正確にいえば今夜か…。
いったん宿舎に戻ることを決めたグドンは、下半身や手についた砂を払いつつ、立ち上がろうと跪いた。
ところが、不覚にも体のバランスを崩し、気づいたときには、無様に顔から砂浜に倒れこんでいた。
倒れたはずみに砂が口に入ったらしく、唾を吐いたがジャリジャリしている。
改めて立とうとしたが無理だった。
こんなことになるとは、グドンも想像さえしていなかった。
脳海内で能力を高める修練をすることは、これほど精神的、肉体的疲労を伴うものなのか?
しかも、次第に楽になるどころか、今は脳や体に痺れさえ感じ始めている。
まずい、と思ったときにはもう手遅れだった。
彼は少しずつ意識が遠ざかるのを感じ、やがて完全な闇に閉ざされた。
次に目を醒ましたときは、また夜になっていた。
倒れたときは早朝だったから、二日以上倒れていたのでなければ、十数時間眠っていたことになる。
信じられないことに、グドンは元の砂浜に倒れたままだった。つまり、一日中誰も探しに来ず、放置されていたわけだ。
ホウカやリンタロウはおいらを探そうとしなかったのだろうか?
思わず彼らの薄情さを愚痴りたい心境になった。
自分の身を案じてくれる友人は一人もいないのか?
たとえ親友や恋人とまではいかなくとも、昼の間、まったく顔を見せない仲間を心配もせず、放ったらかしにするのは、ひどすぎはしないだろうか?
グドンは上半身を起こし深く嘆息した。
次から能力を高める修練をするときは、精神や肉体に与える影響を予め考慮する必要がある、と痛感した。でないと、再び同じことが起こるだろう。
ここに彼の命を狙うような敵はいないが、仮に襲われる危険性のある状況で同じ間違いを起こせば、即、命取りにもなりかねない。
立ち上がれるか心配だったが、修練の際の疲労はすっかり抜けていた。問題なく立ち上がることができ、ふらつくこともない。精神的にも充実していた。
ただとんでもなく腹が減っていた。
ふと目を向けた海岸沿いの浅瀬で、魚が一匹水面を元気にとび跳ねるのが見えた。
この辺りの浅瀬には、ほかにも魚がいっぱいいそうな気がした。
そう思ったグドンは目を閉じ、仙族の能力から一つを選んで脳海に思い描いた。
仙族の指導者マキが、タグの体を引き寄せたときに使ったあの能力だ。まるで掌に強力な吸引力が生じたように物体を引き寄せることができる。
冗談半分だったから、脳海で思い描くことはせず、実際の世界で直接行動に移した。
目を閉じたまま、右手を海に向かって差し出すと、かざした掌で海中の魚を鷲づかみにする姿を想像してから、自分の体のほうへ引き寄せる。
バシャ!
水の弾ける音がして、目を開けると、三十センチほどもある魚が自分のほうへ向かって宙を飛んでくるのが見えた。
自分でやったことだったが、その結果にグドンは魂げ、慌ててその場から逃げ出そうとする。
魚は弧を描いて飛来しそのまま砂浜に空中から落下すると、正確にグドンが元いた場所で跳ねた。
だが、真の災難はそのあとにやってきた。
まず、グォーという轟音が聞こえた。続いて、グドンの頬に一滴二滴と水滴が落ちた。
何だろう、と疑問に思う間もなく、水平線の向こうから、何かが迫ってくるのが見えた。
津波だ!とわかったときにはもう手遅れだった。
津波の高さは四五メートルほどだったが、信じられない勢いで彼との距離を縮めてくる。
走って逃げるのはもう不可能だった。
先ほどと逆の方法で、津波をはね返そうかとも思ったたが、一度も使ったことのない能力を試してみる暇も心の余裕もなかった。
グドンが迷ううちに、津波は一気に彼の体をのみ込んだ。
それでも、体が波の衝撃を感じたとき、無意識に上空へ跳び上がろうとした。波の威力に必死で抗い、後ろへ流されそうになるのを何とか堪え、前のめりに上昇しようとする。
水圧で地面に叩きつけられそうになったが、それでも、のけ反るような姿勢で、グドンは何とか水面から後方へと飛び出すことに成功した。
そのまま、上空十メートルほどまで上昇する。
下を見ると、辺りの海岸線が津波に洗われ、堤の先に生えていた樹木の一部は根こそぎ倒され、一部は引く波で海のほうへと摺られていく。
とはいえ、グドンのいた場所が民家から遠く離れていたことが幸いした。
波が引いたとき、津波の最終到達点から町までは、まだかなりの距離があった。
波は、襲来したときと同じように突然消え去り、周囲は以前と同じ静寂に包まれた。地震が起きたときのように第二波、三波が襲うこともなかった。
しばらくじっと町の動静を窺ったが、津波の轟音のせいで島民が集まってくることもなさそうだ。
ホッとため息をつくと、彼は空中から地上へ下りた。
砂浜を見渡すと、大量の海藻に混じり、波に取り残された魚数十匹が地面で苦しそうに跳ねている。
何やらとんでもない過ちを仕出かした気がして、グドンは自責の念にかられた。出来れば魚を海に帰してやりたかったが、あまりに数が多すぎた。
もちろん、食欲などとうに失せている。
グドンは短く合掌すると、逃げるようにその場から退散した。




