75 彼らの目的
グドンが空を飛んだ!
ホウカは驚愕の思いを抑えることが出来なかった。
彼はいつこんな力を手に入れたの…?
グドンは前傾姿勢になると、ゆっくりと前方へ滑空を始め、あっという間に洞窟の上を飛び越えていく。
蟻の大群は、突然、敵が視界から消えたことで混乱狼狽し、無制御にあたりを徘徊し始めた。
犬の妖獣が再び足をトンと地面に打ち付けると、正気を取り戻し陣形を立て直したが、その場に整列したまま動かなくなった。
グドンは上空から彼らの動きを注視する。
妖獣や妖虫から一定の距離を保てば彼らは追ってこなくなる、そういったリンタロウの言葉を今は信じるしかなかった。
これだけの大群をグドン一人で対処するのは難しい。さらに、小犬の妖獣という不確定要素も不気味だった。この妖獣には、グドンの術がまったくきかないように見える。それだけ妖獣の能力が高いということか、それとも何かほかに理由があるのか。とにかく、今のグドンには太刀打ちできそうになかった。
蟻の大群の上空を過ぎ、さらに五十メートルほども行ったところで、グドンは飛翔を中止し、地面に降り立った。
その先には、もう蟻の姿は見えず周りを囲まれてもいない。
いっぽう妖獣や蟻の大群は動かない。じっと三人の動向を見つめている。誰かの指示を待っているのかもしれなかった。
グドンは、ホウカとリンタロウから手を放した。リンタロウはまだ足元がふらついていたが、それでも何とか自分の足で立った。
グドンと小犬はしばらく睨みあった。
さらにもう一歩前へ出るべきかもしれない、グドンはそう判断した。
右手を前に差し出し掌を上に向けたとき、その先に赤い炎が現れた。炎は少しずつ大きくなり、やがて彼の身長を超える大きさに成長した。色も赤から青、そして白へと変化していく。
傍にいたホウカはその熱気に思わずたじろいで後ずさりした。
グ、グドン…。いったい、あなたはどうなっているの?
今、彼女の目の奥にあるのは、驚きではなく畏怖だった。
この子は本当に化け物だ!
グドンはさらに炎を拡大し大蟻の大群に狙いを定める。
今度は、おいらの番だ!
グドンが、炎を蟻の大群に向け放とうとしたとき、それを感じとったのか、妖獣が先に動いた。
「ウォーン!」
微かに頭を持ち上げ、空を見上げると、甲高い声で啼いたのだ。
初めて妖獣が実際に発した声だった。
攻めてくる!
グドンは一瞬体を強張らせ、全面対決の覚悟をした。
しかし、次の瞬間、蟻の大群は足並みをそろえ百八十度体の向きをかえると、グドンたちの前から撤退を始めた。
まさか撤退するの? 今、この状況で…?
グドンが眉を顰める中、大蟻の群れは一歩一歩と遠ざかっていく。一歩進むたび、ザ、ザッと大音響がして、地面が揺れた。
妖獣も今一度グドンを睨みつけたあと、くるりとその身を回転させ、後を追うように駆け出した。進む先にいた蟻たちは、まるで海が二つに割れるように左右に移動し、妖獣の通り道をあける。
グドンたちの視界から妖獣の姿があっという間に消え去った。
肩を大きく上下させ、グドンが大きく息を吐いたとき、ホウカはまだ化け物を見たという目で彼を見つめていた。
グドンは燃え上がっていた炎を吹き消した。
「あなた、さっき空を飛んだ? 掌の上に炎を作って見せた?」
ホウカの声は、グドンに訊いているというより、自身が見たものを頭の中で反芻している感じだった。
「いつから、そんなことができるようになったの?」
「いつからというより、今回初めてやってみたんだ。自分でも自信がなかったけど、何とか形にはなったみたいだね。でも、これからもっと練習しないと駄目かも。まだまだ学習途中だよ」
彼女は呆れたように小さく首を振った。
いっぽう、リンタロウには、グドンの能力をうんぬんしている余裕はなかった。
二人から離れ、草むらにしゃがみこむと、胃の中のものをゲエゲエ戻し始める。
グドンとホウカは、見て見ぬ振りで彼の傍から離れた。
「友達でしょ? 介抱してあげればいいのに」
ホウカが皮肉ると、グドンも平然と、
「きみこそ、女の子でしょ? リンタロウはどっちに介抱してもらいたいと思う? それに、おいらなら、しばらく一人でそっとしておいてもらいたいよ」
ホウカには珍しく同意するように頷くと、
「洞窟に戻って薬草摘みを続ける?」
と訊いた。
「いや、もう戻るのは危険だと思う」
とグドンはきっぱり言い切った。
「偶然にしては、大群の現れたタイミングが絶妙すぎた気がする」
「どういうこと?」
「まるで、おいらたちが薬草摘みに没頭し始めたとたん現れたみたいだった。彼らの目的は薬草とりを中止させることにあったのかも。だから最後は、襲ってくることもなく黙って撤退していった。おいらたちを攻撃する気なら、簡単に殺すこともできたと思う」
想像もしなかったグドンの答えに、ホウカは驚いて目を丸くした。
彼らと一定の距離を保てば襲ってこない。それは元々、彼らを傷つける意思がないからではないのか? 使役者に薬草摘みを中止させる。その目的を達成できればそれでよかったのだ。
しかし、なぜ、そんなことをする? 薬草が枯渇してしまうのを防ぐため? 確かにそれもある気がした。資源がどれほど豊富でも、一度に根こそぎもっていかれては、薬草地はすぐに荒れ地と化してしまう。
だが、理由はそれだけではない気がした。もっと根本的な、別の理由がある気がする…。
グドンは襲撃が始まったころの様子を改めて想起した。蟻の大群は最初、三人を完全に包囲していた。いわばグドンたちは袋の鼠だった。仮に彼が空を飛べず、大群と距離をとれていなかったら、結果はどうなっていたろう? それでも、蟻の大群は彼らを見逃してくれただろうか?
グドンは尚もモヤモヤを頭から振り払うことができなかった。
自分の考えはどこか物事の核心からずれている気がした。
なぜだろう?
「あなたは、どうして、グドンなんて名前なの?」
突然、ホウカが真面目な口調で尋ねた。
「え?」
何の脈絡もなくホウカが訊いたので、グドンは一瞬、反応できずぼんやりしてしまった。
その無防備な姿に、ホウカは思わず笑い声をあげる。
「え、じゃないわよ。あなたのその名前、ずっと変だと思ってた。少なくともあなたは愚鈍とは程遠いもの」
「それは、おいらを褒めてくれてるの?」
喜ぶどころか、グドンは警戒する顔になってホウカを見返した。これも何かの皮肉だろうか?
それはともかく、自分の名前に関しては、彼自身も思うところがあった。
グドンという名は、路上生活をしていた際、先輩浮浪者がつけてくれた綽名だ。問題は、なぜそんな呼び名にしたかだが、それは言葉の通り、グドンが愚鈍で頭の悪いこどもだったからだ。
自分で振り返ってみても不思議だが、以前の自分は今よりずっと頭の回転が鈍く、何をするにも遅鈍な、気の利かないこどもだった気がする。周りの足手纏いになることも多く、何度も叩かれ泣かされた。
それがいつの間にか愚鈍ではなくなった。どちらかといえば聡明で、頭の回転も早く、口喧嘩をしても負けない少年になった。
それが成長というものだといわれればそれまでだ。幼少のころは不細工で揶揄いの対象だった女の子が、成長するにつれ魅力的な少女に変身するというのはままあることだ。
だがそのいっぽうで、三つ子の魂百までという言葉もある。人間、いや、半妖にしろ、その気質がそれほど大きく変化することがないのも事実だ。気質だけでなく、ひとの本質や能力にも同じことがいえるだろう。だから、己にどうしてこれほどの変化が起きたのか、彼自身不思議に思うことがあった。
とはいえ、いくら考えても答えは出ず、また、答えが出ないから困ることもなかった。聡明だったものが愚鈍になるなら困るが、その逆であれば、これが自分本来の姿だったと喜べばいいだけの話で、それ以上悩む必要はない。
「じゃ、これで、地上へ引き返すわけね?」
ホウカの言葉に、グドンは現実に引き戻された。
「うん」
気がつけば、グドンもリンタロウもまだ背中に籠を背負ったままだ。ここで作業を中止しても、収穫量は十分確保できているといってよい。それに元々、グドンの収穫はおまけのようなもので、島の人間も、彼やホウカには何も期待していないだろう。リンタロウ一人と考えれば、今回の収穫だけでも、大威張りで地上へ戻れるはずだった。
グドン自身、一度地上へ戻って、今回のことを整理したいと思っていた。
「今回地上へ戻ったら、周りはきっと大騒ぎだと思うよ」
いつの間にか、二人の傍へやってきていたリンタロウが、先ほどまでの惨状が嘘のように明るい顔で笑っている。
「大騒ぎ? 何が?」
グドンの疑問に、リンタロウはさらに笑みを大きくする。
「グドンは罠を回避することができるとわかったことさ。これからは、聖地へ行っても、一人の犠牲者も出さずに済む」
ホウカも納得して大きく頷いた。
「島主や島の幹部たちも、大喜びすること間違いなしね」
「そうならいいけど…」
グドンも謙遜しながら小さく笑った。
しかし、残念なことに、結果として彼らの思惑は大きく外れることになった。




