65 待ち伏せ
次の刹那、アサホは目が白濁し、薄く唇を開いたまま身動きできなくなった。
正確にいえば完全に意識がとんでいた。今の彼女は誰に何をされようとまったく抵抗できない無防備な状態に陥っていた。
しかし、グドンにそれを得意がる暇はなかった。自分の腔妖術にかかったのが、アサホ一人ではないと気づいたからだ。
同じ室内にいるすべての使用人はもちろん、リョクギダンやホウカまで目が白濁し、化石化したように意識を失っている。
まるで、この世に自分の意志で行動できるのは、今、グドン一人になってしまった感じだった。
しまった!
グドンはまさに腰が抜ける思いだった。人族であるアサホや使用人たちはともかく、半妖のホウカやリョクギダンまでグドンの術にかかるとは思っても見なかった。
これはどうしたことだろう?
これまで、こんなことは一度もなかった。普通に考えるなら、グドンの能力が大きく向上したと見るべきだろう。もしそうなら、今の彼であれば、仙族であるタグやコタンフの妖獣を制御することも可能かもしれない。
湖で気を失い夢を見た際に、また何か変化が起きたのかもしれない…。
グドンはそう思い至った。
前回、能力が覚醒したのも、セイイツの墓の前で虫に噛まれ気を失ったときだった。
グドンは慌ててアサホたちの術を解いた。
彼女に自分の力を示すにはもう十分な時間が経っていた。
意識を取り戻すと、アサホは仰向けに倒れそうになり、慌てて体を支えようと背後へ手をついた。
使用人の中にはその場に崩れ落ち、泣きだす者まで現れた。
見ると、女性の一人の周りには小さな水たまりができている。どうやら、余りの出来事に失禁してしまったようだ。
リョクギダンは腰を浮かしかけたまま、起きたことがまだ信じられずに呆然としている。
ホウカだけは、比較的冷静だったが、それでも右手の震えが止まらないらしく、左手でそれを必死に抑えようとしている。
「どのくらい意識を失っていたの?」
さすがに島主だけあり、一番最初に口を開いたのはアサホだった。
女性の本能なのか、自分の衣服に乱れがないか無意識に確認し、異常がないとわかると、ほっとした表情を見せた。
グドンは思わず失笑しそうになるのをやっと堪えた。
おいらがあなたに何をしたと思うの?
「一二時間かな。宿舎に戻って、用事を済ませてから戻ってきたから」
グドンがいうと、泣き出す女性の数がさらに増えた。
だが、意外なことに、中でも一番狼狽えていたのはホウカだった。先ほどの島主を真似るように、自分の体に異常がないか確認し、盃の酒に自分の顔を映して見つめている。
ホウカは、グドンのこうした能力を知らないはずだから、まだ少女という点を考慮すれば慌てても無理はない気がした。
「それはすべて冗談ね?」
やっと落ち着きを取り戻したアサホがグドンを睨んだ。
「二時間もたっていたら、もう辺りが暗くなっているはずだけど、外の景色はほとんど変化していない」
その場にいた者たちは皆、窓から見える空模様を確認し、ほっとしたように吐息をついた。
「だけど、これで、おいらの能力はわかったでしょ? 問題の原因を探して見せると断言はできないけど、自分を守るくらいできると思うよ」
アサホは考える目になった。
しばらくして視線を上げた彼女は、答える前に、使用人たちに室内の片づけを命じ、動揺したままの者には、下がって別の者と代わるよう指示を出した。
使用人たちの動きがひと段落すると、アサホはようやくグドンに向き直った。
「聖地へ入ることを認めるかどうか決める前に、あなたの動機が知りたいわね。危険だとわかっていて、なぜ、行こうとするの? どんな見返りが必要?」
「見返り?」
思わぬことを言われてグドンは驚いた。
「危険を冒してまで、ただ働きする人はいないでしょ?」
アサホがさらに追及する。
これと似た台詞を、グドンはどこかで聞いた気がした。
人族というのは、直接自分の利益がないと何もしないのか? やるときは、必ず報酬を必要とする?
「信じないかもしれないけど、島が抱えている問題が何なのか知りたいだけだよ。だから、ただの好奇心」
と、グドンは答えた。
「それに、人族の労働者が聖地へ入れるのに、おいらだけ禁止されると、何か秘密があるんじゃないか、と益々知りたくなる」
しばらく黙考したあと、アサホはようやく頷いた。
「でも、あなたに何かあった場合、後々面倒になると困るから、あなたの行動が完全に自分の意志によるものだと証明を書面にして残してもらう。それと、すぐに聖地へ入ることは認められないから、まず一般の薬草地へ入って経験を積むこと。そういう条件であれば、認めてもいい。どう?」
「それでいいよ。初めからそのつもりでいたし」
細かな条件などどうでもいい、とグドンはすぐに同意した。
「わたしにも、一つ条件があります」
このとき、ホウカが二人の会話に割り込んだ。
「条件? あなたに?」
細く手入れされたアサホの眉が僅かに吊り上がった。
「グドンと一緒にわたしも薬草とりに参加させて」
反対することは許さないとばかりに、ホウカがグドンを睨みつける。
しかし、グドンは意外にあっさりと、
「ホウカが参加したいというなら、別に構わないよ。でも、そのためには、自分の能力を示さないとね。足手纏いを連れていけば、出るはずの結果もでなくなる。そうだよね? 島主さん」
アサホは笑顔で頷いた。
ホウカは黙ったまま唇を噛んだ。彼女にそんな能力がないことは、どちらもよくわかっている。もちろん、彼の監視役などという話は、誰も受け入れないだろう。この点に関しホウカは敗北を認めざるをえなかった。
仕方なく、最後にもう一度、彼女はグドンに恨めし気な視線を投げた。
その後、食事が再開され、アサホは表面上熱心にホストの役を務めたが、場は盛り上がらず話も弾まなかった。
グドン、ホウカ、アサホ、リョクギダン、誰もがそれぞれ己の思いに沈んでいた。
宴がお開きになったとき、全員がほっとした様子でそそくさとその場を後にした。
島主の屋敷を辞したグドンは、一人で宿舎へ向かう道を歩いていた。
ホウカは、本当に屋敷に残り宿舎へは戻らない選択をした。そこにも何やら彼女の策略めいたものを感じたが、グドンはあえて追求しないことにした。彼女が何を企んでいるにせよ、グドンには関係ない。
彼はあくまでここでの生活を楽しむだけだ。
空は完全に日が暮れて、あたりは暗闇に沈んでいた。それでも、町なかにはあちこちに明かりが灯っているから、身の危険を感じることはない。
ただ、吹く風がもう冬が近いことを実感させる。今の季節であれば、渉不城の鉱山で毎日寝泊まりすることは難しかったかもしれなかった。ましてや、野宿などすれば、半妖のグドンでも凍えてしまったろう。
グドンは若干身を竦めながら宿舎への道を急いだ。
おや?
宿舎が目前に見え始めたころ、グドンは誰かにつけられている気がして足を止めた。
この島でおいらをつけるなんて誰だろう?
ここまで尾行に気づかなかったのは、相手の尾行能力が彼を上回っていたからではない。相手は、グドンの帰り道に身を顰め、いわば待ち伏せしていたようだった。
ということは、彼が島主の屋敷にいたことや、宿舎へ戻るにはこの道を通るしかないこと知っている者ということだ。仮にそうなら、待ち伏せしていた相手をかなり限定できるはずだった。
元より、グドンには、それが誰か凡その見当がついていた。
宿舎の前まで来ると、グドンは立ち止まって振り返り、相手が暗闇から姿を現すのを待った。
間もなく、リョクギダンが建物の陰から現れた。
「やっぱり、あなたか…」
グドンは怒った様子もなく、
「おいらに話があるんでしょ? 部屋へ来る? それとも、外のほうがいい?」
「年寄りとしては、温かい場所のほうが助かるな」
リョクギダンはそう言うと小さく苦笑した。グドンに対しまったく敵意はなさそうだ。
二人は宿舎へ入り、グドンの部屋で向かい合って腰を下ろした。
「わたしは、コウギシの兄だ」
グドンにじっと視線を向けたままリョクギダンはそう告白した。




