54 奇妙な人攫い
目を醒ましたとき、グドンは砂利浜の上に倒れていた。
ここはどこだ? ここで何をしている?
思い出そうとするまでもなく、目を開ける前から急激に記憶が戻り始めた。
そうだ。湖を渡ろうとして溺れた。ホウカが水流に巻き込まれ、腕を失って…。
おいらも湖の底に沈んでいったけど、何とか助かったんだ…。
恐る恐る目をあけ上体を起こそうとすると、自分が誰かと手をつないでいることに気づいた。
手を握っているのが誰かは考えるまでもなかったが、隣りを見ると、意識を失ったままのホウカが見えた。
顔は真っ青で血の気がない。
だが、死んではいないようで、胸が静かに上下していた。
ほんの少し頭を持ち上げ、周りを見回す。
湖岸の砂利浜にうちあげられたようだった。今いるのが湖のどちら側になるのかはわからなかったが、周辺の景色に記憶がないところを見ると、湖を渡ることに成功したらしい、とグドンは感じた。
まずホウカの目を醒まさせようと、握った手を揺さぶろうとし、そこではっとして動きを止めた。自分の握っているのが、ホウカの右手と気づいたからだ。
水中で渦に揉まれてちぎれ飛んだのは右腕ではなかったか?
一応確かめるつもりでもう一方の腕に目をやったが、左の腕も砂利の上に力なく垂れていて異常はない。
あれはおいらの見間違いだったんだろうか?
もちろん、そんなはずはなかった。ホウカを抱きしめたとき、彼女の右腕はすでになく、傷口から大量に出血していたのを、今もはっきり覚えている。
改めてよくみると、右腕の肘のあたりに薄っすらと赤い線が走っていた。
やはりあれは、自分の目の錯覚などではなかったのだ。
それならば、一度はちぎれた彼女の腕が何かの理由で元に戻ったことになる。だが、そんなことありえるだろうか?
「この子、目を醒ましたみたいだわ」
グドンが自分の思いに沈んでいるとき、頭上で女性の声がした。
「面倒だ。もう少し眠らせておこう」
男の声が言うのを聞いて、グドンは何やら嫌な予感がした。
慌てて頭を守ろうとしたが、それより早く、何かの鈍器でしたたか後頭部を殴られ、再び闇の世界へ引き戻された。
次にグドンが目を醒ましたとき、横たわった彼の腹の下で何やらゴトゴトと音がしていた。その音とともに小さな振動も伝わってくる。
おいらは荷車か何かに乗せられてどこかへ運ばれている。
グドンはすぐ自分の置かれた状況を理解した。
ただ、彼は偶然に目覚めたわけではないようだった。車の振動で起こされたわけでもない。
誰かに足で顔を蹴られたのだ。蹴られたというのが大げさなら、爪先で踏まれたといってもよい。
目を開け、ゆっくり首を持ち上げると、視線の先によく見知った顔が見えた。
ホウカだ。
彼女が、疲れた顔でグドンを見つめている。
その足がグドンの顔を踏んでいた。
疲れている理由は理解できたが、なぜ、踏まれているかは理解できなかった。
二人が乗っているのは、ホロのかかった荷馬車のようだった。そのホロにもたれるようにして、足を前に投げ出す格好で彼女は座っている。よく見ると、腕が後ろ手に縛られていた。
普通に考えるなら、誰かに誘拐され、手足を縛られて運ばれているということだろう。
だが、そのことよりも、グドンは顔を踏まれていることが気になった。
この女の子は礼儀も知らなければ、恩義のおの字も感じる能力がない。湖では命懸けで助けてやったというのに…。
憤然と体を起こそうとし、ようやく、自分も手足を縛られて身動きできないことに気づいた。
「誘拐されたみたいね、わたしたち」
グドンの感情などおかまいなく、ホウカが至極客観的な口調で言った。
「言っておくけど、何度も声をかけたのよ。それでも目を覚まさないから、仕方なくて、こんなことをしたの」
こんなこととは、足で顔を踏む行為のことだろう。
何度も声をかけた? おいらは信じない。
「こどもを攫う集団よ。わたしたちだけでなく、大ぜいのこどもを手あたり次第誘拐してるみたい。きっと、どこかへ売り飛ばすつもりね」
今のグドンがこどもに見えるかどうかは別にして、もう一度首を持ち上げ周りを見回すと、二人のほかにも、十人ほどのこどもがやはりホロにもたれて座っている。
中には顔に泣いた跡の残る子もいたが、ほとんどは、これが自分の運命と受け入れているのか、ボンヤリと無表情な顔でじっと前を向いている。
皆、十二三歳と思えるこどもたちだ。
日焼けして黒くかさかさになった肌、乾燥し白茶けたもじゃもじゃの頭、どこを見ているとも知れない生気のない目…。
こどもたちの出立を見たグドンは、彼らが路上生活者に違いないと見抜いた。
着衣の破れや汚れのせいだけでなく、雰囲気全体が、路上生活をしていた頃の自分や仲間とそっくりだ。
ただ奇妙なのは、彼らが誰一人として縛られていないことだった。まったく自由そのもので、中には肉まんのようなものを口にしている子さえいる。
この子たちは攫われたんじゃないのか?
とにかく、自分やホウカとの扱いの差は歴然としていた。
たとえるなら、彼らの待遇が特等席で、ホウカはA席、グドンは立ち見といったところだ。
グドンは何となく釈然としないものを感じたが、何か理由があるのだろうと思い直し、ホウカへ視線を戻した。
「きみを女郎屋へ売り飛ばすつもりかもしれないよ。心配じゃないの?」
疲れは見せているものの、意外に平然としているホウカの態度に、グドンは思わず皮肉を言った。
「大丈夫よ。ここの人攫いにそんな力はないわ」
「だけど、売り飛ばすつもり、ときみはさっき言ったじゃないか」
ホウカは溜息をつき、
「それはこの子たちのことよ。わたしやあなたは心配いらない」
どうして? 彼女がなぜそれほど自信満々なのか不思議に思ったが、グドンは訊くのをやめにした。
彼女の自信にはどうせ根拠がないとわかっている。
ただ少なくとも、彼女の度胸には感心した。
「随分、落ち着いてるよね?」
何とか上半身を起こし、芋虫のように少しずつ床をいざって馬車の側壁にもたれかかると、グドンは皮肉ではなく本心から彼女を誉めた。
「慌てる必要がある?」
そう嘯くと、前方にいるはずの御者に向かって声を張り上げる。
「ちょっと、誰かいないの?」
突然、彼女が大声を出したので、グドンばかりか、ほかのこどもたちも一様に緊張で体を硬直させた。
いったい、何のつもり? そう訊こうとするグドンに、
「お尻が痛くなってきたの。もうこれ以上耐えられそうにない。それに、もう捕まっているんだから、おとなしくしていても同じでしょ? このあたりで、わたしたちの立場をはっきりさせないと」
と、彼女が自分から説明した。
わたしたちの立場?
意味が分からないグドンは、唖然とするしかない。
荷車はゆっくり速度を落とすと道端に停止した。前方からイタチ顔の二十代後半とおぼしき男が荷台へ移ってきた。
「今大声を出したのは、誰?」
そう言ったものの、イタチ男に憤りの表情はなく、むしろ、近所の八百屋が御用聞きに伺った口調だ。
「用を足しに行きたいの。もう我慢できそうにない」
何でもないことのように、ホウカはしれっといってのけた。
「少しだけ車を止めて休憩させて」
「冗談をいってるのか?」
と、凄むだろうと思ったグドンの想像に反し、男は溜息をつくと、
「それは仕方ないけど、声をかけるときは、もう少し声を落としてくれ。でないと、ほかの子たちが怖がるじゃないか」
と周りのこどもに目を向け、視線の合った子ににこりと笑って見せた。
これはどういうことだろう? 攫ったこどもに愛想を振りまく人攫いなど初めて見た。
いや、もちろん、ほかに人攫いに会ったことなどないが。
状況を理解できないグドンが、イタチとホウカの顔を見比べていると、優しい笑顔の美婦人が御者台のほうから顔をのぞかせ、
「いかせてあげて」
と声をかけた。
グドンはその声に聞き覚えがあった。湖岸で後頭部を殴られ、気を失う前に耳にしたあの声だ。
「どうせ、どこかで休憩時間をとろうと思っていたところなの。車の中を汚されると面倒だし。ついでに、ほかのこどもにも用を足すように言って」
イタチ男は、指示に従い、まず馬車の後部から地面へ下りると、先にほかのこどもたちを一人ひとり車から下ろした。
やがてグドンとホウカを除き、全員が下りて行ってしまうと、改めて荷台に上がり、ホウカの腕に巻かれた縄を解き始める。
ところが、イタチはホウカの解放に手間取った。
彼女のような美少女に息がかかるほど近づいた経験がないのか、縄を解く手が微かに震えている。
それはあたかも、彼女の体に触れる時間を故意に長引かせているようにも見えた。
「糞っ」
と男が毒づいたとき、ホウカが意味ありげに、
「腕だけじゃなく、お尻には触らなくていいの?」
と微笑んだ。




