53 湖の呪い
それまでは、大した抵抗もなく動かせていた櫂が、精一杯力を込めても、ほとんど動かなかった。まるで、湖ではなく沼地に舟を浮かべているようだ。水の粘力が上がり、小舟はその中にはまり込んで立ち往生している、そんな感じだった。
ひと掻きしても、二三十センチも進めばよいほうだ。
完全に湖の真ん中に閉じ込められてしまった、と二人はようやく気付いた。
これは、グドンが想像もしなかった状況だった。
湖が彼の命を脅かすとすれば、大波にのまれるとか、水中の化け物に襲われるとか、そうした事態を想定していた。だが、湖のど真ん中でまさか身動きできなくなるとは…。
どうすればよいか皆目見当がつかず、グドンはあきらめ顔で櫂を放り出した。
ホウカは意外に涼しい顔で、水面に手を差し入れ感触を楽しんでいる。そのことがさらにグドンの感情を逆なでした。
「ぜんぜん怖がってないみたいだよね?」
ホウカはふんと鼻を鳴らし彼に白い目を向ける。
「怖がればいいの? そういう女の子が好み? どおりでわたしにはいつも冷淡だと思った」
「冷淡?」
ホウカにだけは言われたくない気がした。
「ごめん。おいらが間違ってた。きみに話しかけるべきじゃなかったよ」
彼の皮肉にも彼女は動ぜず、
「あなたの御利益で、湖を安全に渡れるはずじゃなかったの?」
と皮肉で返した。
「それは、こっちのセリフだよ。勾玉を持っていれば、湖は害を与えないんじゃなかったのかな?」
「勾玉? ああ、わたしが勾玉を持っていると期待していたのね。それなら、もし、わたしが無理に小舟に乗り込んでこなかったら、どうするつもりだったの? どうせここで立ち往生じゃないの」
「おいらひとりなら、泳いでも湖を渡ってみせるよ。というより、きみが乗り込んできたから、こんなことになったんじゃないの?」
束の間、ホウカは黙って、言われたことを吟味する様子を見せた。
「そうかもね」
と、彼女は認めた。
「あなたは、あの英雄さんの息子だもの。一人なら危険な目にあうはずはないわ。じゃ、どうしたい? わたしを舟から突き落とす?」
「それもいいかもしれない」
と、グドンは満更でもない顔になった。
「でも、とりあえず、きみが水の中へ入って、舟の縁に掴まったまま進むというのは、どう? 湖の怒りをかうことなく、きみも命を落とさないで、向こう岸に渡れるかもしれない」
本当にグドンを蔑む目で、ホウカが彼を睨んだ。
もちろん、グドンも冗談だったが、その冗談を真剣に考慮しなければならないほど、ほかの方策を何も思いつかなかった。
このまま手を拱いていては、二人とも干乾しになってしまう。
どうしようか、と散々考えて、グドンは自分が小舟を下りて水の中へ入ることにした。
手で触れる限り、湖の水はいつもと変わらず、粘力が上がっているようには思えない。水中に下りても、すぐ溺れたり、舟に上がれなくなることはなさそうだった。
「何をするつもり!」
驚いたホウカが、慌てて彼を引き留めようとする。
「このまま座して死を待つより、というやつだよ。何でも試してみないことには次へ進めない」
小舟をできる限り揺らさぬよう気を付けながら、グドンは水の中へ下りた。
水は手で触れていたときより遥かに冷たかった。だが、水中で動くことはまったく支障がなさそうだ。といって、向こう岸まで泳いでいくのは、やはり無理がある。
彼は舟の縁に手をかけ、
「きみが舟を漕いでみてよ」
とホウカに指示した。
こんなことうまくいくはずがない、と彼女は溜息をつきながらも、櫂を握って漕ぐ動作を繰り返した。
やはり、舟はまったく前へ進まない。というより、櫂はほとんど水中で動くことなく、小さな水しぶきをあげ水面へ飛び出した。
「駄目。水の抵抗が凄くて、櫂を引くことすらほとんど無理よ」
それから少し躊躇して、
「今度は、わたしが水に下りてみる?」
と提案した。
それは心ならずもの提案で、グドンが否定してくれることを心から願う表情だった。
「それがいい」
グドンは躊躇なく答えた。
ホウカは口をとがらせ、相手の薄情さを恨む顔になる。それでも、ゆっくり舟縁に手をかけた。
いっぽう、グドンはいったん水中から舟の上に上がろうと、跨ぐように縁に足をかけ、踏ん張るように力を込める。
とたんに小舟は大きく片方に傾いた。
中腰になっていたホウカは慌ててバランスを取ろうとしたが、それがかえって、船体を左右に大きく揺らす結果になった。
きゃっと悲鳴を上げるなり、彼女はもんどりうって水中に落下した。
大きな水しぶきが上がり、いったん水中に没した後、ホウカはすぐに浮き上がって濡れた髪をかき上げた。
「わざとやったでしょ!」
まさに鬼の形相だった。
グドンはあははと大笑いした。
「二人同時に水に下りたらどうなるか、試してみたかったんだ。それに、きみは一度湖を泳いでるし、水に濡れても大丈夫でしょ?」
「最低ね」
本気で悔しがるように唇を噛む。
「だいたい、二人同時に水に下りて、何を試してみるつもり? 誰も舟をこぐ人がいないじゃないの」
「うん。それはそうだ」
グドンはあっさり賛同して、縁にかけた手に力を込めると、ヒョイッと身軽に舟上に上がって見せた。ホウカは一人水中に残され、さらに険悪な表情になった。
そのとき、新たな異変が起きた。
どこからともなく、ほんの微かな地響きが聞こえ始めた。湖で地響きとは奇妙だが、確かにそれは地響きだった。
やがて、穏やかだった水面にさざ波が立ち始め、それがすぐに大きな波しぶきに変わっていく。
ただならぬものを感じ、顔を強張らせた二人は、警戒するように周囲を見回した。
何かが襲ってくる様子はない。
「早く舟に上がって!」
グドンが腕を差し出すと、ホウカは迷うことなく彼に縋りついた。
体と体が密着し、グドンの腕の中で彼女の柔らかな膨らみが潰れたが、どちらもまるで気にしていなかった。
グドンは力一杯、彼女を引き上げようとした。
だが、駄目だった。彼女の体はまるで巨大な錘を吊り下げたように、水面下に沈んだままビクともしない。
今のグドンは、自分の腕力に自信があった。地上であれば、片手で彼女を持ち上げられただろう。それがこのときだけは、むしろ彼女の重みで水中に引き込まれそうな感覚があった。
背筋に力を込め、全身で彼女を抱き上げようとする。だが、それが逆効果だった。舟はいっぽうに大きく傾いて、再び体の均衡を失ったグドンは、ホウカ諸共、投げ出されるように水中へ落下した。
水の中では、自然に泳ごうとする意識が働く。二人は、抱き合っていた腕を放してしまった。とたんに、ホウカだけが水中深くへと沈み込んでいく。その手をグドンが慌てて掴んで、水面に引き上げようとした。もう一方の手は舟の縁を掴み、何とか二人が溺れるのを阻止しようとする。
「勾玉を使うんだ!」
彼女の顔が水面から出るなり、グドンは大声で叫んだ。
蒼白な顔のまま、ホウカが激しく首を振る。
それが、使いたくないという意味か、持っていないという意味か定かではなかった。
彼女は、何かを決意したように体に力を込め空を仰いだ。ほんの一瞬、グドンに掴まれたホウカの体が軽くなった気がした。
勾玉の力か? とグドンは期待したが、残念ながら、すぐにまた元の状態に戻ってしまった。
ホウカは絶望したように蒼白な顔をグドンに向けた。
この子は勾玉を持っていない!
グドンもようやくそれに気づいた。
湖を渡ろうとしたのは、自分の身に危険が及ぶはずはない、と事態を甘く見ていたに過ぎず、何かの確証があったわけでも、勾玉という切り札を持っていたわけでもないのだ。
彼女はただのわがままなこどもだった。
そう思ったとたん、ホウカを掴んでいた手の力が一瞬緩んだ。
彼の手を離れた彼女の体がまた凄い勢いで沈み始める。
その速度は最早、自然の法則を無視していた。あっという間に、グドンとの距離を何メートルも広げていく。
彼女を追いかけてグドンが水中へ潜ると、あちらこちらで無数の水流が竜巻のように渦を巻いているのが見えた。
ホウカはその渦に翻弄され、自分ではいっさいの制御が利かない状態だ。
グドンは何とか彼女に追いつこうとしたが、浮力が上回って、なかなか深くへ潜り切れない。
渦に巻き込まれそうになったホウカが、必死に水をかいて抗おうとしたとき、その行為をあざ笑うように、さらに強い別の渦が彼女を襲った。
渦と渦の間に挟まれることになったホウカの体から、突如、何か白いものが飛び出した。
何だろう、と目を凝らしたグドンは、飛び出したものの正体を知って愕然となった。
それは彼女の右腕だった!
ホウカの右腕が、肘のあたりでちぎれ、そのまま水流の中で翻弄されている。
信じられない思いで、グドンはその光景を見つめた。
嘘だ!
どこからともなく、抑えきれない憤怒が彼を襲った。
こんなことは公平じゃない! ホウカは愚かで可愛げのない女の子かもしれないが、こんなふうに扱われていいはずがない。誰も彼女を傷つける資格などない。
鉱山でのことがあり、セイイツを見直す気になっていたグドンの心に、再び怒りと軽蔑の感情がこみ上げた。
これはすべてセイイツが仕組んだことだ。英雄がどれほど偉かろうと、少女をこれほど残酷に扱う権利はない!
憤怒が彼を捉えた瞬間、彼の奥底で、何かがパチンと音を立てて弾けた気がした。
彼は驚異的な速度で水中を下降し始めた。
ものの数秒でホウカに追いつき、彼女の腕を捉えると、水の渦から保護するように強くその体を抱きしめた。
彼女の体に覆いかぶさる形になったグドンを、渦はなおも容赦なく傷つける。
彼は、体中を切り刻まれ、辺りの湖水は彼の血で赤く染まった。
片腕を失ったホウカは、強く抱きしめられたままじっと彼の胸に顔を埋め、呆然としている。
二人はさらに湖底深くへと沈んでいった。
鉱山での訓練の賜ものか、グドンはそれほど息苦しさを感じなかった。それでも、気圧の関係か、次第に意識が遠のいていく。
十メートル、二十メートル…。
もう限界だと思ったとき、突如、周りの景色が変化した。
どこか別の世界。
グドンは全速力で地上を駆けていた。
いや、駆けているのはグドンではなく、セイイツだった。
グドンは、どこか上空から走るセイイツを俯瞰しているようだった。
いや、もしかして、おいら自身がセイイツになったのか?
彼は混乱する頭でそんなことを考えたが、どちらも正解だという気がした。
セイイツの左右には、無数の化け物が彼と肩を並べ疾走している。
妖獣だ、とグドンにもわかった。妖獣とはいっても、コタンフが手なずけていたものとは大きさも凶暴さもまるで違う。コタンフの妖獣が幼獣だとすれば、こちらは完全な成獣だ。
「殺せ!」
セイイツが叫ぶと、妖獣たちも一斉に喜びの雄たけびを上げた。
向かう先に敵の軍隊と思しき大群が見える。
セイイツたちはその大群に向けて疾走している。
背後を振り向くと、遥か彼方に、遅れてセイイツを追いかけてくる彼の仲間の姿が見えた。
その中には、グドンの見知った顔も幾つかあった。
ムダイやジャキュウ、コウギシだ。
いや、今の彼らではなく、ずっと若かったころの三人だ。能力の低い彼らはセイイツの速さについて行けず、どんどん後れをとっていた。
見る間に、敵との距離が縮まり、セイイツたちは敵の大群へ突入していく。
「殺せ!」
叫び声とともに、セイイツが腕を振るうと、向かい合った敵兵の腕や足、頭部がちぎれて宙に舞った、
その数は数人、数十人の単位ではない。腕の一振りで、数百、いや、数千の兵士の体が宙に舞い、血しぶきとなってこの世から消えていく。
その光景は凄惨極まりなかった。
まさに地獄だ!
セイイツの殺戮の網をやっと逃れた兵士たちは、妖獣によって容赦なく食い殺されていく。妖獣の役目はいわば残飯の後始末だった。
「殺せ!」
セイイツは尚も殺戮の手を休めない。
辺り一帯が、死んだ兵士たちの血煙で薄暗くなっても、さらに殺し続ける。
グドンはそんな噎せかえるような血の匂いに胸が苦しくなった。
鬼のようなセイイツの形相、目を剥いたままちぎれ飛んでいく兵士の頭部、それを噛み砕く妖獣…。
「父さん、もうやめて!」
思わず叫んだが、その声も妖獣たちの雄叫びと兵士の悲鳴ですぐにかき消されてしまう。
グドンはもう呼吸が出来なかった。
苦しい。
「やめて!」
いつの間にか、彼の頬を涙が伝っている。
血に染まり、真っ赤になった涙…。
「やめて、父さん!」
また意識が薄れていく。
苦しい。
父さん、おいらは、あなたの息子にはなりたくない!
そう思った瞬間、完全な暗闇が訪れた。




