52 ホウカの執念
驚いたのはグドンだけではない。
アンカイが初めてというくらい血相を変えて駆け寄った。
だが、もちろん間に合うはずもなく、桟橋の端でたたらを踏み、やっとのことで水中に落ちるのを免れた。
しばらくして、やっとホウカの体が湖面に浮かび上がったとき、グドンは、心から彼女を呪いたい気持ちになった。
まったく正気とは思えない。どこまで異常な行動をとれば気がすむのか。今さら、小舟まで泳ぎ着いたとして、彼を町へ連れ戻すことができると考えているのだろうか?
それでも彼女は必死の形相で、小舟に向かって泳いでくる。
彼女をこのまま待つべきか、かまわず対岸へ向け小舟を漕ぎ出すべきか、グドンも判断に迷った。
迷ったとたん、それまで優雅に泳いでいたホウカの姿が、再び湖面から消えた。
まるで何かに水中へ引き込まれたようだった。
誰もが緊張してその様子を窺う。
あそこまでがホウカの力の限界だったのか?
全員が注視する中、なかなか彼女は水面に姿を現さない。
「糞ッ!」
グドンは思わず罵り声をあげ、それでも舳先の方向を回転させ、彼女を助けに向かう決心をした。
だが、次の瞬間、ホウカの上半身がまたポッカリと水面に浮かび上がった。
誰もが安堵し、アンカイは「ホウカ、戻れ!」と大声を出した。
グドンも初めてアンカイの意見に賛成する気になった。
そうだ。ホウカ、岸へ戻れ!
しかし、その安堵もすぐに失望へと変わった。
ホウカが再びグドンの小舟に向けて泳ぎだしたからだ。
しかも、先ほど溺れかけたのは何だったのかと思えるほど、しっかりした動作でみるみる小舟との距離を縮めてくる。
もうグドンも彼女を置き去りにする気持ちは萎えていた。ここでさらに離れれば、本当に彼女を見殺しにすることになる。
いくら何でも、それでは後味が悪すぎた。
しばらくして舟に泳ぎ着いたホウカを、グドンは手を貸して舟上へ引き上げた。
小舟が大きく左右に揺れる。
びしょ濡れのままグドンの前に跪いたホウカは、胸を何度も激しく上下させ、ぜいぜい喘いで、のみ込んだ水を吐き出した。
今、自分の姿がどう彼の目に映っているかなど、気にもしていない様子だった。
「どういうつもり?」
グドンは、溜息交じりにそういうのが精一杯だった。
ホウカはやっと羞恥心を取り戻したのか、濡れた上着の襟元をかき合わせるようにした。彼女には珍しく頬が薄く赤らんでいる。
「あなた一人ではいかせないわ、絶対に」
と、それでもまだ強気で言う。
「まさか、それは、おいらについてくるという意味じゃないよね?」
絶望した彼はとにかく翻心させたくて、
「湖を渡るのは命懸けなんだ。きみは、おいらと心中したいの? 違うでしょ? だったら、町へ戻って。お願いします」
と頭を下げた。
勘弁してもらえるなら、土下座でも何でもする気だった。
しかし、ホウカは、彼にそれ以上口を開く間を与えず、しゃがみ込んだままくるりと背中を向け、
「渉不城から出ていくのなら。出ていけばいいわ」
と冷たい声を出す。
「でも、わたしにここから泳いで帰れというんじゃないでしょ? 岸まで送り返してくれるのよね?」
彼女の魂胆がやっとよめた気がした。
誰かの助けがほしくて、グドンは岸の三人に視線を向けた。ヤセイやアンカイたち三人は、皆、肩の荷が下りた雰囲気でこちらを見ている。コタンフが、そのままいけというように二人を追い払う仕草をした。ヤセイなどは苦笑いしたあとすでに背を向け、町のほうへ戻ろうとしている。
「こんなの間違ってるよ!」
グドンは我慢できずに泣き言を言った。
「舟が転覆しても、きみが溺れそうになっても、おいらは助けてあげられない。自分のことで精一杯だから」
ホウカは返事をしなかった。
彼女は今、岸のほうを見ていた。だが、目線の先にあったのはヤセイたち三人ではなく、別の人影だった。
三人から少し離れた樹木に半ば隠れるように立つ若い男。まだ少年といってもいい。その少年の顔を見たとたん、ホウカの表情が凍り付いた。
少年はグドンそっくりだった。しかも、今のグドンではなく、以前の色白で痩せこけていたころのグドンだ。
ホウカは思わず背後を振り返った。
グドンが苦り切った顔で彼女を睨んでいる。
こっちを見ないでよ、このいかれ女。
これはいったいどういうこと? 彼女は正直混乱した。きっと目の錯覚に違いない。グドンのことばかり考えているから、今は誰でもグドンに見えるのだ。
彼女は恐る恐るもう一度岸のほうへ視線を戻した。
今度はまったくの別人がそこに立っていた。グドンとは似ても似つかない別の少年だ。
あれは確かショウボク…。
グドンを怪我させたことで大人たちから折檻を受け、脳に損傷を負っておかしくなってしまった子だ。いつもは街なかを徘徊しているはずだけれど…。
とにかく、さっきのは自分の見間違いだったとわかって、彼女はホッと胸を撫で下ろした。
ホウカの奇妙な振る舞いに気付いたグドンも今、ショウボクに目を向けていた。
だが、彼の考えは、ホウカとは違っていた。
先刻のショウボクは、確かに自分と瓜二つに見えた。そう。あれは間違いなく以前の自分の姿だった。
グドンは、コタンフやホウカと交わした奇妙な会話の背景がのみ込めた気がした。
きっと、おいらが鉱山にいる間、ショウボクがここで自分の身代わりを務めていたんだ。だから、誰も鉱山へ探しに来なかった。コタンフらとの会話がかみ合わなかったのも、このことが原因だ。
だが、そんなことがありえるだろうか? グドンは自分の考えが受け入れられなかった。ショウボクにそんな能力があるはずがない。仮にあったとしても、なぜ、彼の代役など務めなくてはいけないのか?
グドンはもう一度、ショウボクの顔に目を凝らした。
今はもう、完全にショウボク自身の容姿に戻っている。しかし、まだどこか違和感があった。
どこが変なのだろう?
グドンは眉根を寄せ思考を巡らせた。
そうだ。知性の光だ! 今のショウボクの目には強い知性が感じられる。まるで折檻を受け怪我をする前の彼に戻ったようだ。
そんな彼の思いに気付いたように、ショウボクはにこりと笑うと、腕をあげ二人に向けて手を振った。
「いかないの?」
呆然としているグドンをホウカがせっついた。
グドンは大きく息をつくと、気を取り直し改めて櫂を握った。
いずれにせよ、今は一刻も早く渉不城を離れる必要があった。そして、可能なら、二度とここへは戻らない。ここで何が起こっているにせよ、自分にはもう無関係だ。
グドンは最後にもう一度、ホウカに声をかけた。
「戻るなら今だよ。これから何が起こるか、おいらにはわからないし、責任もとれない」
「戻る方法がないと言ったでしょ。それに、責任をとれなんて、誰も頼んでない」
グドンは頷いて、櫂を漕ぐ手に力を込めた。
湖に関する噂が真実であれ作り話であれ、ムダイはきっと娘を守ろうとしているはずだ。それならきっと、ホウカは湖を渡るための勾玉を隠し持っているに違いない。彼女が安全なら、グドンは自分の命さえ守ればよかった。
それなら、何とかなるかもしれない…。
小舟がゆっくりと前へ進み始める。
湖面は波もなく穏やかで、命を失う惨事が起こるとはとても思えなかった。
湖上の旅はこの上もなく順調そのものだった。
あまりに快調快適で、櫂を動かしながらグドンは、小舟が進んでいるのが水面ではなく、空中ではないかと錯覚したくらいだ。櫂を引く際、筋肉にかかる抵抗も心地よく、思わず笑いだしそうになった。
やはり、ひとの噂はあてにならない。そう思い始めたころだった。
グドンは奇妙なことに気付いた。
これだけ快調に飛ばしているにもかかわらず、対岸がまったく近づいてこないのだ。
すでに三十分ほども経過しており、その間、一度も休憩をとっていない。湖が幾ら広いといっても、こんなことはありえなかった。
舟尾に座って湖面を眺めていたホウカも、同じ疑問を感じ始めたらしく、ちらりとグドンを振り返る。
彼は櫂を動かす手を止めた。小舟はしばらく惰性で進み、やがて静かに停止した。
渉不城側の岸辺はすでに目視できなくなっている。波や潮の流れの影響で、あらぬ方向へ横滑りしているわけではなさそうだ。
気を取り直し、もう一度櫂を動かそうとしたとき、異変に気付いた。




