51 脱出
妖獣は抗うように二度三度と首を振り、唸り声をあげると、今にもグドンに飛びかかろうとする。
グドンは慌てて術を解いた。
おいらにはまだこいつを操れそうにない。中途半端なことをすれば、コタンフの制御から逃れ、抑えが利かなくなる恐れがあった。小犬はおそらくジャキュウからの借り物で、コタンフには完璧に操るだけの力がない。一度制御が外れると面倒だった。
制御を取り戻したコタンフが「戻れ!」と命じると、妖獣は小犬の姿に戻り、彼の背後に引き下がった。
またしばらく沈黙が流れた。
「あなた、能力が覚醒し始めているの?」
問いかけたヤセイの声には、畏怖の響きが滲んでいる。グドンを見つめるほかの者たちの目にも、一様に驚きと警戒の色が窺えた。
彼の外見の変化も、おそらく能力が覚醒し始めた影響に違いない。
「おいらは、渉不城にいないほうがいいと思うでしょ?」
コタンフは何度か小さく首を振り、ヤセイは黙って視線を落とした。
「能力が覚醒しているのなら、尚の事、父のところへ戻るべきよ。父なら何とかできるかもしれない」
「どうして、何とかしなくちゃいけないの?」
とグドンが失笑を抑えきれない様子で言った。
「何だか、おいらが化け物にならないよう助けを必要としているみたいじゃないか」
「違うの? あなたはそうなるのが怖くない?」
彼女が平然とグドンを見返す。
彼はもう口を開くのも嫌だった。話したところでどうせわかりあえない。
改めて、岸から数メートルのところを揺蕩っている小舟のほうへ視線を向ける。
それに気づいたアンカイが、彼の前に立ちはだかった。
「おれも、おまえを行かせるわけにはいかないな」
「へへ、なぜ?」
とコタンフが面白がる。
「ホウカ、あなたは、わたしたちが争うのを望んでる?」
ヤセイが冷静に声をかけた。
「あなた方がそれを望むなら」
「アンカイ、冷静に判断したほうがいいぞ」
珍しく薄ら笑いを消したコタンフが言った。
「三対二だ。しかも、戦力として、ホウカはほとんど役に立たない。こっちには切り札もいるしな」
切り札とはもちろんグドンのことだ。
現在の彼の能力を彼らは見極められていない。ひょっとすると、全員でかかっても勝てる相手ではないかもしれない、との思いもある。今にして思えば、幹部たちがグドンを牢獄へ入れたのは、必ずしも保護だけが目的ではなかったのかもしれない。
「怪我人が出るわ」
ヤセイが本気で心配する声を出した。
「仕方ないな」
とアンカイ。
コタンフは薄ら笑いを取り戻している。
「ホウカ。やめようというんだ」
グドンは最後にもう一度彼女に頼んだ。しかし、無駄だった。彼女は激しく首を振ると、彼を指さした。
「あなたのせいよ!」
コタンフの小犬がまた妖獣の姿に変化した。
ヤセイの全身から白い炎のようなものがたちのぼる。
それが無数の白いバラに変わった。
花びらから強い異臭が辺りに広がる。猛毒ではないが、一時的に運動機能や思考能力を麻痺させ、幻覚を見せる作用があった。
グドンは、無駄を承知で鼻の前を手で覆った。
ヤセイの手には赤黒い無数の棘が握られている。彼女以外の者が触れれば、一瞬で身動き出来なくなる。
アンカイの背後にも大鵬が浮かび上がった。極鮮色の羽を広げ、今にも空へ飛び立とうとしている。
鵬が天を仰いで鳴き声を上げると、グドンたち三人の脳内に鋭い痛みが走った。
まるで頭の中で誰かが金属に爪を立てているようだ。
「こんなことをして、何になるんだ!」
グドンは思わずホウカを怒鳴りつけた。
「皆を傷つけてまで、おいらを引き留めて、きみにどんな得があるの?」
ホウカの顔も苦しみで歪んでいた。
「わたしには、あなたを引き留める以外、何も価値がないからよ!」
価値がない?
不思議に思ったが、今はその意味を質している暇はなかった。
大鵬に姿を変えたアンカイが前へ突進する。同時に、コタンフの妖獣も相手に向け跳びかかった。
ヤセイの白い薔薇の花びらが舞い上がったと思うと、ホウカの体を包み込み、いっぽう彼女の手から放たれた赤黒い棘はアンカイ目掛けて乱れ飛ぶ。
「カン、カン!」
アンカイがいつの間にか取り出した剣でそれを振り払う。
夜が明けたばかりというのに、辺りが薄暗くなり、突如湧き上がった黒雲の向こうでは、ゴロゴロと雷鳴も聞こえ始めた。
コタンフの背後にも、白い虎の幻影が浮かび上がる。
妖獣と大鵬が大音響で激突した。
それを片目に見ながら、グドンは落ち着いた顔つきで後ずさりした。
少しずつ、じりじりと小舟のほうへとにじり寄る。
小舟は今、岸から七八メートル先まで流されていた。
今の自分にはアンカイたちとやり合う能力はない。グドンは自分の力を冷静に判断していた。
アンカイたちがどう誤解しているかは別として、今の自分にできるのは、少しでも早くこの町を離れることだ。離れれば、皆、無益な争いをしなくなるだろう。勝敗の如何に関わらず、彼らには何も実益などないのだから。
今は誰もグドンに注目していなかった。
ホウカですら、ヤセイの花びらに対処することにやっきになっている。
あまつさえ、彼のために戦っているヤセイやコタンフを見捨て、グドンが逃げ出すなどとは、誰も思っていなかった。
岸から小舟までの距離を、グドンは正確に分析しようとした。
あそこまで跳ぶことができるだろうか?
ひと月前の自分なら絶対に無理だったろう。しかし、今なら…。
賭ける価値は十分にある気がした。
彼が走り出すのと同時に、ホウカが「グドン!」と大声を出した。
それでもかまわず、グドンは全力で駆け続け、桟橋の端から一気に宙へ飛び出した。
一瞬、奇妙な感覚が彼を捉えた。
突然、この世から重力が消えうせ、水面に引き寄せられる力がなくなったようだった。グドンはまるで歩くように空間を跨ぎ、次の瞬間には、正確に小舟の上へと下りたった。
グドンを除く全員が彼に注目していた。そして、どの顔にも一様に驚愕の色が広がった。
グドンは今、空を飛んだ!
彼らの目には、グドンが短い距離を跳躍したのではなく、宙に浮かんだのち、ゆっくり小舟まで歩いて移動したように映った。
誰もが呆然とする中、グドンはその場に腰を下ろし、すぐにオールを手に取ると全力でこぎ始めた。
小舟は滑るように湖面を進んでいく。
あっという間に、岸からは四五十メートルの距離が開いた。
その頃になってようやく、アンカイたちは我を取り戻したが、もう後の祭りだった。
自分たちにグドンと同じ空を飛ぶ能力はない。残されているのは、別の小舟で追いかけることだったが、それをヤセイやコタンフが黙って見ているとも思えなかった。
誰がも攻撃の手を緩めた。元々、憎しみあって始めた争いではない。争いの種がなくなった今、傷つけあうのは滑稽でしかなかった。
グドンの顔にもやっと笑顔が浮かんだ。
「ごめんよ。皆、元気で!」
どんどん岸から離れていく小舟の上、顔に爽やかな風を感じながらヤセイたちに向け手を振った。
だが、そのとき、ホウカが思わぬ行動に出た。グドンを真似るように全力で走り出すと、桟橋から湖の中へそのままの勢いで飛び込んだのだ。
ざぶんと波しぶきが上がり、一瞬、彼女の姿が見えなくなった。




