50 浦島太郎
ホウカは、薄暗がりの中で桟橋に腰を下ろし黙って水面を見つめている少年に改めて目を凝らす。
少年は、いや、もう明らかに少年とは呼べないその人影は、一瞬、うんざりした表情で彼女を眺めたあと、またすぐに視線を逸らせた。
「グドンなの?」
ホウカの驚嘆した声に、コタンフが大笑いで応じた。
ヤセイとアンカイも同じように、信じられないものを見る目でグドンを見つめている。
「で、でも、こんなことありえない。昨日までは…」
確かに痩せて色白のグドンだった。それが突然、何の前触れもなく、黒く日焼けし筋肉の鎧に包まれた大男に変化した。こんなことがありえるだろうか?
とはいえ、顔の輪郭は多少変化しても、間違いなくグドンだった。
大人の男性に変化したグドン…。
一瞬、自分の耳たぶを舐めたグドンの姿が脳裏に浮かび、ホウカは頬を熱くした。
「ひと月近くも山の中で生活していたから、少しくらいは外見も変わるよ」
ホウカの反応を無視して、グドンは無表情に答えた。
「ひと月? 山の中?」
ホウカが眉を顰めると、コタンフが、
「ほらな。ずっとこの調子で、わけのわからないことを言ってるんだ。どこかで頭でも打ったんじゃないか? そのとき、外見まで変わっちまった」
「おいらの外見なんて、どうでもよくない? それより、皆がここまでおいらに拘る理由が訊きたいよ。それと、これから、おいらをどうするつもりか」
彼の問いに、コタンフとヤセイは顔を見合わせた。
彼らもグドンの処遇に少なからず疑問を感じているようだ。これは自分にとってチャンスかもしれない、とグドンは感じた。
「おまえひとりの行動を監視、束縛してるわけじゃない」
と、アンカイが答えた。
「今は、幹部の許可がなければ誰も町から出ていけない。例外なくだ。好き勝手する奴を放置すると、ほかの住民まで動揺するからな」
ホウカが頷き、グドンを睨む。
「だけど、おいらの行動に自由がないのは、今に始まったことじゃないよね? 住民の動揺が収まったら、自由に行動できるようになるの?」
「それはおれが決めることじゃない」
とアンカイ。
グドンは失笑した。
「へえ。じゃ、アンカイのご主人様が決めるわけ?」
アンカイは目を細め、値踏みするようにグドンを見詰める。
「言ったでしょ? 父はあなたのためを思って自宅で保護してあげようとしているの。それだけよ。他はこれまでと何も変わらない」
ホウカのことは無視して、グドンはヤセイとコタンフへ目を向けた。
「二人も同じ意見なの? コウギシとジャキュウも、おいらを渉不城から出さないことが町のためになると考えてる?」
「コウギシはわからないけど…」
と、コタンフは思いやるようにちらりとヤセイに目をやったあと、
「ジャキュウがおまえを邪魔者と思ってるのは間違いないな。たぶん、この町からいなくなれば清々すると思うよ」
「ほらね?」
グドンは笑った。
「コウギシは…」
声を絞り出すようにヤセイが言う。
「今どう思っているかわからないけど、あなたが町を出ていきたいのであれば、反対しないと思う」
グドンはいまだ生気のないヤセイへ、
「コウギシは大丈夫なの? まだ目を覚まさない?」
と気遣うように訊く。
とたんに、ヤセイの眉間に皴が寄った。
「グドン、あなた、本当にどうかしてしまったの? 冗談を言ってるとしたら、許せないけど」
今度はグドンのほうが戸惑った。
長年離れていた故郷へ十年ぶりに帰ってきたら、周囲は皆知らない人ばかりになっていた、そんな感じだった。すべてが違和感だらけで、周りとの話がいっさい噛み合わない。
「コウギシがどうかしたの?」
嫌な予感がして、ヤセイの厳しい視線も無視して訊き返した。
「いなくなったじゃないの。それはあなたも知ってるでしょ?」
「いなくなった? ということは、怪我は治ったの?」
グドンは冗談を言っているのでもなければ、何か魂胆があって演技しているわけでもない、ヤセイやコタンフを始め、全員がそう感じとった。だとしたら、どういうことか?
「あなた、本当に頭でも打ったんじゃないの? 気分は悪くない?」
ヤセイがむしろ心配そうな声を出す。
全員がグドンを奇妙な目で見つめていた。
グドンは考える目で小さく首を振った。
この町では今、何か自分の理解できないことが起こっているんだ。それとも、おかしくなっているのは自分か?
話が思わぬところで脱線しかけているのを感じたグドンは、
「コウギシの怪我はともかく、これで、二対二だね。いや、実際においらに拘ってるのは、幹部の中でもムダイだけ」
と話を本筋に戻した。
「しかも、それはおいらのためじゃない。何か別の理由があるんだ。そうは思わない? いったい彼にどんな利益があるのか? おいらは以前からずっと皆に訊きたいと思っていた。ムダイの目的は何? ホウカ同様、おいらのことなんて好きでも何でもないのに」
「それはおれも不思議に思っていた」
とコタンフ。
「ヤセイには悪いけど、コウギシがグドンを引き留めていたのは、セイイツが戻ってくることを期待してのことさ。でも、ムダイが拘る理由は、さっぱりわからない。ムダイが反対していなければ、グドンはとうに町から放逐されていた。違うか?」
「だから、グドンの安全を考えてのことよ。この子が町を離れて、一人で生きて行けるはずないんだから」
ホウカが憤然と反論する。
「それなら、今は? 今のグドンなら、野垂れ死にすることはないと思うぜ」
「それはさっき話したろう」
とアンカイ。
「今は誰もこの町から出られない」
「いや、こいつだけは特別さ。町の厄介者なんだから。こいつが出ていくことに誰も反対しないよ。ムダイとホウカを除けばだけど…。アンカイ、おまえの場合は、ムダイを代弁しているだけだ。自分の意見じゃない」
アンカイは反論しかけたが、途中で口を閉じた。
「その点では、ホウカも同じだよね?」
とグドン。
「彼女にも何か理由があって、父親に反抗できない。まあ、それはともかく、大嫌いなおいらの許嫁になったり、必死で町に引き留めようとするのは普通じゃないよ。おいらは、きみの家庭問題の犠牲になるのは御免だよ」
ホウカの顔が赤くなり、それから白くなった。
アンカイとヤセイが彼女に視線を向けたが、何もいわない。二人も、ホウカの言動には合理性がないとずっと思っていたからだ。
嫌いな相手を侮辱しながら引き留めるというのは、誰が見ても不合理だ。
全員が黙ったまま、束の間の静寂が流れた。
辺りはすっかり明るくなり、朝日が波一つない水面で柔らかに輝いている。
グドンがふと見ると、舫い綱の解けた小舟が小さく揺れながら岸から離れ始めていた。
グドン以外、そのことに誰も気付いていない。
沈黙を破ったのはヤセイだった。
「グドンは、本当にこの町を出ていきたいの?」
弟の将来を案じる姉の声音だった。
「ここに残ったとして、おいらに未来なんてある? 何もさせない、何も食べさせない。拘束されたままの生活だよ。このひと月で、少しはおいらが変わったと思わない、ヤセイ? この町を出れば、おいらは少なくとも本来の自分を取り戻せるかもしれない」
グドンの言葉に、ヤセイは優しく頷いた。
「わたしは彼が出ていくことに賛成するわ」
彼女は自分の意思を表明した。
グドンに対する町の住民の態度は、優しさや思いやりからではなく、打算や恐怖によるものとわかっていた。それでも、ヤセイがグドンを引き留めていたのは、コウギシがそれを望んでいたからだ。
コウギシは彼女なりにグドンを大事に思っていたのだろうが、それはグドンへの愛ではなく、彼の父親に対する強い感情が原因だった。しかし、今は彼女ももう反対しない気がした。
「さっきもいったけど、おれも賛成だ。こいつがいなくなれば、何だか胸のつかえがとれる気がする」
と、コタンフも意思表明する。
「ジャキュウが何ていうか心配しなくていいの?」
ホウカが皮肉な目を向けた。
「それは、おまえが心配することじゃない。それになんなら、グドンの指の二三本、こいつに噛み切らせればいい。それで、一応、出ていくのを止めようとした証拠になる」
といつものヘラヘラ笑いを見せる。
撫でた獣の体が、見る間に、数倍に膨れ上がった。
それまでの可愛い小型犬ではなく、悪魔の血が混じったオオカミといった外見に変化する。口からのぞく牙は小型動物の首なら一瞬で噛み切りそうに見えた。
妖獣だ、とグドンにもすぐにわかった。
獣とは書くが、野獣などとはまったく異なる別の生き物だ。妖力があり、自由に姿を変えたり、空を飛んだりできる。
半妖の中には、妖獣を手なずけ手下として操っている者がいた。
小犬が妖獣に変化した瞬間、ヤセイが怖い顔で、グドンと獣の間に立った。
「冗談はやめなさいよ。怪我でもしたらどうするの?」
薄笑いを浮かべ、コタンフが妖獣への命令を解こうとしたとき、異変に気付いて顔色が変わった。
妖獣とグドンが睨みあっている。
その妖獣の目が、グドンに魅入られたように白濁し始めていた。




